第12話 「店主の過去/皿係の前任者」
その店に入れるのは、
死にたいと思ったことがある人間だけだ。
少なくとも、そういう人間にしか、
あの暖簾は見えない。
昼の職員室は、音が多い。コピー機の吐き出す紙の音、椅子の脚が床を引っかく音、誰かの笑い声、誰かのため息。それらが混ざって、意味のある言葉だけを拾うのが難しい。
俺は配布プリントを揃えながら、佐倉の声だけを探していた。探すという行為が、もう執着に近い気がして嫌だった。
「昨日さ」
佐倉は机の端に肘をつき、声を落とした。落とした声は、周囲の雑音に溶けやすい。溶けやすいのに、俺の耳には残る。
「また、夢見た。あの路地の」
俺は紙を揃える指を止めた。止めると、紙の角が微妙にずれる。ずれは、現実のずれに似ている。
「やめろって言っただろ」
「行ってないよ。夢だって」
佐倉は笑った。けど、笑いが短い。短い笑いは、長く笑えないときの笑いだ。
「夢の中でさ、俺、暖簾を押しのけて入ってた。中が、あったかいの。やばくない? 俺、別に死にたいとか思ってないのに」
死にたい。という言葉が出た瞬間、俺の喉が乾いた。乾きは、店の匂いが近い合図だった。
「それ、誰かに言うなよ」
言ったあとで、言い方が硬すぎたと気づいた。硬い言い方は、隠していることがあるように聞こえる。
「言わないって。つーか、言っても信じないでしょ」
佐倉は肩をすくめた。肩をすくめる癖は、平気を装う癖だ。平気なふりをする人間ほど、夜に揺れる。
「でもさ、変なんだよ。夢の中で俺、匂い嗅いでた。料理の匂い。俺、腹減ってるだけかな」
腹が減っているだけならいい。匂いは、腹の話にできる。胃の話にできる。心の話にしなくて済む。俺はそれを望んだ。望んだ時点で、俺は自分のために話を軽くしている。
「疲れてんじゃないか」
俺はそう言って、配布プリントを重ね直した。指先が紙の繊維に引っかかる。引っかかる感触は、現実に戻る手触りだ。
「疲れてるのはある。でも、なんかさ」
佐倉は言葉を探すみたいに、口を閉じたり開いたりした。
「匂いが、服に残ってる気がする。帰っても。おかしいよな」
俺は頷けなかった。頷くと、境界が現実だと認めることになる。否定すると嘘になる。どっちも混ざる。
「気のせいだ」
俺はそう言った。気のせいという言葉が便利すぎて嫌だった。
「だよな」
佐倉は笑って、いつもの調子に戻ろうとした。戻ろうとするのが、いちばん危うい。ひびの上に日常を塗ると、ひびが見えなくなる。そのぶん、割れ目が深くなる。
午前の授業が始まる時間になり、俺は教室に向かった。廊下を歩く靴音が、今日は少し大きく聞こえる。大きく聞こえるのは、耳が敏感になっているからだ。敏感なのは、匂いを拾う準備ができているからだ。
昼は現実だ。そう言い聞かせた。現実にいる限り、店は比喩でいられる。比喩でいれば、誰も巻き込まれない。誰も巻き込まれない、という言い方が、すでに遅れている気がした。
夜。駅から家へ向かう途中、スマホが震えた。佐倉からの短いメッセージだった。
今日、帰りに例のとこ見ていい? 行かないけど、遠目に。
遠目に、という言い訳が嫌だった。遠目は、入り口だ。入り口は境界だ。境界を踏むと、暖簾が降りる。店主の言い方が頭に蘇る。
俺は「だめ」と打って、消した。「やめろ」と打って、消した。文章を作ろうとするたびに、言葉が薄くなる。薄くなると、単語の輪郭が欠ける。
結局、返信せずに歩いた。歩きながら、爪を掌に立てた。痛いと、余計な想像が減る。減ったはずなのに、鼻の奥に湯気の匂いが浮く。
路地へ向かう足取りは、もう迷っていなかった。迷わないのが怖い。怖いのに、止められない。止められない自分を見たくないから、考えない。考えないのは空白だ。空白は、選べなくなる。
