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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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11/12

第12話 「店主の過去/皿係の前任者」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 昼の職員室は、音が多い。コピー機の吐き出す紙の音、椅子の脚が床を引っかく音、誰かの笑い声、誰かのため息。それらが混ざって、意味のある言葉だけを拾うのが難しい。


 俺は配布プリントを揃えながら、佐倉の声だけを探していた。探すという行為が、もう執着に近い気がして嫌だった。


「昨日さ」


 佐倉は机の端に肘をつき、声を落とした。落とした声は、周囲の雑音に溶けやすい。溶けやすいのに、俺の耳には残る。


「また、夢見た。あの路地の」


 俺は紙を揃える指を止めた。止めると、紙の角が微妙にずれる。ずれは、現実のずれに似ている。


「やめろって言っただろ」


「行ってないよ。夢だって」


 佐倉は笑った。けど、笑いが短い。短い笑いは、長く笑えないときの笑いだ。


「夢の中でさ、俺、暖簾を押しのけて入ってた。中が、あったかいの。やばくない? 俺、別に死にたいとか思ってないのに」


 死にたい。という言葉が出た瞬間、俺の喉が乾いた。乾きは、店の匂いが近い合図だった。


「それ、誰かに言うなよ」


 言ったあとで、言い方が硬すぎたと気づいた。硬い言い方は、隠していることがあるように聞こえる。


「言わないって。つーか、言っても信じないでしょ」


 佐倉は肩をすくめた。肩をすくめる癖は、平気を装う癖だ。平気なふりをする人間ほど、夜に揺れる。


「でもさ、変なんだよ。夢の中で俺、匂い嗅いでた。料理の匂い。俺、腹減ってるだけかな」


 腹が減っているだけならいい。匂いは、腹の話にできる。胃の話にできる。心の話にしなくて済む。俺はそれを望んだ。望んだ時点で、俺は自分のために話を軽くしている。


「疲れてんじゃないか」


 俺はそう言って、配布プリントを重ね直した。指先が紙の繊維に引っかかる。引っかかる感触は、現実に戻る手触りだ。


「疲れてるのはある。でも、なんかさ」


 佐倉は言葉を探すみたいに、口を閉じたり開いたりした。


「匂いが、服に残ってる気がする。帰っても。おかしいよな」


 俺は頷けなかった。頷くと、境界が現実だと認めることになる。否定すると嘘になる。どっちも混ざる。


「気のせいだ」


 俺はそう言った。気のせいという言葉が便利すぎて嫌だった。


「だよな」


 佐倉は笑って、いつもの調子に戻ろうとした。戻ろうとするのが、いちばん危うい。ひびの上に日常を塗ると、ひびが見えなくなる。そのぶん、割れ目が深くなる。


 午前の授業が始まる時間になり、俺は教室に向かった。廊下を歩く靴音が、今日は少し大きく聞こえる。大きく聞こえるのは、耳が敏感になっているからだ。敏感なのは、匂いを拾う準備ができているからだ。


 昼は現実だ。そう言い聞かせた。現実にいる限り、店は比喩でいられる。比喩でいれば、誰も巻き込まれない。誰も巻き込まれない、という言い方が、すでに遅れている気がした。


 


 夜。駅から家へ向かう途中、スマホが震えた。佐倉からの短いメッセージだった。


 今日、帰りに例のとこ見ていい? 行かないけど、遠目に。


 遠目に、という言い訳が嫌だった。遠目は、入り口だ。入り口は境界だ。境界を踏むと、暖簾が降りる。店主の言い方が頭に蘇る。


 俺は「だめ」と打って、消した。「やめろ」と打って、消した。文章を作ろうとするたびに、言葉が薄くなる。薄くなると、単語の輪郭が欠ける。


 結局、返信せずに歩いた。歩きながら、爪を掌に立てた。痛いと、余計な想像が減る。減ったはずなのに、鼻の奥に湯気の匂いが浮く。


 路地へ向かう足取りは、もう迷っていなかった。迷わないのが怖い。怖いのに、止められない。止められない自分を見たくないから、考えない。考えないのは空白だ。空白は、選べなくなる。


