第11話 「境界の理屈/匂い・物・言葉が越える」
その店に入れるのは、
死にたいと思ったことがある人間だけだ。
少なくとも、そういう人間にしか、
あの暖簾は見えない。
休憩室の蛍光灯は、昼でも夜でも同じ白さをしている。白いのに、影が薄い。影が薄いと、輪郭がぼやける。輪郭がぼやけると、そこにいる人間が軽く見える。
同僚の佐倉が、紙コップのコーヒーを二つ持って戻ってきた。片方を俺の机の端に置く。置き方が雑じゃない。けど、親切とも違う。習慣みたいな動きだ。
「さっき言ってた路地さ、今日も見に行く?」
佐倉はスマホの画面を見ながら言った。画面の光が頬の下に当たって、顔の色が少し青く見える。青く見えるだけで、青いわけじゃない。そういう錯覚が、最近やたら増えた。
「冗談だろ」
俺はコーヒーのふたを指で押さえた。熱が指に伝わる。熱いと、現実に戻れる。戻れるのに、戻りたくない感じがまだ残っている。
「冗談じゃない。ちょっと気になって」
佐倉は笑った。笑い方が軽い。軽い笑いは、怖さを薄めるための笑いだ。薄めたぶんだけ、別のところに沈む。
「夜だけ光があるとか、ちょっとテンション上がるじゃん。ほら、写真撮ったらさ」
佐倉は指で空をなぞった。撮影のジェスチャー。手首の角度が慣れている。俺の胸の奥が小さく冷えた。冷えるのは、嫌な予感が先に来るときの反応だ。
「やめとけ」
言ってから、言い方が硬すぎたと気づいた。硬い言い方は、理由があるように聞こえる。理由を聞かれたら終わる。
「え、なんで」
佐倉が顔を上げた。目が丸い。驚いている目の形は、嘘をつきにくい。俺は一瞬だけ視線を逸らした。逸らすと、机の上の書類の罫線が見える。罫線は真っ直ぐで、真っ直ぐなものは嘘をつけない。
「……危ないだろ。路地なんて」
苦しい言い訳だった。路地が危ない理由はいくらでも言える。治安。段差。暗さ。酔っ払い。そんな話じゃないのに、そんな話にした。
佐倉は肩をすくめた。
「まあね。でもさ、昨日も見たって言ってた人、ほかにもいたよ。うちのフロアのさ、経理の人。夜だけあったかい色が見えるって。何それって感じ」
経理の人。知らない人のはずなのに、喉が勝手に詰まった。詰まるのは、単語が出なくなる前の合図に似ている。
俺は紙コップを持った。持ち上げた瞬間、手のひらの汗で紙が少し湿る。湿る感触が、昨日の部屋の水の輪に重なって嫌だった。
「やめとけ」
もう一度言った。繰り返すと、命令になる。命令にすると、俺が悪者になる。悪者になると楽だ。善意の免罪符より、悪意の自覚の方がまだ手触りがある。
「わかったわかった。そんな真顔すんなって」
佐倉は笑って席を立った。軽い足音。軽い足音は、割れ目のない足音だ。割れ目がないなら、見えない。そう思いたかった。
休憩室に残ったコーヒーの匂いは、甘い。甘い匂いは店の匂いと混ざらない。混ざらないことが、逆に不安になる。
俺は窓の外を見た。ビルの谷間は、昼でも薄暗い。あの路地がどこにあるか、佐倉は地図を見せなかった。言わなくても分かる気がした。分かる気がするのが怖い。怖い気がするのに、身体がそっちへ寄る。
夜。仕事を終えて駅に向かう途中、スマホが震えた。佐倉からだ。
今から見に行く。来る?