路地の入口は、いつもより暗く見えた。暗いのに、奥に暖かい色が滲んでいる。滲みが昨日より強い気がする。気がするだけで、喉が乾く。
暖簾の前に、人影はなかった。ほっとした瞬間、胸の奥が痛んだ。ほっとしたのは、俺が自分のために安心したからだ。佐倉のためじゃない。
俺は一歩進んで、暖簾を見た。文字が浮いている。今日の文字は、読めない。読めないのに、意味だけが入ってくる。今日は閉じている、という感じだけが伝わる。伝わり方が、言葉じゃない。反応だ。
俺は息を吐いて、暖簾を押しのけた。
店の中は、いつも通りの明るさだった。湯気の匂いが濃い。濃い匂いは、喉を熱くする。熱いのに、口の中は乾いている。矛盾した乾きだ。
店主はカウンターの中にいた。いつもなら包丁を研ぐか、鍋の様子を見るか、何かしら手を動かしているのに、今日は動きが少なかった。立っているだけに見える。立っているだけなのに、苛立っているのが分かる。
「今日は閉店だ」
店主は俺の顔を見ないまま言った。言い方が硬い。いつもの「置いとけ」より硬い。
「え」
俺の声が間抜けだった。閉店と言われたのが初めてで、反射が遅れた。遅れた反射は、店の中で浮く。
「客が来ても返す。お前も帰れ」
店主は言った。
帰れ、と言われると、居場所を奪われた気がする。居場所を奪われたと感じるのは、俺がここを居場所にしているからだ。居場所にしたくないのに、している。
「なんで」
俺はカウンターの端を掴んだ。木が冷たい。冷たいのに、指の内側が熱い。
「台所だ」
店主は短く言った。
答えになっていない。答えになっていないのに、店主はそれで終わらせる気だ。
「台所って言えば済むと思ってます?」
俺は言ってから、言葉が攻撃的だったと気づいた。攻撃的な言葉は、自分の怖さを隠す。隠しても、怖さは消えない。
店主の肩が少しだけ動いた。ため息の前の動きだ。ため息は出なかった。出なかったぶんだけ、空気が重い。
「済まない」
店主が言った。
「済まないから閉める」
「客が来るから?」
俺は訊いた。
店主の視線が一瞬だけ俺を捉えた。捉えた目は冷たい。冷たいのに、奥に薄い疲れがある。
「お前が来たからだ」
店主が言った。
俺の喉が詰まった。詰まると、次の言葉が出にくい。出にくいのに、言わなきゃいけない気がした。
「俺が来たから閉店って」
「今日は混ざりやすい」
店主はそう言って、視線を逸らした。逸らした先は、棚の奥だった。棚の奥には何があるか、俺はもう知っている。木箱。指輪。隠す動作。人間の痕跡。
「何がですか」
俺は一歩踏み出した。踏み出すと、床板が小さく鳴った。音は乾いている。乾いた音が、俺の胸の乾きと重なる。
「お前が」
店主が言った。
「俺も」
続けて、店主は言葉を切った。切ったのに、俺には分かった気がした。分かった気がするのが嫌だった。分かった気がするのは、店の言葉が俺の口に入り始めているからだ。
暖簾が揺れた。誰かが外にいる。外の気配が、店の中に滑り込む。滑り込むのは匂いだ。匂いは媒体だ。
店主が舌打ちした。小さな舌打ち。店主の人間癖。苛立ちを音にする癖。
「来た」
店主が言った。
俺は振り向いて、暖簾の向こうの影を見た。客だ。背が低い。コートが少し濡れている。濡れているのは外の雨か、店の湿り気か分からない。
「いらっしゃいませ」
俺が口を開きかけた瞬間、店主が先に言った。
「閉店だ。帰れ」
客は立ち尽くした。立ち尽くした体の揺れが、風の揺れに似ている。声が出ない。声が出ないのは、割れ目が大きいからだ。
「……入れるって」
客が小さく言った。
小さい声は、夜に溶ける。溶ける声は、助けを求めているように聞こえる。助けを求めている、と解釈した瞬間、俺は救いたくなる。救いたくなるのが危険だ。