 路地の入口は、いつもより暗く見えた。暗いのに、奥に暖かい色が滲んでいる。滲みが昨日より強い気がする。気がするだけで、喉が乾く。


 暖簾の前に、人影はなかった。ほっとした瞬間、胸の奥が痛んだ。ほっとしたのは、俺が自分のために安心したからだ。佐倉のためじゃない。


 俺は一歩進んで、暖簾を見た。文字が浮いている。今日の文字は、読めない。読めないのに、意味だけが入ってくる。今日は閉じている、という感じだけが伝わる。伝わり方が、言葉じゃない。反応だ。


 俺は息を吐いて、暖簾を押しのけた。


 店の中は、いつも通りの明るさだった。湯気の匂いが濃い。濃い匂いは、喉を熱くする。熱いのに、口の中は乾いている。矛盾した乾きだ。


 店主はカウンターの中にいた。いつもなら包丁を研ぐか、鍋の様子を見るか、何かしら手を動かしているのに、今日は動きが少なかった。立っているだけに見える。立っているだけなのに、苛立っているのが分かる。


「今日は閉店だ」


 店主は俺の顔を見ないまま言った。言い方が硬い。いつもの「置いとけ」より硬い。


「え」


 俺の声が間抜けだった。閉店と言われたのが初めてで、反射が遅れた。遅れた反射は、店の中で浮く。


「客が来ても返す。お前も帰れ」


 店主は言った。

 帰れ、と言われると、居場所を奪われた気がする。居場所を奪われたと感じるのは、俺がここを居場所にしているからだ。居場所にしたくないのに、している。


「なんで」


 俺はカウンターの端を掴んだ。木が冷たい。冷たいのに、指の内側が熱い。


「台所だ」


 店主は短く言った。

 答えになっていない。答えになっていないのに、店主はそれで終わらせる気だ。


「台所って言えば済むと思ってます?」


 俺は言ってから、言葉が攻撃的だったと気づいた。攻撃的な言葉は、自分の怖さを隠す。隠しても、怖さは消えない。


 店主の肩が少しだけ動いた。ため息の前の動きだ。ため息は出なかった。出なかったぶんだけ、空気が重い。


「済まない」


 店主が言った。


「済まないから閉める」


「客が来るから?」


 俺は訊いた。

 店主の視線が一瞬だけ俺を捉えた。捉えた目は冷たい。冷たいのに、奥に薄い疲れがある。


「お前が来たからだ」


 店主が言った。

 俺の喉が詰まった。詰まると、次の言葉が出にくい。出にくいのに、言わなきゃいけない気がした。


「俺が来たから閉店って」


「今日は混ざりやすい」


 店主はそう言って、視線を逸らした。逸らした先は、棚の奥だった。棚の奥には何があるか、俺はもう知っている。木箱。指輪。隠す動作。人間の痕跡。


「何がですか」


 俺は一歩踏み出した。踏み出すと、床板が小さく鳴った。音は乾いている。乾いた音が、俺の胸の乾きと重なる。


「お前が」


 店主が言った。


「俺も」


 続けて、店主は言葉を切った。切ったのに、俺には分かった気がした。分かった気がするのが嫌だった。分かった気がするのは、店の言葉が俺の口に入り始めているからだ。


 暖簾が揺れた。誰かが外にいる。外の気配が、店の中に滑り込む。滑り込むのは匂いだ。匂いは媒体だ。


 店主が舌打ちした。小さな舌打ち。店主の人間癖。苛立ちを音にする癖。


「来た」


 店主が言った。


 俺は振り向いて、暖簾の向こうの影を見た。客だ。背が低い。コートが少し濡れている。濡れているのは外の雨か、店の湿り気か分からない。


「いらっしゃいませ」


 俺が口を開きかけた瞬間、店主が先に言った。


「閉店だ。帰れ」


 客は立ち尽くした。立ち尽くした体の揺れが、風の揺れに似ている。声が出ない。声が出ないのは、割れ目が大きいからだ。


「……入れるって」


 客が小さく言った。

 小さい声は、夜に溶ける。溶ける声は、助けを求めているように聞こえる。助けを求めている、と解釈した瞬間、俺は救いたくなる。救いたくなるのが危険だ。


「今日は閉店」


 店主が繰り返した。繰り返す声が硬い。硬い声は拒絶だ。拒絶が必要な夜がある。