短い文章。短い文章は軽い。軽い文章が、重い境界に触れようとしている。俺の指先が画面の上で止まった。
行くな。やめろ。そんな言葉を打てばいい。打てばいいのに、俺の指は動かなかった。動かないのは、言葉がどこかで欠けているからだ。欠けていると、文章が作れない。文章が作れないと、説明ができない。説明ができないと、止められない。
自分の喉が乾いた。乾くと、舌が上顎に貼り付く。貼り付くと、店の湯気の匂いが蘇る。蘇る匂いが、俺を引っ張る。
俺は返事をしないまま、路地の方へ歩いた。歩きながら、自分が何をしているのか分からなくなる。分からないまま歩けるのが、空白の怖さだ。
路地に着く前に、立ち止まった。商店街の明かりが途切れるところ。自販機の光が一本だけ残っている。そこから先は暗い。
暗いのに、奥が少しだけ暖かく見えた。暖かい色。人が言っていた言葉が、そのまま目の前に現れる。現れると、嘘が嘘じゃなくなる。
俺はその場でスマホを握り直した。画面が冷たい。冷たいのに、手首の内側が熱い。熱いのは、血が集まっている証拠だ。集まるのは、走る準備だ。
佐倉の居場所を追跡する機能なんてない。けど、足音が聞こえた。足音は俺の背後じゃなく、路地の奥から聞こえた。軽い足音。スニーカーのゴムがアスファルトを擦る音。
誰かが覗いている。
俺は息を吐いて、暗い側へ一歩だけ踏み込んだ。踏み込んだ瞬間、空気が変わる。湿り気が増える。鼻の奥に、味噌とも洗剤とも違う匂いが触れた。触れるだけで、胃の奥が重くなる匂いだ。
その匂いを追うように、暖簾が見えた。見える。見えてしまう。見えたくないのに見える。
暖簾の前に、人影があった。背中。肩。髪。佐倉だと分かった。分かった瞬間、喉が詰まって、声が出なかった。
「佐倉」
呼んだつもりだった。口は動いた。けど、音が遅れる。遅れた音は、情けない。情けない音は、相手に届かない。
佐倉は振り返らなかった。スマホを構えたまま、暖簾を撮ろうとしている。暖簾は揺れている。揺れ方が、風の揺れじゃない。呼びかけに反応している揺れだ。
俺は走った。走ると、足がもつれる。路地の段差が見えない。見えないのに、身体は覚えている。覚えている道みたいに走れる。これがいちばん怖い。
佐倉の腕を掴んだ。掴むと、腕が冷たかった。冷たいのは外気じゃない。内側が冷えている冷たさだ。
「やめろ」
ようやく音になった。音になった瞬間、喉の奥が痛んだ。痛むのは、声を無理に出した証拠だ。
「え、なに」
佐倉が振り返った。目が少しだけ潤んでいるように見えた。潤んでいるのは、乾いた風のせいかもしれない。でも、頬の色が薄い。薄いのは蛍光灯の下じゃないのに薄い。
「見つけた? ここだよ。あったかい色、ほんとだ」
佐倉は笑った。笑いながら、指先が震えた。震えは細かい。細かい震えは、寒さの震えにも似ている。けど、今夜はそこまで寒くない。
俺は佐倉の腕を引いた。引くと、佐倉の体がよろけた。よろけた瞬間、暖簾が大きく揺れた。揺れた布の下に、店の光が滲んだ。滲んだ光が、佐倉の頬に当たる。
佐倉の目が、暖簾の向こうに吸い寄せられた。吸い寄せられる目は、焦点が遠くなる。遠くなると、人の声が届かない。
「今、匂いしない?」
佐倉が言った。
匂い。
その言葉で、俺の背中に汗が浮いた。匂いが届いている。匂いが届くなら、境界が破れている。
「しない」
俺は嘘をついた。嘘をつくと、舌の裏が乾く。乾くと、嘘がバレそうになる。バレても困る。困るのは俺の居場所が暴かれるからだ。自分の保身と、他者の保護が絡まって、手の中でぐちゃぐちゃになる。
「えー、するよ。なんか、味噌? いや、違う。もっと……あったかい」
佐倉は鼻をひくつかせた。
その動きが、客が店に入るときの動きに似ていて、吐き気が少し上がった。吐き気は喉の奥で止まる。止まると、声がまた遅れる。
俺は佐倉を引きずるようにして、暗い側から明るい側へ戻した。戻ると、空気が少しだけ軽くなる。軽いのが現実の軽さだ。現実の軽さは救いじゃない。ただ薄い。