「今日は閉店」
店主が繰り返した。繰り返す声が硬い。硬い声は拒絶だ。拒絶が必要な夜がある。
客は唇を噛んで、暖簾の向こうへ消えた。消え方が遅い。遅いのは、未練があるからだ。未練は執着だ。執着がこの店を呼ぶ。
暖簾が静かになったあと、店の中の音が消えた。鍋の煮える音もしない。湯気だけが漂っている。湯気だけがあるのが、不自然だった。台所なのに、火がない。
「どうして断ったんですか」
俺は言った。
声が少し震えた。震えは怒りの震えにも、怖さの震えにも見える。どっちでもいいふりをしたくなった。
「今日は閉めるって言った」
「理由を」
俺は言った。
店主は俺を見ない。見ないのが腹立たしかった。見てほしかった。見てほしいと思うのが、もう依存に似ている。
「台所だ」
店主がまた言った。
俺は笑えなかった。ここで笑うと、冗談になってしまう。冗談にしたら、さっきの客が消える。消えた客に責任が残る。責任が残るのに、誰も拾わない。
「あなた、何者なんですか」
俺は言った。
自分でも驚くほど、真っ直ぐな問いだった。問いが真っ直ぐだと、逃げ道がない。逃げ道がないのは、相手にも自分にも痛い。
店主の背中が少し固まった。固まるのは、答えがあるときだ。答えがあるのに、言いたくないときだ。
「何者でもない」
店主は言った。
「ここは台所だ。それだけだ」
「違う」
俺は言った。
声が少し低くなった。低い声は、腹の奥の声だ。
「あなた、皿係って言葉を当たり前みたいに使う。俺を皿係にした。前にもいたからだろ」
言い切った瞬間、喉が熱くなった。熱くなるのは、言ってしまったからだ。言ってしまうと、戻れない。
店主の指先が、カウンターの縁を掴んだ。掴む指が白い。白いのは力が入っているからだ。力が入るのは、触れられたくない場所に触れられたからだ。
「帰れ」
店主が言った。
命令に近い声だった。命令は、相手を動かす言葉だ。動かせるほど、余裕がない。
「帰りません」
俺は言った。
言った瞬間、胃が痛んだ。痛むのは怖さだ。怖いのに、言う。言うことで、自分の割れ目を広げている気がした。
「なんで」
店主が初めて、俺の顔を見た。
見た目はいつも通り冷たい。でも、目の奥が少し赤い気がした。気がするだけかもしれない。気がするだけで、店主が人間に見える。
「佐倉が」
俺は言いかけて止めた。
名前は媒体だ。名前を出すと、その人が混ざる。混ざると戻らない。
「現実の人間が、路地に触れ始めてる」
言い直した。言い直した分だけ、嘘が混ざる。嘘は必要だ。店主はそう言った。必要な嘘を重ねると、喉が乾く。
「匂いが漏れてる。夢に入ってる。俺のせいかもしれない」
最後の一文が、勝手に口を出た。自己罰。講義で分けろと言われたやつだ。分けられないまま出てきた。
店主は少しだけ目を細めた。
「せいにするな」
俺は息を止めた。
同じ言葉をまた刺された。刺されると、少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。
「なら、あなたが説明して」
俺は言った。
「割れ目って何ですか。境界って何ですか。暖簾が降りる条件って」
言いながら、自分の声が早口になっているのが分かった。早口は焦りだ。焦りは恐怖の裏側だ。
店主は視線を逸らした。逸らした先は、棚の奥だった。俺はその方向を見た。見たくないのに見た。見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
店主が言った。
「お前は」
言葉が途切れた。途切れるのは、言葉を選んでいるからだ。店主が言葉を選ぶのは珍しい。選ぶのは、人間の癖だ。
「前にも」
店主は言って、黙った。
黙った時間が長い。長い黙りは、言葉の刃を研ぐ時間だ。