 客は唇を噛んで、暖簾の向こうへ消えた。消え方が遅い。遅いのは、未練があるからだ。未練は執着だ。執着がこの店を呼ぶ。


 暖簾が静かになったあと、店の中の音が消えた。鍋の煮える音もしない。湯気だけが漂っている。湯気だけがあるのが、不自然だった。台所なのに、火がない。


「どうして断ったんですか」


 俺は言った。

 声が少し震えた。震えは怒りの震えにも、怖さの震えにも見える。どっちでもいいふりをしたくなった。


「今日は閉めるって言った」


「理由を」


 俺は言った。

 店主は俺を見ない。見ないのが腹立たしかった。見てほしかった。見てほしいと思うのが、もう依存に似ている。


「台所だ」


 店主がまた言った。

 俺は笑えなかった。ここで笑うと、冗談になってしまう。冗談にしたら、さっきの客が消える。消えた客に責任が残る。責任が残るのに、誰も拾わない。


「あなた、何者なんですか」


 俺は言った。

 自分でも驚くほど、真っ直ぐな問いだった。問いが真っ直ぐだと、逃げ道がない。逃げ道がないのは、相手にも自分にも痛い。


 店主の背中が少し固まった。固まるのは、答えがあるときだ。答えがあるのに、言いたくないときだ。


「何者でもない」


 店主は言った。


「ここは台所だ。それだけだ」


「違う」


 俺は言った。

 声が少し低くなった。低い声は、腹の奥の声だ。


「あなた、皿係って言葉を当たり前みたいに使う。俺を皿係にした。前にもいたからだろ」


 言い切った瞬間、喉が熱くなった。熱くなるのは、言ってしまったからだ。言ってしまうと、戻れない。


 店主の指先が、カウンターの縁を掴んだ。掴む指が白い。白いのは力が入っているからだ。力が入るのは、触れられたくない場所に触れられたからだ。


「帰れ」


 店主が言った。

 命令に近い声だった。命令は、相手を動かす言葉だ。動かせるほど、余裕がない。


「帰りません」


 俺は言った。

 言った瞬間、胃が痛んだ。痛むのは怖さだ。怖いのに、言う。言うことで、自分の割れ目を広げている気がした。


「なんで」


 店主が初めて、俺の顔を見た。

 見た目はいつも通り冷たい。でも、目の奥が少し赤い気がした。気がするだけかもしれない。気がするだけで、店主が人間に見える。


「佐倉が」


 俺は言いかけて止めた。

 名前は媒体だ。名前を出すと、その人が混ざる。混ざると戻らない。


「現実の人間が、路地に触れ始めてる」


 言い直した。言い直した分だけ、嘘が混ざる。嘘は必要だ。店主はそう言った。必要な嘘を重ねると、喉が乾く。


「匂いが漏れてる。夢に入ってる。俺のせいかもしれない」


 最後の一文が、勝手に口を出た。自己罰。講義で分けろと言われたやつだ。分けられないまま出てきた。


 店主は少しだけ目を細めた。


「せいにするな」


 俺は息を止めた。

 同じ言葉をまた刺された。刺されると、少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。


「なら、あなたが説明して」


 俺は言った。


「割れ目って何ですか。境界って何ですか。暖簾が降りる条件って」


 言いながら、自分の声が早口になっているのが分かった。早口は焦りだ。焦りは恐怖の裏側だ。


 店主は視線を逸らした。逸らした先は、棚の奥だった。俺はその方向を見た。見たくないのに見た。見た瞬間、胸の奥がひやりとした。


 店主が言った。


「お前は」


 言葉が途切れた。途切れるのは、言葉を選んでいるからだ。店主が言葉を選ぶのは珍しい。選ぶのは、人間の癖だ。


「前にも」


 店主は言って、黙った。

 黙った時間が長い。長い黙りは、言葉の刃を研ぐ時間だ。


「前にも、皿を洗ってた奴がいた」


 店主はようやく言った。

 俺の背中が冷えた。冷えるのは、確信に触れたからだ。


「優しい奴だった」


 店主は続けた。