佐倉が笑いながら怒った。
「なに、マジで。そんな引っ張んなよ」
「危ないから」
言葉がそれしか出ない。理由を言えば、説明が始まる。説明は免罪符だ。店主の声が頭の奥で鳴る。
佐倉は眉をひそめた。
「なんか知ってるの?」
俺の胸がきゅっと縮んだ。縮むのは、嘘をつく前に身体が拒否しているからだ。
「知らない」
俺は言った。
言った瞬間、喉が痛んだ。痛いのは嘘の痛さだ。
佐倉は少し黙って、俺の顔を見た。見られると、目の奥が乾く。乾くと、視線が泳ぐ。泳ぐと、嘘が濃くなる。
「……まあいいや。変なやつ」
佐倉は笑って、スマホをポケットに入れた。入れ方が雑になっていた。雑になるのは、さっき見たものが頭に残っているからだ。
「でもさ、ほんとに、匂いした。なんか、懐かしいみたいな」
懐かしい。
その言葉がいちばん危ない。懐かしさは、混ざる入口だ。
「気のせい」
俺は言って、早足で歩き出した。
佐倉がついてくる。ついてくると、背中が重い。重いのは責任の重さだ。責任という言葉を使うと綺麗すぎる。ただ、重い。
駅までの道、佐倉は他愛ない話をした。仕事の愚痴。上司の癖。コンビニの新作。話の内容は軽い。軽い話をしながら、佐倉の声の端が少し硬い。硬いのは、さっきの路地が頭の片隅に残っているからだ。
俺は相槌を打ちながら、ずっと指先を握っていた。爪が掌に食い込む。食い込むと、痛みが現実になる。現実になれば、店の匂いが薄まる気がした。
その夜、俺は店へ行った。
自分から行くと言いたくない。けど、足はそこに向かった。匂いが残っていたから。佐倉の鼻が拾う程度に、境界が漏れているから。漏れているなら、確認しないといけない。確認しないと、俺が楽になれない。結局、俺のためだ。
暖簾は、いつもより重く見えた。布が重いわけじゃない。向こう側が現実に近づいているぶん、こちら側の重さが増している。
店に入ると、湯気の匂いが濃かった。濃い湯気は、目の奥に刺さる。刺さると、涙が出そうになる。涙が出る前に、喉が熱くなる。熱くなるだけで、涙は出ない。
店主はカウンターの中にいた。今日は包丁を研いでいた。研ぐ音は静かだ。静かな音は、刃が整っていく音だ。整っていく刃は、何かを切る準備だ。
「おい」
店主が言った。
俺が何か言う前に言う。先に言われると、言葉の順番が狂う。狂うと、俺は喋れなくなる。
「さっき、連れてたの」
店主は顔を上げずに言った。
「見えたか」
俺は足を止めた。背中に冷たい汗が流れた。店主が知っている。知っているなら、俺の嘘が意味を失う。
「……見えた」
俺は答えた。
声が少し低くなった。低い声は、腹の底の声だ。腹の底は、怖さと怒りが混ざっている場所だ。
店主は小さく笑った。笑い声は出さない。口角だけが動く。
「見える奴は元から割れてる」
割れてる。
その言い方が、乱暴で、だから正確に刺さる。割れ目。昼の佐倉の軽さ。夜の佐倉の震え。匂いに反応する鼻。懐かしいと言う口。
「ふざけるな」
俺は言った。
言った瞬間、喉がまた乾いた。乾くのは、声が立つからだ。
「元からとか、そういう言い方やめろ。あいつは」
続きが出ない。
あいつは、普通だ。そう言いたかった。普通だと言えば、割れ目がないと言える。割れ目がないと言えば、暖簾が見えないと言える。言えない。今日、佐倉は匂いを拾った。
店主が包丁を研ぐ手を止めた。
止めた瞬間、店の空気が少し重くなる。重くなるのは、こちらが核心に近づいた合図だ。
「割れ目がない人間に、ここは映らない」
店主は言った。
「映るのは、薄いところだけだ」
薄いところ。
薄い昼。薄い現実。薄い俺。俺は喉の奥で唾を飲み込んだ。唾が少ない。口の中が乾いている。
「でも、見えたんだ」
俺は言った。
「見えたっていうか……匂いがしたって言った」
店主は、研ぎ台の上の包丁を布で拭いた。刃が光る。光り方が冷たい。冷たい光は、切る光だ。
「匂いが漏れてる」