「前にも、皿を洗ってた奴がいた」
店主はようやく言った。
俺の背中が冷えた。冷えるのは、確信に触れたからだ。
「優しい奴だった」
店主は続けた。
優しい、という形容はこの店であまり出ない。出るときは危険だ。優しさは救済欲に繋がる。
「客の話を聞いて、全部を自分のことみたいに受け取った。受け取って、混ぜた」
混ぜた。
その言葉が、店の床に落ちたみたいに重かった。混ぜるな、と繰り返された言葉が、過去形になった。
「混ぜたら、どうなるんですか」
俺は訊いた。
訊いた声が少し掠れた。喉が乾いている。乾きが増している。
「壊れる」
店主は短く言った。
壊れる。という言葉は便利だ。便利だから、具体が隠れる。隠れるから怖い。
「どっちが」
「どっちも」
店主は言った。
「客が壊れるのは、元からだ。割れ目があるから来る。壊れる準備ができてる。でも」
店主はそこで止めた。止めたのは、次が自分の話になるからだ。
「皿係が壊れた」
店主は言った。
俺の胃が縮んだ。縮むと息が浅くなる。浅い息で、俺は立っている。
「どうやって」
俺は訊きかけて、言い直した。
「何が起きた」
方法を訊くと、この話が危うくなる。危うい話にしたくない。けど、結果だけでは受け止めきれない。
店主は、カウンターの上の布巾を指で押さえた。押さえる指が止まった。止まるのは、記憶に触れたときの止まりだ。
「客の感情を、皿係が自分の中に入れた」
店主が言う。
「入れたら、出せなくなる」
俺は黙って聞いた。
出せなくなる、という言い方が、空白飯に似ていた。入れたまま動けなくなる。選べなくなる。
「客の後悔も、怒りも、執着も」
店主は続けた。
「それを、自分の中で煮て、味付けして、正しい順番に並べて、相手に返そうとした」
正しい順番。
その言葉が刺さった。俺も最近、正しい順番を欲しがっている。正しい順番があれば、痛みが減ると思ってしまう。
「返せなかった」
店主は言った。
「返すには火が要る。火は店が持ってる。人間が勝手に火を持つと」
店主はそこで息を吸った。吸う息が浅い。浅い息は、怖さの息だ。
「火傷する」
火傷。
比喩なのに、生々しい。火傷は皮膚の話だ。皮膚は現実だ。現実の痛みとして伝わる。
「皿係は、客を救いたかった」
店主の声は淡々としていた。淡々としているのに、言葉が重い。
「救いたいって思うほど、客の選択を奪う。奪って、自分の正しさで塗る。塗ったら、客は客じゃなくなる」
俺は唇の裏を噛んだ。血は出ない。出ないように噛む。出ないように噛むのは、泣きたくないのと似ている。泣きたくない。泣くと、この話が救いになる。救いにしたくない。
「その皿係は」
俺は訊いた。
「どうなった」
店主は答えるまでに、少し時間がかかった。時間がかかるのは、答えが痛いからだ。
「いなくなった」
店主は言った。
「店の中からも、外からも」
外からも。
その言い方が、返す相手がいない、という予感に繋がった。予感が、棚の奥の木箱に繋がる。
「死んだってことですか」
俺は訊いた。
訊いた瞬間、喉が詰まった。詰まるのは、言葉が重いからだ。重い言葉を口にするほど、口が店に属する。
店主は首を振らなかった。頷きもしなかった。否定もしない。肯定もしない。その中立が残酷だった。
「それ以上は言わない」
店主が言った。
「言えば、お前は救いたくなる。救いたくなって、混ぜる」
俺は息を吐いた。
吐く息が震えた。震えは寒さの震えじゃない。腹の奥の怒りが、行き場を探している震えだ。
「じゃあ」
俺は言った。
「あなたは何をしたんですか。救わないって決めた? それで、この店を続けてる?」
店主は黙った。
黙りは、答えの前の黙りだ。黙りが長いほど、答えは刃になる。
「救うって言葉で、人は自分を許す」