 優しい、という形容はこの店であまり出ない。出るときは危険だ。優しさは救済欲に繋がる。


「客の話を聞いて、全部を自分のことみたいに受け取った。受け取って、混ぜた」


 混ぜた。

 その言葉が、店の床に落ちたみたいに重かった。混ぜるな、と繰り返された言葉が、過去形になった。


「混ぜたら、どうなるんですか」


 俺は訊いた。

 訊いた声が少し掠れた。喉が乾いている。乾きが増している。


「壊れる」


 店主は短く言った。

 壊れる。という言葉は便利だ。便利だから、具体が隠れる。隠れるから怖い。


「どっちが」


「どっちも」


 店主は言った。


「客が壊れるのは、元からだ。割れ目があるから来る。壊れる準備ができてる。でも」


 店主はそこで止めた。止めたのは、次が自分の話になるからだ。


「皿係が壊れた」


 店主は言った。

 俺の胃が縮んだ。縮むと息が浅くなる。浅い息で、俺は立っている。


「どうやって」


 俺は訊きかけて、言い直した。


「何が起きた」


 方法を訊くと、この話が危うくなる。危うい話にしたくない。けど、結果だけでは受け止めきれない。


 店主は、カウンターの上の布巾を指で押さえた。押さえる指が止まった。止まるのは、記憶に触れたときの止まりだ。


「客の感情を、皿係が自分の中に入れた」


 店主が言う。


「入れたら、出せなくなる」


 俺は黙って聞いた。

 出せなくなる、という言い方が、空白飯に似ていた。入れたまま動けなくなる。選べなくなる。


「客の後悔も、怒りも、執着も」


 店主は続けた。


「それを、自分の中で煮て、味付けして、正しい順番に並べて、相手に返そうとした」


 正しい順番。

 その言葉が刺さった。俺も最近、正しい順番を欲しがっている。正しい順番があれば、痛みが減ると思ってしまう。


「返せなかった」


 店主は言った。


「返すには火が要る。火は店が持ってる。人間が勝手に火を持つと」


 店主はそこで息を吸った。吸う息が浅い。浅い息は、怖さの息だ。


「火傷する」


 火傷。

 比喩なのに、生々しい。火傷は皮膚の話だ。皮膚は現実だ。現実の痛みとして伝わる。


「皿係は、客を救いたかった」


 店主の声は淡々としていた。淡々としているのに、言葉が重い。


「救いたいって思うほど、客の選択を奪う。奪って、自分の正しさで塗る。塗ったら、客は客じゃなくなる」


 俺は唇の裏を噛んだ。血は出ない。出ないように噛む。出ないように噛むのは、泣きたくないのと似ている。泣きたくない。泣くと、この話が救いになる。救いにしたくない。


「その皿係は」


 俺は訊いた。


「どうなった」


 店主は答えるまでに、少し時間がかかった。時間がかかるのは、答えが痛いからだ。


「いなくなった」


 店主は言った。


「店の中からも、外からも」


 外からも。

 その言い方が、返す相手がいない、という予感に繋がった。予感が、棚の奥の木箱に繋がる。


「死んだってことですか」


 俺は訊いた。

 訊いた瞬間、喉が詰まった。詰まるのは、言葉が重いからだ。重い言葉を口にするほど、口が店に属する。


 店主は首を振らなかった。頷きもしなかった。否定もしない。肯定もしない。その中立が残酷だった。


「それ以上は言わない」


 店主が言った。


「言えば、お前は救いたくなる。救いたくなって、混ぜる」


 俺は息を吐いた。

 吐く息が震えた。震えは寒さの震えじゃない。腹の奥の怒りが、行き場を探している震えだ。


「じゃあ」


 俺は言った。


「あなたは何をしたんですか。救わないって決めた? それで、この店を続けてる?」


 店主は黙った。

 黙りは、答えの前の黙りだ。黙りが長いほど、答えは刃になる。


「救うって言葉で、人は自分を許す」


 店主が言った。

 その声は淡々としているのに、刃物みたいに切れた。


「許したい奴が、一番危ない」


 俺の胸がひくっと縮んだ。

