第13話(最終話) 「最後の客/後悔フルコース」
その店に入れるのは、
死にたいと思ったことがある人間だけだ。
少なくとも、そういう人間にしか、
あの暖簾は見えない。
路地の入口に立った瞬間、空気の密度が変わった。冬の夜のはずなのに、ここだけ息が重い。肺に入る前に、喉の奥でひっかかる。
灯りはいつもより白い。蛍光灯の白じゃない。紙に当てた懐中電灯の白に近い。影が薄く、代わりに輪郭だけが浮く。俺の手の甲の血管が、ひどくはっきり見えた。
暖簾が揺れていた。
風はない。揺れは風の揺れじゃない。こちらの気配に反応している。反応というより、貼り付く準備をしているみたいだった。
文字が見える。いや、見えるという言い方が違う。読めるのではなく、刺さる。
本日:後悔
視線を外せない。外すと、背中に回ってくる。そんな確信があった。皮膚の内側が薄くなっていく感じがする。薄くなるところに、布が触れたらどうなるかが想像できてしまう。想像できるのに、止められない。
俺は息を吐こうとして、吐けなかった。息の出口が狭い。喉が乾く。乾いた喉の奥で、舌が硬くなる。
暖簾に手を伸ばす前に、布が先に触れてきた。
指先じゃない。頬でもない。胸の真ん中に、ぺたりと貼り付いた。布が皮膚に吸い付くような感触。汗じゃないのに、湿っている。湿り気が冷たい。冷たいのに、内側は熱い。
俺は反射で布を剥がそうとして、指が空を掴んだ。暖簾は目の前にある。けど、同時に俺の皮膚の内側にもある。剥がせない。
足が勝手に一歩進んだ。
床板が鳴った。音が高い。乾いた音なのに、耳の奥に残る。残り方が、店の中の音だった。
暖簾の向こうへ、俺は押し込まれた。
店内は、いつもと同じ造りのはずだった。カウンター。客席。狭い通路。鍋の置かれた台。いつもの場所にいつもの物がある。なのに、違う。
席が、少ない。
というより、数えようとした瞬間に、数える対象が消える。視界の端にあったはずの卓が、次に瞬きしたときには影だけになる。影だけの家具は、そこにあるのに、ない。存在しているのに、触れられない。
カウンターだけは残っていた。残っているというより、ここだけが固定されている。
カウンターの向こうに店主がいる。腕を組んで立っていた。いつもみたいに包丁を研いだり、鍋を覗いたりしていない。待っている。待っている姿が、妙に人間に見えた。
俺はカウンター前に立ったまま、座り方が分からなかった。座れば、戻れなくなる気がした。
「入ったな」
店主が言った。声は低い。低いのに、乾いている。
「入った、って」
俺の声が掠れた。喉が痛い。痛みが喉だけじゃない。胸の内側、鎖骨の裏あたりが、じわじわ熱い。
「今日は俺が客?」
俺は言いながら、自分の言葉が薄いと思った。冗談に寄せたかった。冗談にすれば、逃げ道ができる。逃げ道ができると、後悔が後ろに下がる。
店主は首を振らなかった。頷きもしなかった。その代わり、俺の目を見た。
「最初から客だ」
言い切り方が短い。短いのに、逃げ道を塞ぐ。
俺はカウンターの椅子に手をかけて、座った。座った瞬間、背中に冷たい汗が浮いた。背骨の一本一本が意識できる。意識できるのに、体は動かない。
他の席が消えた。
本当に消えた。視界の端でぼやけていた影が、すっと引いた。店はカウンターと俺と店主だけになった。狭い。狭いのに、外に広がる闇が深い。出口がどこか分からない。
店主がカウンターの内側から出てこないのが、逆に怖かった。出てこないのは距離だ。距離があるのに、支配されている。
「献立」
店主が言った。手を動かす気配がないのに、言葉だけで台所が動き出す気がした。
「前菜。言いそびれた言葉」
俺の舌が勝手に動いた。動いたのに、唾が出ない。唾が出ないのに、舌だけが動く。
「椀。飲み込んだ怒り」
喉の奥が熱くなる。怒りという単語が熱い。第七話の汁物の熱が、今になって戻ってくる。
「焼き。切れなかった執着」
指先が冷えた。執着は手に残る。触っていたものの形が、離したあとも残る。