店主が言った。
その声は淡々としているのに、刃物みたいに切れた。
「許したい奴が、一番危ない」
俺の胸がひくっと縮んだ。
許したい。俺も思っている。佐倉を守ったと思いたい。巻き込まれないようにしたと思いたい。自分が正しかったと思いたい。
「じゃあ、あなたは何もしたくないのか」
俺は訊いた。
訊きながら、自分が問い詰める側になっているのを感じた。問い詰めるのは、答えを欲しがることだ。答えは救いに似ている。救いは危険だ。
店主が言った。
「したい」
短い。
その一言が、俺の腹の奥を熱くした。したい。なら、なぜしない。
「だから、しない」
店主は続けた。
矛盾。矛盾なのに、筋が通っている気がした。筋が通っている気がするのは、俺が店の言葉に慣れているからだ。
「したいから、しない?」
俺は繰り返した。
繰り返すと、言葉が口の中で乾く。乾いた言葉は、飲み込みにくい。
「したいって思った瞬間に」
店主が言う。
「客はもう、俺のための客になる」
俺のため。
その言い方が、今までの回の全部を繋げた。説明じゃなく、構造で分かる。構造で分かった瞬間、吐き気が少し上がった。
「俺が楽になりたい。俺が正しいと思いたい。俺が救ったと言いたい」
店主の言葉は短いのに、刺さる。刺さるのは、俺の中に同じものがあるからだ。
「だから、しない」
店主は繰り返した。
「ここは台所だ。台所は、腹を満たす場所じゃない。処理する場所だ」
処理。
その言葉が、帳簿の回を思い出させた。救済ではなく取引。救うではなく欠損。客は主体で選ぶ。主体を奪わない。奪わないために、救わない。
俺は視線を落とした。落とすと、床板の木目が見える。木目は一つとして同じじゃない。違うから並べられる。全部同じなら区別できない。区別できないのが空白だ。
「店は」
俺は言った。
「どうやってできたんですか」
店主の目が、一瞬だけ細くなった。嫌な質問だという反応だった。反応があるなら、答えがある。
「割れ目にできる」
店主が言った。
「割れ目を持つ者が、割れ目を踏むと、暖簾が降りる」
俺は息を止めた。
割れ目を持つ者。俺だ。割れ目を踏む。俺が歩く場所。路地。夜。あの入口。
「割れ目って」
俺は言って、自分の喉が乾いているのを感じた。乾きが、答えを欲しがっている。
「死にたいと思ったこと、ですか」
店主は否定しなかった。肯定もしなかった。
でも、その沈黙が肯定だった。
「割れ目がない人間には映らない」
店主が言う。
「割れ目がある人間は、自分で気づいてなくても薄い。薄いところから、湯気が漏れる」
湯気。匂い。服に残る。夢に入る。
佐倉の言葉が頭の中で反復した。匂いが服に残ってる気がする。夢の中で台所があったかい。
「俺の割れ目が」
俺は言った。
自己罰になりかけたのを、自分で止めた。分けろ。事実と願望と自己罰。今のは自己罰だ。
「俺の割れ目が、佐倉に触れた?」
事実に寄せる。寄せても、喉が詰まる。詰まるのは怖さだ。
店主は言った。
「触れたかもしれない」
かもしれない。
その曖昧さが、逆に現実だった。科学じゃない。正確な説明はない。あるのは条件と反応だけ。
「匂いは残る」
店主が言う。
「物は混ざる」
次。
「言葉は属する」
最後。
三つの媒体。俺はそれを聞いた。聞いたのに、止められなかった。止められない自分が怖い。
俺は棚の奥を見た。店主の顔が硬くなる前に、もう一歩踏み込んでしまった。
「その指輪」
俺は言った。
口にした瞬間、店の空気が少し冷えた気がした。気がするだけだ。けど、店主の反応がそれを証明した。
「触るな」
店主が言った。
短い命令。短い命令は強い。
「返せないって言った」
俺は言った。
自分でも驚くほど冷静な声だった。冷静なのは、共感が薄れているからだ。薄れていることが怖い。でも、今は必要だ。