 許したい。俺も思っている。佐倉を守ったと思いたい。巻き込まれないようにしたと思いたい。自分が正しかったと思いたい。


「じゃあ、あなたは何もしたくないのか」


 俺は訊いた。

 訊きながら、自分が問い詰める側になっているのを感じた。問い詰めるのは、答えを欲しがることだ。答えは救いに似ている。救いは危険だ。


 店主が言った。


「したい」


 短い。

 その一言が、俺の腹の奥を熱くした。したい。なら、なぜしない。


「だから、しない」


 店主は続けた。

 矛盾。矛盾なのに、筋が通っている気がした。筋が通っている気がするのは、俺が店の言葉に慣れているからだ。


「したいから、しない?」


 俺は繰り返した。

 繰り返すと、言葉が口の中で乾く。乾いた言葉は、飲み込みにくい。


「したいって思った瞬間に」


 店主が言う。


「客はもう、俺のための客になる」


 俺のため。

 その言い方が、今までの回の全部を繋げた。説明じゃなく、構造で分かる。構造で分かった瞬間、吐き気が少し上がった。


「俺が楽になりたい。俺が正しいと思いたい。俺が救ったと言いたい」


 店主の言葉は短いのに、刺さる。刺さるのは、俺の中に同じものがあるからだ。


「だから、しない」


 店主は繰り返した。


「ここは台所だ。台所は、腹を満たす場所じゃない。処理する場所だ」


 処理。

 その言葉が、帳簿の回を思い出させた。救済ではなく取引。救うではなく欠損。客は主体で選ぶ。主体を奪わない。奪わないために、救わない。


 俺は視線を落とした。落とすと、床板の木目が見える。木目は一つとして同じじゃない。違うから並べられる。全部同じなら区別できない。区別できないのが空白だ。


「店は」


 俺は言った。


「どうやってできたんですか」


 店主の目が、一瞬だけ細くなった。嫌な質問だという反応だった。反応があるなら、答えがある。


「割れ目にできる」


 店主が言った。


「割れ目を持つ者が、割れ目を踏むと、暖簾が降りる」


 俺は息を止めた。

 割れ目を持つ者。俺だ。割れ目を踏む。俺が歩く場所。路地。夜。あの入口。


「割れ目って」


 俺は言って、自分の喉が乾いているのを感じた。乾きが、答えを欲しがっている。


「死にたいと思ったこと、ですか」


 店主は否定しなかった。肯定もしなかった。

 でも、その沈黙が肯定だった。


「割れ目がない人間には映らない」


 店主が言う。


「割れ目がある人間は、自分で気づいてなくても薄い。薄いところから、湯気が漏れる」


 湯気。匂い。服に残る。夢に入る。

 佐倉の言葉が頭の中で反復した。匂いが服に残ってる気がする。夢の中で台所があったかい。


「俺の割れ目が」


 俺は言った。

 自己罰になりかけたのを、自分で止めた。分けろ。事実と願望と自己罰。今のは自己罰だ。


「俺の割れ目が、佐倉に触れた?」


 事実に寄せる。寄せても、喉が詰まる。詰まるのは怖さだ。


 店主は言った。


「触れたかもしれない」


 かもしれない。

 その曖昧さが、逆に現実だった。科学じゃない。正確な説明はない。あるのは条件と反応だけ。


「匂いは残る」


 店主が言う。


「物は混ざる」


 次。


「言葉は属する」


 最後。

 三つの媒体。俺はそれを聞いた。聞いたのに、止められなかった。止められない自分が怖い。


 俺は棚の奥を見た。店主の顔が硬くなる前に、もう一歩踏み込んでしまった。


「その指輪」


 俺は言った。

 口にした瞬間、店の空気が少し冷えた気がした。気がするだけだ。けど、店主の反応がそれを証明した。


「触るな」


 店主が言った。

 短い命令。短い命令は強い。


「返せないって言った」


 俺は言った。

 自分でも驚くほど冷静な声だった。冷静なのは、共感が薄れているからだ。薄れていることが怖い。でも、今は必要だ。


「返す相手がいないんですか」


 言い切った瞬間、店主の手が一瞬震えた。