「白飯。空白」
胃がきゅっと縮んだ。空白は楽じゃない。選べなくなる。選べなくなるのに、選びたくなる。
「主菜。後悔煮込み。本体だ」
店主は淡々と言った。淡々としているのに、言葉が重い。重いから、体が反応する。反応が先に出る。胃が拒む。喉が乾く。指が震える。
俺は息を吸って、吐こうとして、また吐けなかった。呼吸が浅い。浅い呼吸は、追い詰められている呼吸だ。
「食べきれるのか」
店主が言った。挑発じゃない。確認にも聞こえない。ただの問いかけ。問いかけが残酷だった。食べきれないなら、どうなる。代償は。欠損は。境界は。
俺は口を開いた。
「代償は」
言いかけて、言葉が噛み合わないのを感じた。代償を知りたいのか。代償を避けたいのか。説明してほしいのか。説明されると楽になるのか。楽になるのは空白に近い。
店主は答えない。答えないまま、カウンターの上に小皿が置かれた。
いつ置いた。置く音がなかった。音がないのに、皿だけがある。白い皿。白が痛い。
前菜。
小さな、細い何か。形がはっきりしない。薬味みたいに見える。匂いがない。匂いがないのに、喉の奥がひりつく。ひりつきが、言葉の形に似ている。
「食え」
店主が言った。命令じゃない。促し。促しが怖い。
俺は箸を持った。箸が軽い。軽いのに、指が重い。重い指で箸を動かして、前菜を口に運んだ。
舌に触れた瞬間、味がしないのに、単語だけが口の中に転がった。
言いそびれた短い一言。
口の奥が勝手に形を作る。声帯が震えようとする。震えるのが怖い。怖いから噛み締めた。噛み締めた瞬間、歯の裏が痛い。痛いのに、その短い一言だけが舌の上で膨らむ。
言えない。
言えないのに、言葉だけが戻ってくる。戻ってくると、喉が痛い。喉の痛みは、言葉を通そうとする痛みだ。
店主は何も言わない。「言え」とも「言うな」とも言わない。中立は、ここで一番残酷だ。
俺は箸を置いた。置くと、手が震えるのが隠せない。震えは、怒りか、恐怖か、どっちだ。どっちでもある。混ざっている。
「それが前菜だ」
店主が言った。淡々と。淡々としたまま、椀が置かれた。
椀から湯気が上がる。湯気が、店の匂いそのものだった。だしの匂いでも、味噌の匂いでもない。感情の湯気。服に残る匂い。
俺は椀に顔を近づけた。近づけただけで、喉がさらに乾いた。乾きが、怒りを欲しがっている。
椀の中は透明に近い。透明の中に、薄い油の膜が浮いている。油膜が揺れている。俺の呼吸に反応している。
俺は口をつけた。
熱い。熱いのに、味は薄い。薄いのに、喉の奥が焼ける。焼ける感覚が、飲み込んだ怒りの形そのものだった。飲み込んだ怒りは胃に落ちない。喉に残る。喉の奥にひっかかる。
俺の頭の中に、職員室の笑い声が戻った。悪意じゃない顔。無自覚な軽さ。笑いの種。俺が笑って流した瞬間の、腹の奥の冷え。
冷えが、今は熱い。
言い返せなかった言葉が、喉の奥に溜まっている。溜まっているのに、出せない。出すと壊れる気がする。壊れるのは誰だ。俺か。相手か。どっちもか。
俺は椀を置いた。置くときに少しこぼした。こぼれた汁が指先につく。ついた瞬間、指先がじんと熱くなる。熱が残る。怒りは凶器になる。料理する側に回った瞬間に。
「怒りは飲めたか」
店主が言った。
「飲んだだけです」
俺は言った。声が掠れない。掠れないのが怖い。怒りに慣れているみたいに聞こえる。
店主は小さく鼻で息を吐いた。笑いじゃない。確認の息。
焼きが置かれた。
焦げの匂いがする。焦げは生活の匂いだ。台所の匂いだ。焦げは、取り返しのつかなさの匂いでもある。
焼きは小さな串に刺さっている。肉にも魚にも見える。何かの塊。表面が黒い。黒いのに、光っている。油が照りを出す。照りが、執着の照りに見える。
俺は箸で掴んだ。箸が滑った。滑るのは油のせいだけじゃない。指先が冷たいからだ。冷たい指は、掴む力が弱い。
もう一度掴んで、口に入れた。
硬い。噛んでも噛んでも、ほどけない。ほどけないのに、焦げの苦みだけが先に出る。苦みが舌に残る。残る苦みが、切れなかった執着の残り方だ。