俺が言うと、店主は肩をすくめた。
「漏れる時期がある」
時期。
季節みたいに言う。境界が季節みたいに緩むなら、それは自然現象だ。自然現象なら責める相手がいない。責める相手がいないのに、俺の胸の奥は重い。重いのは、責める相手が自分になるからだ。
「俺が……」
言いかけて、止めた。
俺が何だ。俺が連れてきた。俺が匂いを持ち帰った。俺が言葉を口にした。俺が、混ぜた。
店主は、俺の言い淀みを見ているのか見ていないのか分からない目で言った。
「お前、見えた人がいるって言いに来たんだろ」
「止めたい」
俺は言った。
止めたいと言うと、喉が痛む。痛むのは、止めたいのに止められないと知っているからだ。
「止めたいなら」
店主は言った。
「混ぜるな」
短い。
短い言葉が、俺の胸の上に落ちた。落ちると、息が浅くなる。
「混ぜたから、匂いが漏れた」
店主の声は淡々としている。淡々としているから、責めていないように見える。責めていないように見えるのに、責められている。
「俺が混ぜた?」
俺は言った。
言い返したい気持ちと、認めたくない気持ちが絡まって、舌が重い。
店主は指を三本立てた。
「境界を越える媒体がある」
媒体。
言葉が硬い。硬い言葉は、説明になる。説明はこの店では少ない。少ないから、今日は余計に背筋が冷える。
「三つだ」
店主は一本目の指を曲げずに言った。
「匂い」
匂い。
俺の服。俺の部屋の湿り。佐倉の鼻。
「感情の湯気は服に残る。残ると、外に出る」
店主が言う。
湯気という言い方が嫌だった。湯気は台所のものだ。台所の湯気が、人の心の話をする。混ざる。
二本目の指。
「物」
俺の脳裏に、キーホルダーが浮かんだ。触れた瞬間に、知らない怒声が夢に入ってきた。汗の湿り。枕元の異物感。
「客の落とし物は混ざる」
店主が言う。
「混ざると戻らない。お前がやった」
断定。
断定されると、逃げ道がなくなる。逃げ道がないと、体が硬くなる。硬くなると、肩が痛い。痛いのは生きている証拠だ。証拠を突きつけられる。
三本目の指。
「言葉」
俺は無意識に舌を噛みかけて止めた。
言葉。店の言葉。料理名。後悔煮込み。怒りの汁物。空白飯。代償。取引。
「店の言葉を口にすると」
店主が言った。
「口が店に属する」
属する。
属するという言い方が、生々しい。生々しいのに、俺の口の中は乾いている。乾いた口が、店に属する。矛盾しているのに、分かってしまう。
俺は思い出す。第5話で、俺は無意識に言った。献立、後悔でよかったんですか。あのとき店主が目を上げた。目を上げた一瞬が、今になって重くなる。
「俺は」
言いかけて、喉が詰まった。
単語が一瞬欠ける。欠けたのは、たぶん動詞だ。動詞が欠けると、何も言えない。口が開いたまま止まる。
店主は目を細めた。
「ほら」
短く言う。
「遅れて来た」
遅れて来た。
代償は遅れて届く。第6話で味わった。今日も、遅れて届く。
「俺のせいで」
俺はようやく言った。
せいで、という言葉は自己罰の匂いがする。自分で分かる。分かるのに、止められない。
「誰かが巻き込まれる」
言い終えた瞬間、胃の奥がひくっと縮んだ。縮むと、背中が寒い。寒いと、手が震える。震えは小さい。小さい震えは、逃げたい震えだ。
店主は指を下ろした。
「巻き込まれる奴は、元から割れてる」
またそれだ。
俺はカウンターの端を掴んだ。木が冷たい。冷たい木が、現実だと教えてくれる。教えてくれるのに、腹の奥が熱い。熱いのは怒りだ。
「それで済ますな」
俺は言った。
声が少し大きくなった。大きい声は店内に響く。響くと、暖簾が揺れた気がした。揺れに反応してしまう自分が嫌だ。
「割れてるとか、薄いとか、そんな言い方で」
俺は言葉を探した。探すと、口の中が乾く。乾くと、言葉が出ない。出ないと、余計に苛つく。
「俺が嘘をついた」
佐倉に。
言い切れない。言い切ると、混ざる。混ざると戻らない。
店主は、俺を見ている。見ているのに、判断していない目だ。判断されないのが、逆に怖い。