 震えは小さい。小さいのに、俺は見逃さなかった。見逃さない自分が、いやに冷たい。


 店主は棚の前に立って、木箱を引き寄せた。引き寄せる動作が速い。隠すためじゃない。奪い返すための速さだ。


「見るなって言った」


 店主が言った。

 声は低い。低い声は、怒りの声じゃない。恐怖の声だ。守りたいものを守る声だ。


「俺は皿係ですよね」


 俺は言った。

 自分の口が勝手に動く。店の言葉が出てくる。属している。


「皿係は、混ぜないためにいる。そう教えたのはあなたです」


 店主の目が俺を刺した。刺す目なのに、奥が少し揺れている。揺れが、人間の揺れだ。


「皿係が壊れたなら」


 俺は言った。


「あなたは、その前任者を」


 言葉が途切れた。途切れたのは欠損じゃない。言ったら戻れない気がしたからだ。戻れないのは、たぶん俺も同じだ。


 店主は答えなかった。

 答えない代わりに、木箱の蓋を開けた。


 指輪が見えた。銀色で、くすんでいる。指輪の内側に刻みがある。刻みは、文字のように見える。読めない。読めないのに、喉が熱い。熱いのに、指先が冷たい。


 店主の指が指輪を掴んだ。掴み方が、乱暴じゃない。丁寧でもない。慣れている。何度も触れてきた触れ方だ。


「それは」


 店主が言った。


「返せない」


 返せない。

 俺は頷いた。頷くと首が痛い。痛いのは、理解したからだ。理解したことが痛い。


「返す相手がいない」


 俺は繰り返した。

 繰り返すのは確認だ。確認すると現実になる。現実になると、救いたくなる。救いたくなるのが危険だ。


 店主が木箱を閉めた。閉め方が慎重だった。慎重さは、壊れやすいものを扱う慎重さだ。


「俺は」


 店主が言いかけて、止めた。

 止めた瞬間、店の中の空気が重くなる。重さは、言葉の代わりだ。


「俺も、皿を洗ってた」


 店主はようやく言った。

 俺の背中が冷えた。店主が自分の過去を口にした。口にするのは、店主の中で何かが崩れている証拠だ。


「ここで?」


 俺は訊いた。


「ここで。前任の、さらに前だ」


 店主は言った。


「店が今みたいな形になる前、もっと薄かった」


 薄かった。

 境界が薄い。薄いと、現実と混ざりやすい。混ざると壊れる。


「人間だった」


 店主は続けた。


「今も人間だ。たぶんな」


 たぶん。

 その言い方が嫌だった。人間かどうかが曖昧になるのは、空白に近い。空白は楽じゃない。選べなくなる。


「俺が救わない理由は」


 店主が言う。


「救ってしまったからだ」


 救ってしまった。

 過去形。過去形が、今の残酷さを作った。


「救ったと思った」


 店主は言い直した。


「救ったと思った瞬間に、相手は俺のための相手になった。俺はそれに気づかないふりをした」


 気づかないふり。

 知らないふり。知って来る。知らないふりをするだけ。帳簿の回の言葉が繋がる。店主はずっと同じことを言っている。言っているのに、俺は今日初めて理解した気がした。


「許したかったんだろうな」


 店主が言った。

 自分のことを他人みたいに言う。距離を取る言い方。距離を取らないと壊れるのだろう。


「俺が」


 店主の声が一瞬だけ震えた。震えはすぐ消えた。消えるのが余計に痛い。


「俺が、いちばん危なかった」


 俺は何も言えなかった。

 言えば、慰めになる。慰めは救いに似ている。救いは危険だ。だから黙る。黙ると、喉が乾く。


 暖簾が揺れた。

 店主が顔を上げた。焦る顔だった。焦る顔は、店主の人間癖だ。感情が外に出た。


「閉店だって言っただろ」


 店主が低く言った。

 外に客がいる。俺にも分かる。気配が濃い。濃い気配は、割れ目が深い気配だ。


 俺は立ち上がって暖簾の方へ行こうとした。行こうとした瞬間、店主が言った。


「来るな」


 短い命令。

 命令は強い。強いのに、俺の足は止まらなかった。止まらないのは、命令より匂いが強いからだ。匂いは反応だ。反応は意志より先に来る。