頭に浮かぶのは、特定の誰かの顔じゃない。特定の出来事でもない。もっと単純な形だ。
この店。
暖簾の文字。
店主の言葉。
台所だ。混ぜるな。分けろ。
俺がここに戻ってきてしまう理由。ここに来ると、楽になるわけじゃない。むしろ痛い。痛いのに、戻ってくる。痛みの輪郭がはっきりするからだ。輪郭がはっきりすると、自分の割れ目が見える。見えると、怖い。怖いのに、見たくなる。
それが執着だ。
俺は串を皿に戻した。食べきれなかった。噛み切れない。噛み切れないまま戻すのは、いちばん嫌な形だ。途中まで口に入れたのに、戻す。中途半端。中途半端が、後悔を呼ぶ。
「切れないな」
店主が言った。
「切り分ける技術は教えましたよね」
俺は言ってしまった。言い方が少し尖っている。尖りは怒りの余りだ。余った怒りが言葉に出る。
店主は俺を見た。目が冷たい。冷たいのに、どこか疲れている。
「技術があっても、執着は切れない」
店主が言った。
「切れるのは言葉だ。執着は肉だ。火を入れたら縮む」
縮む肉。縮むのは、熱のせい。熱は、感情の熱。熱を入れれば形が変わる。形が変わっても、消えない。むしろ硬くなることがある。
俺は口の中の苦みを飲み込んだ。飲み込むと、胃が痛い。痛みが腹の奥に落ちる。落ちた痛みが、まだ残る。
白飯が置かれた。
真っ白い。湯気が薄い。匂いがほとんどない。米の匂いがしない。炊きたての甘さがない。そこにあるのは白だけだ。
空白。
俺は箸を持ったまま、動けなかった。白を口に入れた瞬間、何かを捨てる。第八話の客が笑って、反応が薄くなっていった。財布を落としても気にしなかった。大事な連絡を後回しにした。選択の痛みを失っていた。
選択の痛みを失うと、楽に見える。楽に見えるのが怖い。楽は麻痺だ。麻痺は奪う。奪われると、選べなくなる。
「食べるか」
店主が言った。
「食べません」
俺は即答した。即答ができるほど、怖い。怖いほど、避けたい。避けたいのに、白は目の前にある。目の前にある白が、俺の名前に重なる。
真白。
白紙。
何も書かれていない。
店主が俺の名前をつけたわけじゃない。親がつけた。けど、この店にいると、その名前が別の意味を持つ。白紙は何もない。何もないのは、生きていない。
俺は白飯から視線を逸らした。逸らすと、視界の端で白が残像になる。残像がしつこい。しつこさが執着の照りだ。
店主は何も言わない。責めない。勧めない。中立のまま、主菜が置かれた。
鍋の匂いがする。煮込みの匂い。だけど、肉じゃない。野菜じゃない。懐かしい匂いでもない。匂いが、記憶の奥の湿り気を引っ張り出す。奥が濡れているのが分かる。
皿の中は黒い。黒い汁。照り。粘り。煮詰めたような濃さ。濃さが、後悔の濃さだ。
箸を入れた瞬間、箸先が重くなった。食べ物を掴んだ重さじゃない。箸が、泥に刺さった重さ。引き上げると、糸を引く。糸が細い。細い糸が、言い訳の糸みたいに見える。
俺は口に運ぼうとして、止まった。
胃が拒んでいる。拒むのは味じゃない。匂いでもない。来るものが分かっているからだ。
具体の出来事が、映像としてはっきり出てくるわけじゃない。はっきりしない断片が、前後だけを持って浮かぶ。
夜の帰り道。
スマホの画面。
打って消した文字。
返信しなかった。
誰かの名前を口にしかけて飲み込んだ。
腕を掴んだ感触。
濡れた袖。
嘘をついた舌の乾き。
説明できないのに止めたかった瞬間。
止めたかったのは相手のためだったのか、自分が怖かったからだったのか。混ざったままの問いが、煮込まれている。
俺は箸を皿に戻した。戻した瞬間、手の甲に汗が浮いた。汗が冷たい。冷たい汗が、背中を滑る。
「食べないのか」
店主が言った。
「食べられない」
俺は言った。言い訳じゃない。事実。事実は短い。短い事実が、俺の喉を焼く。
「胃が拒んでる」
俺は続けた。続けると、願望が混ざりそうになる。願望が混ざる前に止めた。
