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最後ではないからこそ

 朝食を終えて最後の荷造りをしていたら、イヴァンが手伝いを申し出てくれた。

 有り難くその厚意を受け取ることにしたエルネスタは、日用品のほか懐かしの味を楽しむための調味料なども麻袋に詰めていく。一通り運び出してもらったところで、二人は休憩を取ることにした。


 お茶を出してダイニングテーブルに向かい合って座る。イヴァンは何故か無言でお茶を飲み、空になったところでようやく口を開いた。


「エルネスタ。君に言っておかなければならないことがある」


 改まってどうしたのだろうか。俄かに緊張したエルネスタは、背筋を伸ばして話の続きを待った。


「君がエルメンガルトとしてシェンカに来ることを、ブラル皇帝に条件を飲ませる材料にしてしまった。君は今後、偽りの名で生きていかなければならない」


 全く考えもしていなかったことをものすごく気まずそうに切り出されて、エルネスタは瞳を瞬いた。

 確かにそうだ。シェンカに戻った瞬間から、エルメンガルトとして生きていくことになるのか。


「確かに、エルメンガルト様の名前を頂く形になってしまったことは、恐れ多いわね」


 でもそれだけだ。姫君に対する罪悪感は消えようがないけれど、それ以外に思うことなんてない。


 あの親書が短いようでいて練りに練られた文書であったことは、素人目にも明らかだった。

 イヴァンはきっとヨハンやエンゲバーグ、そしてエルメンガルトとよく検討したのだろう。皇帝を納得させることが一番の目的であり、それは全てエルネスタを守ることに繋がっていた。


 エルネスタという名はイゾルテが付けてくれた宝物だ。けれど名前が変わったところで、エルネスタという人間が消え去るわけではない。


「貴方が知っていてくれるなら、それで十分。さっきみたいにたまに名前で呼んでね。忘れてしまわないように」


 エルネスタは冗談めかして言うと、晴れ晴れと笑った。

 眩しい笑顔を目の当たりにしたイヴァンが動きを止めたところで、ダイニングに一人の来客が訪れる。現れたのは旅支度を終えたテオドルだった。


「ようお二人さん、俺は先に帰ってるわ。お前らは馬車で帰るんだろ? 俺は徒歩の方が早いからさ」


 からりと笑うテオドルには過去の遺恨など感じない。エルネスタはほっと息を吐いたが、自我を取り戻したイヴァンの目つきは、意外にも剣呑なものだった。


「何言ってる。お前は囚人なんだぞ、野放しにできるか。同じ馬車に乗ってもらう」


「はあ……⁉︎」


 無情な台詞にテオドルが目を剥いた。しかし驚いたのはエルネスタも同じだ。


「ちょ、ちょっと待って、囚人って……⁉︎ 私てっきり、もう裁判が終わって釈放されたんだと……!」


「いいや。今のこの男は、極秘脱獄中とでもいうべき立場だ」


 さらりと告げられた衝撃の事実に、開いた口が塞がらなくなった。

 本当にちょっと待って欲しい。全然意味がわからない。

 混乱するエルネスタを前に、テオドルはバツが悪そうに後頭部をかいている。


「あー、言ってなかったっけ? 実はさ、看守全員に箝口令を敷いた上で、特例中の特例でこの仕事を引き受けることになったんだよ。何でも、とにかく早さが欲しいってことでさ。俺めちゃくちゃ足早いから」


「ヨハンはものすごい剣幕だったがな」


「……し、信じられない」


 とんでもないことをやってのけたらしい男二人は、苦笑するばかりで全く緊張感がない。

 しかしよくよく考えてみると、イヴァンが親書の出来上がりを待って出発すればそれで済んだはずだ。つまりこの国王陛下は、エルネスタに早く会うためだけに様々な常識を破ってくれたということ。


 エルネスタはふわりと頬を染めた。まったくこのひとは、そういうことを口に出さないからわかりにくいのだ。


「ごめんなさい。テオドルさんの立場を危うくさせたみたいで」


「はは、いいよそんなの。俺の立場なんてあってないようなもんだし、結構楽しかったからな。……って、そうだ、話が逸れちまってた。おいイヴァン、何で俺が馬車に乗らなきゃならねえんだよ⁉︎」


 テオドルは本当に気にしていない様子で、すぐに興味の対象を他に移した。食ってかかられたイヴァンは冷静そのものだ。


「だから、囚人を一人でふらふらさせるわけにはいかないと言っているんだ」


「どんだけ信用ないんだ俺は⁉︎ 仲間が捕まってんのに、俺一人だけ逃げるわけないだろうが! だいたい、逃げるならとっくに逃げてるわ!」


「駄目だ。仕事を遂げたことには感謝するが、それだけだ。これ以上の例外はない」


「この石頭! ケチ! 堅物! 俺は馬に蹴られて死にたくないって言ってるんだよ!」


 子供の口喧嘩のごとく放たれた言葉は、エルネスタには聞き馴染みのない物だった。シェンカの慣用句だろうか。


「馬に蹴られて……?」


 首をかしげるエルネスタをよそに、意味を正確に理解したらしいイヴァンが目を釣り上げた。怒りのあまりか頬も少々赤くなっているようだ。


「とにかく、駄目なものは駄目だ! 諦めろ!」


 イヴァンは語気も荒く言い放つと、荷物を担ぎ上げてその場を後にしてしまった。リビングに残されたエルネスタは、苦笑気味に「囚人」に声をかける。


「ごめんね、テオドルさん。足の遅い私に付き合わせるのは申し訳ないけど、諦めるしかないわ。一緒に帰りましょう?」


「……俺はあんたらのために提案したつもりだったんだけどな」


 テオドルは何故だか聞き分けのない子供を見るような目で、イヴァンの出て行ったドアを見つめていたのだった。




 そんな出来事がありながらも、ついに出発の時となった。

 シェンカへ行くことになったのは友人たちには伝えず、また修行に出るということにして昨日のうちに挨拶を済ませておいた。誰に嫁ぐのか、イヴァンが何者なのかを説明するわけにはいかないからだ。