「嘘は必要だ」
店主が言った。
必要。
その言葉が、俺の胸を少しだけ軽くした。軽くなったぶん、別の場所が痛んだ。軽くなると、罪悪感が出る。罪悪感は、自己罰の仲間だ。
「お前の居場所が暴かれたら」
店主が言う。
「もっと混ざる」
混ざる。
混ざると戻らない。店主はそれしか言わない。言わないのは、そこが本当に危ないからだ。
「じゃあ、どうすればいい」
俺は言った。
また同じ質問だ。台所に答えはない。分かっているのに、聞いてしまう。聞かずにいられない。聞くことで、俺がここに居る理由ができる。
店主は、包丁を布で包んで棚にしまった。
動作が丁寧だった。丁寧な動作は癖だ。癖は人間のものだ。俺はそこに引っかかった。店主の指先が布を撫でるとき、少しだけ止まった。止まるのは、考えが触れたときの止まりだ。
「分けろ」
店主が言った。
「匂いと、お前を」
俺は眉をひそめた。意味がすぐ分からない。意味が分からないと、苛立つ。苛立つと、怒りがまた熱くなる。
「物と、お前を」
店主が続ける。
「言葉と、お前を」
俺は唾を飲み込んだ。飲み込む唾が少ない。口の中が乾いたままだ。乾いているのに、飲み込もうとする。俺は空っぽの喉で、何かを飲み込もうとしている。
「分けられない」
俺は言った。
言った瞬間、背中が少し丸くなる。弱音を吐くと、身体が勝手に丸くなる。丸くなると、世界が狭くなる。狭い世界は楽だ。楽は危険だ。
店主が言った。
「分けられない奴は、全部腐らせる」
腐る。
腐るという言葉が、胃に落ちた。腐るのは食べ物だ。食べ物が腐るのは時間だ。時間は止められない。俺の中にあるものも、分けないと腐る。腐ると匂いが出る。匂いが出ると外に漏れる。漏れると、佐倉みたいな人が拾う。
俺は拳を握った。
爪が掌に食い込む。痛みが現実になる。現実になると、決められる気がした。
「俺が、何をしたら」
言いかけて、また単語が欠けた。
欠けたのは、たぶん目的語だ。何を、という部分が消えると、文章が続かない。俺は口を開けたまま止まった。
店主は、俺の口元を見た。
「言葉が抜けるのも媒体だ」
店主が言った。
「欠けが増えると、境界が緩む」
緩む。
境界が緩むと、現実が滲む。滲むと、誰かの鼻が拾う。拾うと、暖簾が揺れる。
俺の喉の奥が痛んだ。痛いのに、声が出ない。声が出ないと、腕が勝手に震える。震えると、握った拳がほどけそうになる。
「……俺のせいじゃないって言うのか」
俺はやっと言った。
せい、という言葉は自己罰だ。自己罰を切り分けろ。店主の言葉が頭の中で反復する。反復すると、少しだけ刃になる。
店主は首を振らなかった。頷きもしない。
ただ言った。
「せいにするな」
短い。
短い言葉が、俺の胸の真ん中に落ちた。
「せいにすると楽になる。楽は空白だ」
空白。
空白は救いに見えて、選べなくなる。選べなくなると、止められない。止められないと、全部腐る。
俺は息を吐いた。吐くと、肩の力が少し抜ける。抜けると、逆に足が冷える。冷えると、立っているのが辛い。辛いと言いたくない。ただ、足が冷たい。
店主がカウンターの下から小さな瓶を出した。
中に、白い粉みたいなものが入っている。砂糖にも塩にも見える。見えるだけで、何か分からない。
「舐めるな」
店主が言った。
俺は瓶を見ただけで喉が熱くなった。熱くなるのは、口が反応しているからだ。口が店に属している。
「何ですか」
俺は訊いた。
訊くと、喉が詰まる。詰まっても、音は出た。今日はまだ出る。
「境界止め」
店主が言った。
言い方が適当だ。適当なのに、瓶の中身は妙に現実的に見える。現実的なものが、境界を止める。矛盾しているのに、ここでは成立する。
「塩ですか」
「塩みたいなもんだ」
店主が瓶を戻した。
「お前は舌が薄い。混ざりやすい」
薄い。
薄い舌。薄い現実。薄い俺。
「だから、持ち帰るな」
店主が言った。
「匂いも、物も、言葉も」
俺は黙った。