店主はしばらく黙っていた。黙りが長い。長い黙りが、店の外の闇を濃くする。濃い闇は、逃げ道を消す。
「ほらな」
店主が言った。声は淡々としている。
「お前は白紙じゃない」
俺は反論できなかった。白紙じゃない。白紙なら食える。白紙なら何も痛まない。痛まないなら、皿係はここで働ける。痛む奴はここで働けない。第九話の言葉が、今の俺に返ってくる。
「白紙なら食える」
店主が繰り返した。
俺は笑えなかった。白紙なら食えるという言い方が、褒めでも救いでもない。確認だ。確認が痛い。痛いのに、少しだけ息が深くなった。深くなるのは、拒めたからだ。拒めたことで、まだ終わっていない側が出た。
俺は皿を見た。黒い煮込み。箸を持っている手が震えない。震えないのが怖い。震えないのは、もう麻痺しているからか。それとも、拒む決意が固いからか。どっちだ。
「代償は」
俺は言った。
ここまで食べた分。前菜。椀。焼き。口に入れた分だけ、何かが欠ける。欠けるのはいつも、説明されない。説明しないことが取引の形だ。主体は客。主体は俺。主体なら、代償を引き受けるべきだ。
「代償は何だ」
俺は言い直した。言い直すと、言葉が硬くなる。硬いのは怖いからだ。
店主は目を細めた。帳簿を出さない。出さないのは、説明が免罪符になるからだ。
「代償が欲しいのか」
店主が言った。
俺は答えられなかった。代償が欲しいのか。代償が怖いのか。代償を知れば、軽くなるのか。軽くなるのは救いに似る。救いは危険だ。
俺は舌を噛んだ。血は出ない。出ないように噛む。噛むと、少しだけ現実に戻る。
「……分からない」
俺は言った。言った瞬間、喉が熱くなった。分からないと言うのは、弱い。弱いのに、正しい形だ。分類でいうと、事実に近い。
店主が小さく息を吐いた。鼻じゃない。口から。乾いた息。
「代償はもう払ってる」
店主が言った。
「ここに来た時点で」
俺は動けなかった。来た時点で払っている。払っているのは、何だ。時間か。現実か。匂いか。言葉か。口が店に属する。服に湯気が残る。物が混ざる。境界が侵食する。
俺の部屋に湯気の匂いがした。椅子が湿っていた気がした。佐倉が夢を見た。匂いが服に残る気がした。現実側の知人が路地の話をした。
払っている。
俺はもう、客として払っている。
店主が言った。
「食べきったら、もっと欠ける」
淡々とした声。淡々としているのに、刃がある。食べきらなければ、今の欠けで止まる。止まるのは救いじゃない。取引の中止だ。中止が許されるのか。許されるなら、なぜ。店は中立だ。中立なら、拒否も選択だ。
俺は箸を置いた。置く音が小さい。小さい音なのに、店内に響く。響くのは、他の席が消えているからだ。俺と店主しかいない。俺の音が、全部になる。
俺は店主を見た。店主の目は冷たい。冷たいのに、その冷たさが今日だけ違う気がした。違うのは、俺の方かもしれない。共感が薄れて怖い、と感じた第九話の夜とは違う。薄れた共感の代わりに、別の何かが立っている。
選ぶ、という動作。
俺は口を開いた。
「生きたいわけじゃない」
声が震えなかった。震えない。震えないのに、喉が痛い。痛みがあるから嘘じゃない。
「でも」
そこで言葉が一瞬詰まった。詰まるのは、言葉が重いからだ。重いのに、出したい。
「まだ終わらせたくない」
言った瞬間、口の中が乾いた。乾いたのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。軽くなるのは救いじゃない。言葉にしたからだ。白紙に文字が入った。入った文字が、汚いかもしれない。整ってないかもしれない。けど、自分の言葉だ。
店主は何も言わなかった。しばらく黙って、目を逸らした。逸らした先は棚の奥。木箱のある方。指輪のある方。人間だった痕跡。
店主の指先が、カウンターの縁を押さえた。押さえる指が少しだけ震えている。震えは小さい。小さいのに、俺は見逃さない。見逃さない自分が冷たくて嫌だ。嫌だと思えるのが、まだ人間の側だ。