「客ですか」


 俺は訊いた。

 自分の声が少し上ずっている。上ずるのは怖いからだ。


「違う」


 店主が言った。


「客じゃない」


 違う。客じゃない。

 なら、何だ。答えが出る前に、暖簾の文字が俺の目に入った。


 本日:後悔フル


 そう読めた。読めた瞬間、喉が熱くなった。熱くなるのに、口の中が乾く。後悔。フル。薄味じゃない。薄切りじゃない。全部だ。


 俺はふらついた。

 ふらついたのに、足が前へ出る。出ると、床板が鳴る。鳴る音が、いつもより大きい。大きい音は、店が俺を呼んでいる音に聞こえた。


「真白」


 店主が初めて俺の名前を呼んだ。

 名前で呼ばれると、身体が固まる。固まるのに、胸の奥がひやりとする。名前が自分のものじゃないみたいに感じる。真白。白紙。何も書かれていない。生きていない。


「行くな」


 店主がもう一度言った。

 声が少し掠れていた。掠れは、喉の乾きの掠れだ。店主も乾いている。乾いているのは、境界が緩んでいるからだ。


 俺は暖簾に手を伸ばした。

 手のひらが汗で湿っている。湿りが、店の湯気と混ざる。混ざるな、と頭の中で言う。言うだけで止まらない。止まらないのが、俺の割れ目だ。


「俺が」


 言いかけた瞬間、単語が欠けた。

 欠けたのは、たぶん「客」という言葉だった。客という言葉が出ないのに、後悔だけは出る。店の言葉だけが残る。属している。


 店主がカウンターの中から出てきた。出てくるのは珍しい。出てくるのは、止めたいからだ。


 店主の手が、俺の腕を掴んだ。掴む力が強い。強いのに、指先が震えている。震えは小さい。小さいのに、確かに震えている。


「お前が最後になる」


 店主が低い声で言った。

 最後。という言葉が、胸の奥に落ちた。落ちると息が浅くなる。浅い息で、俺は暖簾の文字を見続けた。


「最後の客は」


 店主が言う。


「お前だ」


 俺は反論できなかった。

 反論すると、安心したくなる。安心は空白だ。空白は選べなくなる。俺は選びたくない。選ぶのが痛い。痛いのに、選ぶしかない。


 暖簾が、俺の目の前で静かに揺れた。

 揺れは、風じゃない。呼びかけだ。呼びかけに応えると、暖簾が降りる。割れ目を踏むと、暖簾が降りる。店主の言葉が、構造として俺の中で噛み合った。


 俺は、自分が割れ目だと理解した。

 理解した瞬間、喉の奥が熱くなった。熱は涙の熱じゃない。吐き気の熱に近い。吐き気が上がってきて、飲み込んだ。飲み込むと、舌が乾いた。乾いた舌で、俺は言った。


「……俺は、客じゃない」


 言ったつもりだった。

 でも、声が小さかった。小さい声は、境界の前では無力だ。


 店主が言った。


「皿係は、客と同じだ」


 短い。

 短いのに、逃げ道を塞ぐ。


「割れ目がある。だから、見える。だから、呼ばれる」


 店主の指先が、俺の腕を掴んだまま少しだけ緩んだ。緩むのは諦めじゃない。諦めたくないのに、止められないと理解した緩みだ。


「来るなって言っても」


 店主が言った。


「お前の足が動くのは、俺が一番知ってる」


 俺は店主を見た。

 店主の目の奥が揺れている。揺れは、冷笑じゃない。冷笑じゃないのが、いちばん怖い。冷笑なら嫌えばいい。嫌えば距離が取れる。揺れは距離を近づける。近づけると混ざる。


 俺は暖簾に触れた。

 布が冷たい。冷たいのに、向こう側の空気は暖かい。暖かい空気は、腹の奥の後悔を煮立てる気がした。


 店主の声が背中に刺さった。


「真白」


 俺は返事をしなかった。

 返事をすると、名前が店のものになる気がした。


 暖簾の下、光が揺れている。

 揺れている光が、俺だけに見えている気がした。俺だけに、後悔フルが読める。読めるのは、俺が割れているからだ。


 俺の足が、前へ出た。

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