黙るしかなかった。持ち帰ってしまった。匂いは服に残った。物はキーホルダーを触った。言葉は料理名を口にした。全部やった。
店主が言った。
「そして、守りたいなら」
言葉が続く。続くときの店主の声は、ほんの少しだけ低くなる。低くなるのは、相手を脅す低さじゃない。自分に戻る低さだ。
「お前の割れ目を見ろ」
割れ目。
俺の中の薄い部分。死にたいと思ったことがある人間だけが見える暖簾。俺が見えている時点で、俺は割れている。
俺は舌の裏を噛みそうになって止めた。
噛むと血が出る。血が出ると現実になる。現実にしたい気持ちがある。現実にすれば、この話が現実の話だと認められる。でも、認めたら逃げ場がなくなる。
「俺は」
言いかけて、言葉が止まった。
止まると、店主は何も言わない。言わないのが、この店の残酷さだ。残酷さは救いをくれない。救いがないのに、俺はここに立っている。
帰り道、路地の入口で一度振り返った。
暖簾は揺れていなかった。揺れていないのに、見える。見えるのが普通になっている。普通になるのがいちばん怖い。怖いのに、体はその怖さに慣れる。
家に着くと、玄関の空気が少し湿っていた。昨日ほどじゃない。けど、匂いが薄く残っている。薄い匂いは、気のせいにしやすい。気のせいにしやすいから、危ない。気のせいにすると、見落とす。
部屋の椅子は元の位置にあった。水の輪もない。
ないと、少しだけ肩が落ちる。落ちるのは安心じゃない。証拠が消えると、俺が嘘をつける余地が増える。嘘をつける余地が増えると、また混ざる。
スマホが震えた。佐倉からだった。
さっきごめん。なんか、変な匂いほんとにした。気のせいだよね? でもちょっと落ち着かない。
今、家着いた。お前もちゃんと帰れよ。
ちゃんと帰れよ。
その一文が、やけに重かった。軽い口調なのに、手の震えが文字に残っている気がした。気がするだけだ。けど、気がするだけで十分だ。
俺は返信欄を開いて、指を止めた。
何を書けばいい。気のせいだと書けばいい。安心させるために。安心させれば、俺が楽になる。楽は空白だ。空白は選べなくなる。選べなくなると、次は止められない。
俺は画面を閉じた。
閉じると、部屋が静かになる。静かになると、耳の奥で湯気の音がする気がした。気がするだけだ。でも、気がするだけで喉が乾く。
鏡の前に立った。
自分の顔は、昼より少し青白い。照明のせいじゃない気がした。頬に触れると、皮膚が冷たい。冷たいのに、胸の奥は熱い。熱いのは怒りだ。怒りの置き場所がない。
店主は言った。
割れ目を見ろ。
割れ目って何だ。
死にたいと思ったこと。俺は思ったことがある。何度も。具体を思い出そうとすると、頭の中が白くなる。白くなると、選べなくなる。選べなくなると、空白飯の匂いがする。
俺は歯を食いしばった。
食いしばると、顎が痛い。痛いと、まだ生きていると分かる。分かるだけで、少しだけ落ち着く。
机の引き出しを開けた。
中に、キーホルダーは入っていない。第3話で返した。返したのに、夢の中の怒声はまだ残っている。残っているのは、物のせいじゃない。混ざったのは、俺のせいだ。
スマホがもう一度震えた。佐倉じゃない。知らない番号だった。出ない。出ないと決める。決めると、少しだけ自分が戻る。戻ると、喉が乾く。乾くのは、言葉が欲しいからだ。
俺は水を飲んだ。
水は冷たい。冷たい水が喉を通ると、少しだけ店の匂いが薄まる気がした。気がするだけでも、今は助かる。助かると言うと救いになる。救いは危険だ。だから、ただ、薄まる。
翌日。
昼の職場で、佐倉は普段通りに見えた。普段通りに見えるのが、いちばん不安だ。割れ目は外から見えない。割れ目があるから、暖簾が映る。映るのに、普段通りに見える。
佐倉は俺に近づいてきて、低い声で言った。
「昨日さ」
俺の肩が少し固まった。固まると、笑顔が作れない。作れないと、余計に怪しい。
「変な夢見た」
夢。
俺の胃がひゅっと縮んだ。縮むと、息が浅くなる。