「……だろうな」
店主が言った。声が掠れていた。掠れは、喉の乾きの掠れだ。
「それが残ってるから、食えない」
俺は返事ができなかった。残っている。終わらせたくない、が残っている。残っているのは執着にも似ている。けど、執着と生の抵抗は近い場所にある。近いから混ざる。混ぜるな。分けろ。分けるのは難しい。
店主が立ち上がった。カウンターの内側から出て、暖簾の方へ歩いた。歩く足音がする。足音が現実の足音だ。人間の足音。店主が外側に出るのは珍しい。珍しい動きは、決意の動きだ。
店主が暖簾を開けた。
外の闇が見えた。路地の闇。いつもより近い。近いのに、吸い込まれる感じがない。吸い込まれる感じがないのは、出口が現実に繋がっているからだ。比喩じゃない。ここは実在の境界だ。
「帰れ」
店主が言った。
命令だ。短い命令。短い命令は強い。強いのに、そこに含まれているのが救いじゃないのが分かる。追い出す。追い出すことで、混ざるのを止める。止めるための行動。救うという言葉を使わない行動。
俺は椅子から立ち上がった。立ち上がると、膝が少し笑った。笑うのは力が抜けるからだ。力が抜けるのは、逃げられるからだ。逃げられると思うのが怖い。逃げるのは正しいのか。正しいを欲しがるのが危険だ。
「代償は?」
俺は訊いた。さっきの問いを、もう一度。今度は言葉がまっすぐ出た。まっすぐ出るのが、また怖い。
店主は俺を見た。
「代償はもう払ってる」
さっきと同じ言葉。繰り返し。繰り返しは核になる。台所だ。混ぜるな。分けろ。代償はもう払ってる。
「ここに来た時点で」
店主は繰り返した。繰り返しのあと、店主の声が少しだけ低くなる。
「だから、これ以上欠けるな」
俺は息を止めた。
欠けるな。という言葉は命令だ。けど、救いの命令じゃない。危険の回避だ。前任の皿係を思い出す。救いたくて混ぜた。混ぜて壊れた。店主は同じ道を歩かせない選択をしている。救わない哲学を守りながら、俺を追い出す。矛盾しているのに、筋が通っている。
俺は暖簾の前に立った。布が皮膚に貼り付く感覚は、まだ残っている。残っているのに、今は剥がせそうな気がした。剥がせそう、という感覚が、現実側の手触りに近い。
俺は一歩踏み出した。
路地に出た瞬間、空気が急に冷たくなった。冷たい空気が肺に入る。入ると、喉の乾きが少しだけ和らぐ。和らぐのに、胸の奥が痛い。痛いのは、後悔煮込みを食べきれなかったからだ。食べきれなかったのに、戻された。戻されたことで、後悔が残る。残る後悔が、生きている証拠みたいで嫌だ。
振り返ると、暖簾はなかった。
あるはずの場所には、ただの古い壁と、濡れた地面と、街灯の影があるだけだった。湯気の匂いも薄い。薄い匂いが、鼻の奥にだけ残る。服の内側に残っている気がする。残っている気がするのが、境界の侵食だ。
俺は手のひらを見た。何もついていない。なのに、布の湿り気の感触だけが残っている。残っている感触が、口の中の乾きと繋がっている。
歩き出そうとして、足が止まった。
俺はポケットからスマホを取り出した。画面が冷たい。冷たいガラスは現実だ。現実の冷たさは、店の冷たさとは違う。違うのに、似ている。
佐倉のメッセージが残っていた。
今日、帰りに例のとこ見ていい? 行かないけど、遠目に。
俺は指で文字をなぞった。なぞると、ガラスが滑る。滑るガラスに、さっきの焼きの油の滑りが重なる。重なるのが嫌で、指を離した。
返信欄を開く。文字を打とうとして、止まる。止まるのは選ぶ痛みだ。選ぶ痛みが戻っている。戻っているのが、怖いのに、少しだけ安心する。安心するのが危険だ。安心は空白に寄る。空白は麻痺だ。
俺は短く打った。
やめとけ。
短い。短いのに、指が震えた。震えるのは、これが嘘じゃないからだ。嘘をつかずに言うと、怖い。
送信を押した。
押した瞬間、胃がきゅっと縮んだ。縮むのは後悔だ。後悔はすぐ来る。すぐ来る後悔は、選んだ証拠だ。選んだ証拠が痛い。