「返す相手がいないんですか」
言い切った瞬間、店主の手が一瞬震えた。
震えは小さい。小さいのに、俺は見逃さなかった。見逃さない自分が、いやに冷たい。
店主は棚の前に立って、木箱を引き寄せた。引き寄せる動作が速い。隠すためじゃない。奪い返すための速さだ。
「見るなって言った」
店主が言った。
声は低い。低い声は、怒りの声じゃない。恐怖の声だ。守りたいものを守る声だ。
「俺は皿係ですよね」
俺は言った。
自分の口が勝手に動く。店の言葉が出てくる。属している。
「皿係は、混ぜないためにいる。そう教えたのはあなたです」
店主の目が俺を刺した。刺す目なのに、奥が少し揺れている。揺れが、人間の揺れだ。
「皿係が壊れたなら」
俺は言った。
「あなたは、その前任者を」
言葉が途切れた。途切れたのは欠損じゃない。言ったら戻れない気がしたからだ。戻れないのは、たぶん俺も同じだ。
店主は答えなかった。
答えない代わりに、木箱の蓋を開けた。
指輪が見えた。銀色で、くすんでいる。指輪の内側に刻みがある。刻みは、文字のように見える。読めない。読めないのに、喉が熱い。熱いのに、指先が冷たい。
店主の指が指輪を掴んだ。掴み方が、乱暴じゃない。丁寧でもない。慣れている。何度も触れてきた触れ方だ。
「それは」
店主が言った。
「返せない」
返せない。
俺は頷いた。頷くと首が痛い。痛いのは、理解したからだ。理解したことが痛い。
「返す相手がいない」
俺は繰り返した。
繰り返すのは確認だ。確認すると現実になる。現実になると、救いたくなる。救いたくなるのが危険だ。
店主が木箱を閉めた。閉め方が慎重だった。慎重さは、壊れやすいものを扱う慎重さだ。
「俺は」
店主が言いかけて、止めた。
止めた瞬間、店の中の空気が重くなる。重さは、言葉の代わりだ。
「俺も、皿を洗ってた」
店主はようやく言った。
俺の背中が冷えた。店主が自分の過去を口にした。口にするのは、店主の中で何かが崩れている証拠だ。
「ここで?」
俺は訊いた。
「ここで。前任の、さらに前だ」
店主は言った。
「店が今みたいな形になる前、もっと薄かった」
薄かった。
境界が薄い。薄いと、現実と混ざりやすい。混ざると壊れる。
「人間だった」
店主は続けた。
「今も人間だ。たぶんな」
たぶん。
その言い方が嫌だった。人間かどうかが曖昧になるのは、空白に近い。空白は楽じゃない。選べなくなる。
「俺が救わない理由は」
店主が言う。
「救ってしまったからだ」
救ってしまった。
過去形。過去形が、今の残酷さを作った。
「救ったと思った」
店主は言い直した。
「救ったと思った瞬間に、相手は俺のための相手になった。俺はそれに気づかないふりをした」
気づかないふり。
知らないふり。知って来る。知らないふりをするだけ。帳簿の回の言葉が繋がる。店主はずっと同じことを言っている。言っているのに、俺は今日初めて理解した気がした。
「許したかったんだろうな」
店主が言った。
自分のことを他人みたいに言う。距離を取る言い方。距離を取らないと壊れるのだろう。
「俺が」
店主の声が一瞬だけ震えた。震えはすぐ消えた。消えるのが余計に痛い。
「俺が、いちばん危なかった」
俺は何も言えなかった。
言えば、慰めになる。慰めは救いに似ている。救いは危険だ。だから黙る。黙ると、喉が乾く。
暖簾が揺れた。
店主が顔を上げた。焦る顔だった。焦る顔は、店主の人間癖だ。感情が外に出た。
「閉店だって言っただろ」
店主が低く言った。
外に客がいる。俺にも分かる。気配が濃い。濃い気配は、割れ目が深い気配だ。
俺は立ち上がって暖簾の方へ行こうとした。行こうとした瞬間、店主が言った。
「来るな」
短い命令。