「どんな」
俺は訊いた。訊く声が掠れていないか、自分で確かめる余裕がない。
「台所。いや、店? なんかさ、あったかい光で、カウンターがあって」
佐倉は笑った。笑っているのに、目が笑っていない。目が笑っていないと、口だけが浮く。浮く口は、無理に日常に戻ろうとしている口だ。
「俺、なんか匂い嗅いでてさ。味噌でもないんだよ。焦げ? でも美味そうで」
美味そう。
俺は唇の裏を噛んだ。血は出ない。出ないように噛む。出ないように噛むのが、いちばんずるい。
「……気のせいだ」
俺は言った。
言いながら、自分の声が薄いと思った。薄い声は、嘘の声だ。嘘の声は、相手の割れ目に滑り込む。
佐倉は肩をすくめた。
「だよな。でも、なんか落ち着かないんだよ。あの路地、また見に行ったら、夢の続き分かる気がして」
俺の指先が冷えた。冷えると、体が先に止めに入る。止めに入るのに、言葉が出ない。出ないのは、言葉が欠けているからだ。欠けているのに、俺は店の言葉だけは出せる。出せるのが最悪だ。
「行くな」
俺は言った。
短く。命令みたいに。
佐倉が眉を上げた。
「なんで。やっぱ知ってんじゃん」
俺の喉が詰まった。詰まると、声が遅れる。遅れると、相手の疑いが濃くなる。
俺は一瞬だけ視線を落として、佐倉の手を見た。指先が少し乾いている。爪の付け根が白い。白いのは血が引いているからだ。引いているのは緊張か、怖さか、割れ目の開きか。
「危ないからだ」
俺は同じ言い訳を使った。
同じ言い訳は弱い。弱い言い訳は、相手の好奇心に負ける。
佐倉は笑って、けど笑いが途中で止まった。
「じゃあさ」
佐倉が言う。
「お前、一緒に行こうよ。危ないなら二人で行けばいい」
二人。
二人で行けば、見える条件が増える。割れ目が増える。匂いが濃くなる。物が混ざる。言葉が属する。全部が早まる。
俺は息を吐いた。吐くと、胸の中の熱が少し下がる。下がると、代わりに冷えが上がる。冷えが上がると、手が震える。
「無理だ」
俺は言った。
無理だと言うと、理由を聞かれる。聞かれる前に、会議の時間になった。助かったと思った瞬間、自己嫌悪が来た。助かったと思う自分が嫌だ。
夜、俺はまた店へ行った。
行くこと自体が混ざりだ。分かっているのに、行く。止めたいなら技術を覚えろ。店主の声が頭の奥で反復する。
店に入ると、店主はカウンターの裏で何かを拭いていた。布巾。古い布巾。布の端がほつれている。ほつれが、何年も使われたもののほつれだ。人間の台所のものだ。
俺は言った。
「夢を見たって」
佐倉が。
名前を出すのが怖い。名前を出すと、執着焼きの代償が頭をよぎる。名前が抜ける。抜けるのが怖い。怖いから、余計に名前を意識する。意識が執着になる。
店主は布巾を絞った。水が落ちる。落ちる水が透明だ。透明なものが、境界を越える。
「匂いを拾った」
店主が言った。俺が言う前に言う。
俺は頷いた。頷くと首が少し痛い。痛いのは、頷く回数が増えているからだ。俺は最近、頷くことが増えた。抵抗できなくなっている。
「止めろ」
店主が言った。
「近づけるな」
「止めたい」
俺は言った。
同じ言葉を繰り返す。繰り返すと、言葉が薄くなる。薄くなると、空白に近づく。
店主はカウンターの下から、何かを取り出した。
古い箱。木箱。角が擦れている。擦れ方が、引き出しの奥に長くしまわれていた擦れ方だ。箱の蓋を開けると、金属の小さな音がした。
中に、指輪があった。
銀色。くすんでいる。内側に何か刻まれている。文字かもしれない。よく見えない。見えないのに、喉が詰まった。
店主の指先が、指輪に触れた。触れ方が、料理に触れる触れ方じゃない。確かめる触れ方だ。指先が一瞬止まった。止まる癖。人間の癖。
俺はその指輪から目を離せなかった。
指輪は物だ。物は混ざる媒体だ。見るだけでも混ざりそうな気がする。気がするだけで、背中が寒い。
店主は俺の視線に気づいたのか、箱の蓋を閉めた。閉め方が早い。隠す動きだ。