俺は歩き出した。家へ向かう道。普通の道。普通の道なのに、路地の温かい光が背中に残っている気がする。気がするだけで、肩が少し重くなる。
翌朝。職員室の空気は昨日と変わらない。コピー機の音。椅子の音。笑い声。誰かのため息。混ざっている。混ざっているのに、今日は一つだけ違うことがある。
昼食の時間、俺はコンビニの棚の前で立ち尽くさなかった。
立ち尽くしそうになった瞬間、手が止まりかけた。止まりかけたのに、俺は小さく息を吸って、弁当を一つ取った。いつもなら選ばないやつ。味が濃いやつ。濃い味は苦手だ。でも、今日は選んだ。選ぶと胃が痛い。痛いのに、選んだ。
席に戻って、蓋を開けた。湯気が上がる。湯気はただの湯気だ。けど、鼻の奥が一瞬だけ、あの店の匂いを探した。探した自分が嫌で、箸を取った。
箸を動かすと、手が少しだけ震えた。震えは、怖さの震えじゃない。生きている手の震えだ。そう言い切るのは美談だ。美談にしたくない。だから、俺はただ箸を動かした。
スマホが震えた。佐倉からの返信。
分かった。ありがとう。なんかさ、昨日の夜、匂い消えた気がする。
俺は画面を見たまま、息を吐いた。吐ける。吐けるのに、胸の奥が痛い。痛いのは、俺のせいじゃない、と言い切れないからだ。言い切れないのが現実だ。
俺は短く返した。
よかった。
よかった、という言葉が軽い。軽いのに、俺の喉にひっかかった。ひっかかったのを、飲み込んだ。飲み込むと、胃が少し痛い。痛いのに、痛みがあることが、まだ麻痺していない証拠みたいで、また嫌だった。
夜。帰り道。駅前の人混みを抜けると、風が冷たい。冷たい風は頬を刺す。刺す冷たさが現実の刺し方だ。現実の刺し方は、痛いけど戻ってくる。
路地の方へ足が向きかけた。向きかけた瞬間、俺は足を止めた。止めたことで、腹の奥が痛む。痛むのは執着だ。執着がまだある。あるのが嫌だ。嫌だのに、止めた。止めたという事実が残る。
俺は別の道を選んだ。選ぶと痛い。痛いのに、選んだ。
家に着いて、靴を脱いだ。部屋の中は静かだ。静かなのに、椅子の脚の湿り気が気になって、指で触った。乾いている。ただの椅子だ。ただの木だ。
それでも、鼻の奥に薄い匂いが残っている気がする。気がするのは俺の割れ目が残っているからだ。割れ目が塞がったわけじゃない。塞がると麻痺になる。麻痺は奪う。奪われたら、選べなくなる。
俺は机の上のメモ帳を開いた。白い紙。白紙。白紙を見て、喉が少し乾いた。乾いたまま、ペンを取った。
何を書けばいいか分からない。分からないのに、ペン先が紙に触れた。
線が一本引けた。意味のない線。意味のない線なのに、白紙が白紙じゃなくなる。白紙に文字が入る。文字じゃなくても、痕が入る。
俺はその線を見たまま、息を吸った。吸える。吸えるのに、胸の奥が痛い。痛いのが続く。それでいい、とは言えない。言えないけど、痛いのが残っている。
数日後。職員室で、別の同僚が雑談の中で言った。
「最近さ、駅の向こうに変な路地あるって聞いたんだけど」
俺はプリントを揃える指を止めなかった。止めると、反応が出る。反応を出すと、言葉が属する。属したくない。けど、耳が勝手に拾う。
「夜だけ、なんか暖かい光が見えるって。気のせいかな」
同僚は笑った。笑いは短い。短い笑いは、まだひびがある笑いだ。ひびがあると、光が映る。
俺は頷かなかった。否定もしなかった。代わりに、プリントを揃え直した。紙の角が指先に当たる。紙の角は鋭い。鋭さが、現実の鋭さだ。
俺はただ言った。
「行かない方がいいですよ」
言った瞬間、喉が乾いた。乾きは残る。残る乾きが、店は終わらないことを示している気がした。
終わらない。
店は終わらない。
終わらないのに、俺は今日、昼食を選んだ。たったそれだけで、腹の奥が痛い。痛いのに、選んだ。選んだ痛みが、俺の中に残っている。
夜の帰り道、風が頬を刺した。刺す冷たさの向こうで、どこかの路地に、暖かい光が降りるかもしれない。降りるかもしれないだけで、俺の喉が少しだけ乾いた。
おわり