命令は強い。強いのに、俺の足は止まらなかった。止まらないのは、命令より匂いが強いからだ。匂いは反応だ。反応は意志より先に来る。
「客ですか」
俺は訊いた。
自分の声が少し上ずっている。上ずるのは怖いからだ。
「違う」
店主が言った。
「客じゃない」
違う。客じゃない。
なら、何だ。答えが出る前に、暖簾の文字が俺の目に入った。
本日:後悔
そう読めた。読めた瞬間、喉が熱くなった。熱くなるのに、口の中が乾く。後悔。フル。薄味じゃない。薄切りじゃない。全部だ。
俺はふらついた。
ふらついたのに、足が前へ出る。出ると、床板が鳴る。鳴る音が、いつもより大きい。大きい音は、店が俺を呼んでいる音に聞こえた。
「真白」
店主が初めて俺の名前を呼んだ。
名前で呼ばれると、身体が固まる。固まるのに、胸の奥がひやりとする。名前が自分のものじゃないみたいに感じる。真白。白紙。何も書かれていない。生きていない。
「行くな」
店主がもう一度言った。
声が少し掠れていた。掠れは、喉の乾きの掠れだ。店主も乾いている。乾いているのは、境界が緩んでいるからだ。
俺は暖簾に手を伸ばした。
手のひらが汗で湿っている。湿りが、店の湯気と混ざる。混ざるな、と頭の中で言う。言うだけで止まらない。止まらないのが、俺の割れ目だ。
「俺が」
言いかけた瞬間、単語が欠けた。
欠けたのは、たぶん「客」という言葉だった。客という言葉が出ないのに、後悔だけは出る。店の言葉だけが残る。属している。
店主がカウンターの中から出てきた。出てくるのは珍しい。出てくるのは、止めたいからだ。
店主の手が、俺の腕を掴んだ。掴む力が強い。強いのに、指先が震えている。震えは小さい。小さいのに、確かに震えている。
「お前が最後になる」
店主が低い声で言った。
最後。という言葉が、胸の奥に落ちた。落ちると息が浅くなる。浅い息で、俺は暖簾の文字を見続けた。
「最後の客は」
店主が言う。
「お前だ」
俺は反論できなかった。
反論すると、安心したくなる。安心は空白だ。空白は選べなくなる。俺は選びたくない。選ぶのが痛い。痛いのに、選ぶしかない。
暖簾が、俺の目の前で静かに揺れた。
揺れは、風じゃない。呼びかけだ。呼びかけに応えると、暖簾が降りる。割れ目を踏むと、暖簾が降りる。店主の言葉が、構造として俺の中で噛み合った。
俺は、自分が割れ目だと理解した。
理解した瞬間、喉の奥が熱くなった。熱は涙の熱じゃない。吐き気の熱に近い。吐き気が上がってきて、飲み込んだ。飲み込むと、舌が乾いた。乾いた舌で、俺は言った。
「……俺は、客じゃない」
言ったつもりだった。
でも、声が小さかった。小さい声は、境界の前では無力だ。
店主が言った。
「皿係は、客と同じだ」
短い。
短いのに、逃げ道を塞ぐ。
「割れ目がある。だから、見える。だから、呼ばれる」
店主の指先が、俺の腕を掴んだまま少しだけ緩んだ。緩むのは諦めじゃない。諦めたくないのに、止められないと理解した緩みだ。
「来るなって言っても」
店主が言った。
「お前の足が動くのは、俺が一番知ってる」
俺は店主を見た。
店主の目の奥が揺れている。揺れは、冷笑じゃない。冷笑じゃないのが、いちばん怖い。冷笑なら嫌えばいい。嫌えば距離が取れる。揺れは距離を近づける。近づけると混ざる。
俺は暖簾に触れた。
布が冷たい。冷たいのに、向こう側の空気は暖かい。暖かい空気は、腹の奥の後悔を煮立てる気がした。
店主の声が背中に刺さった。
「真白」
俺は返事をしなかった。
返事をすると、名前が店のものになる気がした。
暖簾の下、光が揺れている。
揺れている光が、俺だけに見えている気がした。俺だけに、後悔が読める。読めるのは、俺が割れているからだ。
俺の足が、前へ出た。