「それ」
俺は言った。
言った瞬間、喉がまた乾いた。乾くのに、言葉は続く。
「人間のものですよね」
店主は答えなかった。
答えないのが、この店のやり方だ。やり方なのに、今日は答えないことが、答えに見えた。
俺は言った。
「店主、あなた」
続きが出ない。
出ないのは、言葉が欠けたからじゃない。言ってはいけない気がしたからだ。言うと混ざる。混ざると戻らない。
店主が低い声で言った。
「お前」
俺は顔を上げた。
店主の目は、いつもの反射しない目だった。けど、今日はその目の奥に、ほんの少しだけ揺れがある気がした。気がするだけだ。けど、気がするだけで、店主が人間に近づく。近づくと、怖さが増す。
「誰かを守りたいなら」
店主が言う。
「先に自分を守れ」
守る。
その言葉が、妙に現実的だった。台所の言葉じゃない。台所の外の言葉だ。外の言葉が出た瞬間、店主の指先がまた一瞬止まった。止まりが、弱さに見えた。
俺は反論できなかった。
反論できないのは、正しさがないからだ。正しさはここにはない。台所には、切り分けと火加減しかない。
「俺の割れ目」
俺は小さく言った。
口の中で言葉が転がる。割れ目。白いひび。ひびは外から見えない。見えないのに、暖簾は見える。
店主は言った。
「見ろ」
短く。
短い命令は、逃げ道を消す。
俺は拳を握り直した。
爪が掌に食い込む。痛みがある。痛みがあるうちは、まだ選べる気がした。
店の外、暖簾が一度だけ揺れた。
客が来たわけじゃない。風でもない。揺れの理由が分からないのに、俺の喉が乾いた。
匂い。物。言葉。
三つの媒体が、俺の頭の中で並んだ。並ぶと、逃げ道が細くなる。細くなると、選ばなきゃいけなくなる。選ぶこと自体が痛い。痛いのに、選ばないと空白になる。
俺はカウンターの端を離して、皿洗い場へ行った。
水を出す。水の音。現実の音。
指を水に入れると冷たい。冷たいのに、手のひらの内側は熱い。怒りの熱だ。怒りは凶器になる。凶器にしないために、俺は皿を洗う。洗うことが、今の俺の切り分けだ。
皿の表面に、薄く油が残っていた。洗剤を落とす。泡が立つ。泡は白い。白い泡が流れる。白さが、真白という名前を思い出させる。似合ってきたな、と店主が言った日がある。あの日、胸の奥がひやりとした。今日もひやりとする。ひやりは、割れ目に触れる感触だ。
水を流す。
泡が消える。
消える泡の向こうに、まだ匂いが残っている気がした。
店は比喩じゃない。
実在の境界だ。
そう確定した夜だった。
そして、その境界は、俺の服にも、俺の部屋にも、俺の口にも、他人の夢にも触れ始めている。
俺は皿を拭いて、棚に戻した。
棚に戻す動作が、少しだけ丁寧になっているのを自分で感じた。丁寧さは癖になる。癖は人間のものだ。俺はこの店の癖を、少しずつ身につけている。
店主が背中越しに言った。
「明日」
俺は手を止めた。
「お前が止めたいなら」
店主は言う。
「余計なものを持ち込むな。余計な言葉も」
俺は頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥が痛んだ。痛むのは、頷いたことが約束になるからだ。約束は、破ると代償が来る。
店主が続けた。
「それと」
少し間が空いた。
間が空くと、言葉が重くなる。
「俺の箱は見るな」
見るな。
命令。
命令をされると、胸の奥がざらつく。ざらつきは、好奇心と恐怖が混ざったざらつきだ。混ざりは禁物だ。分けろ。
俺は返事をしなかった。
返事をすると、約束が増える。増えると、縛りが増える。縛りが増えると、口が店に属する。
店の外に出ると、夜風が冷たかった。
冷たいのに、鼻の奥に湯気の匂いが残っている。残っている匂いは、今日の佐倉の夢に繋がっている気がした。
俺は路地を振り返らずに歩いた。
振り返ると、暖簾が揺れる気がした。揺れたら、誰かの割れ目が開く気がした。
胸の奥の乾きが、夜の終わりまで消えなかった。