 朝から散々別れを惜しんだはずの家族は、街外れに留めた馬車の前まで見送りに来てくれた。

 街の外は一本道を挟んで草原が広がっていて、心地の良い風が緑の絨毯をそよがせている。秋の空は澄み切って高く、太陽の光は温かみを持って世界を照らす。


 エルネスタは馬の前で振り返った。既にテオドルは馬車の中に乗り込んでいるので、傍に立つのはイヴァンだけだ。


 今日のエルネスタはいつものワンピースを身に纏い、髪もお下げに結わえている。次の街に着いたら目立たないようアークリグを購入して着る予定だ。

 イヴァンもまたブルーノのお古を着込んでいて、使い込まれたシャツでも立派に見せているのだから流石だった。


「それじゃ、道中気をつけてね」


「本当だよ。これ以上変なことに巻き込まれないようにしてよね」


 イゾルテとコンラートは笑みを浮かべてくれたが、ブルーノは青い顔をして背を丸めている。二日酔いが酷いようで、息子に支えられている有様だ。


「もうほんっと重い! しっかりしてよね、情けないなあ!」


「ほんとねえ。弱いんだから飲まなきゃ良いのに」


 イゾルテは呆れたような顔をしつつ、それでもその声は明るかった。


「さてと。お父さんはこんなだけど、お別れはお別れね。エリー、しっかりやんなさい。あなたの仕事は生半可な覚悟では務まらないものなんだから」


「うん。頑張るね、母さん」


 コンラートは父の重みに顔をしかめつつ、大人ぶった仕草でため息をついて見せる。


「ま、俺はそんなに心配してないけどね。いつもみたいに能天気にニコニコしてれば、大抵のことは何とかなるんじゃないの?」


「あはは……そうだと良いんだけど」


 あくまでも普段通りの弟に苦笑していると、ブルーノがゆっくりと顔を上げた。ひどい痛みを訴えているらしい頭を抑えつつ、慈しむような笑顔を見せてくれる。


「寂しくなるな。達者で暮らしなさい」


「……うん」


 涙声になってしまいそうだったので、エルネスタはあえて短く返事をした。

 今までの人生で、孤独を与えられたことなど一度もなかった。エルネスタは勝手に寂しさを感じて、時には酷く頑なになって、あまり可愛げのある娘ではなかったと思う。


 それなのに彼らはいつも寄り添ってくれた。生まれのことなど忘れてしまったと言わんばかりに、なんのてらいもない笑みを浮かべてくれた。


「私頑張るから、心配しないで。皆、元気でね」


 感謝なら昨日までに全て伝えたし、別れも十分すぎるほどに惜しんだ。

 だから今の自分は、一番自分らしい顔で笑っているはずだ。

 イゾルテは苦笑をこぼすと、国王に向かって礼を取った。


「陛下、この通りの娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


「はい。必ず」


 イヴァンは家族全員と握手を交わす。エルネスタは深々と頭を下げて、それを最後の挨拶とした。


 馬車に乗り込むとテオドルがいたので、気を利かせてくれたことに感謝を述べると、カラッとした笑みが返ってくる。イヴァンは御者に声をかけながら乗り込んできて、腰かけると同時に車体がゆっくりと動き出した。

 窓の向こう、最も長い時を共にした人達が手を振っている。


 寂しくとも前を向くことはできる。

 何故ならエルネスタはあの二人に育てられたのだから。

 可愛い弟を守るために強くあろうとしてきたのだから。

 まっすぐな愛情を与えてくれる彼らに、ひとを慈しむ心を貰ったのだから。




 ***



「……行っちゃった。本当にあっという間だったわねえ」


 その言葉がこの十日あまりを指していないことは、どうやら夫にも伝わっていたらしい。

 ブルーノは何とか一人で立とうとしながら、青い顔に寂寥を浮かべていた。イゾルテは分厚い肩をポンポンと叩いてやる。


「……そうだな。時の流れは早いもんだ」


「何それ。ジジババくさ」


 相変わらず小憎たらしいことを言う息子は、その言葉とは裏腹にせいせいとした笑みを浮かべている。

 エルネスタが攫われるようにして旅立ってからの三ヶ月は、家の中から火が消えたようだった。しかし今回は違う。あの優しい娘の幸せを信じられるからこそ、笑顔で送り出すことができたのだ。


「さ、帰りましょ。そろそろお昼の時間だものね」


「そうだな。ここで突っ立ていたら、あらぬ詮索を受けかねん」


「俺は今から学校だよ。あーあ、授業簡単すぎてつまんないんだけどな」


 歩き出した男たちに倣って、イゾルテもまたゆっくりとした一歩を踏み出す。もう一度だけ振り返った先には、当然ながら既に馬車の姿はなく、ただ柔らかな風が草木を揺らしていたのだった。


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