使者は誰ぞ 1
エルネスタは薬草をすりつぶす手を止め、ふとため息をついた。
それにしても、エンゲバーグとエルメンガルトはどう過ごしているのだろうか。
イヴァンがここへやってきて三日が経つが、彼の言によれば、エンゲバーグは身代わりの発覚後すぐに軟禁することとなったらしい。エルメンガルトに関しては、混乱を避けるためにそのまま王妃業に勤しんでいるという。
手荒な真似はしておらず、二人とも粛々と従ったとのことだったが、どうにも心配で仕方がない。当然の対応だということはわかっているし、むしろ首を刎ねられなかっただけ僥倖とすら言えよう。
でもそれなら、自分は? 何の罰も受けていない。それどころか何食わぬ顔をして、またシェンカへと戻ろうとしている。
エルネスタは粉になった薬草を瓶詰めにして棚に置くと、憂いげな面持ちのまま外へ出た。
ーーしっかりしなくちゃ。
イヴァンの隣にいたいと願うのなら、自らも罪を背負う覚悟をしなくては。むしろ彼が持つものを肩代わりしてあげたい。そう考えることは自惚れではないと信じていたい。
決意を新たに天を見上げると、抜けるような青が国境の街を抱いていた。
イヴァンは山へ狩りに出かけている。ブルーノから手渡された猟銃を手にして、出来がいいと嬉しそうにしていた。やっぱり狩猟民族だ。
今は自分も目の前のことをやろう。エルネスタは独りごちて、洗濯物を取り込みにかかる。
「もし、あなた」
背後から声をかけられたのは、はためくシーツを抱え込んだときのことだった。
真っ白なそれを落としてしまわないように、慎重に丸めながら背後を振り返る。
そこには見覚えのない女性が立っていた。
歳の頃は三十代半ばと思しき、とても美しい女性だ。ブルネットの髪はよく手入れされて、身に纏うドレスは地味ながらも仕立てが良い。しかも背後には護衛らしき男性が二人も控えていて、どうやらかなり高貴な身分らしいことが察せられた。
「いらっしゃいませ!」
エルネスタはシーツを籠に押し込みながら笑みを浮かべた。しかし女性はニコリともしないまま、感情を映さない瞳でこちらを見据えている。
「うちの店にご用命でしょうか? 店舗入り口は、反対側なんです」
鍛冶屋北極星は評判が良く、地元貴族も贔屓にしてくれている。その関係者だろうと当たりをつけたエルネスタは、案内をするべく歩き出した。
「どうぞこちらへ。狭い店ですけど、品揃えはーー」
「わたくしは貴女に会いに来たのです。エルネスタ」
全く予想外の言葉を投げかけられて、エルネスタは驚きのままに足を止めた。
今この女性はなんと言った。いやそれよりもまず、どうして名前を知っているのか。
「貴女はこの街を去らねばなりません。これより先、わたくしに従っていただきます」
「何を言って……? あなたは、一体」
「わたくしはブラル帝国皇后、コンスタンツェと申します」
淡々と告げられた自己紹介を聞くなり、衝撃のあまり目を見張ったまま動けなくなってしまった。
ーー何の冗談なのかしら。皇后陛下がこんなところにいるはずがないのに。
というか、ちょっと待って。本当に皇后なのだとしたら、この人は、私の……!
混乱するあまり、エルネスタはよろめいてしまう。しかしそれを逃げるためと捉えられたのか、背後の男たちが瞬時に動いて、無防備な身体を両側から拘束した。
「なっ、何をするんですか⁉︎ 離して!」
反射的に逃れようと体を捩るが、荒事に慣れた様子の男達はびくともしない。何が何だかわからないながらも、絶望感が胸中を覆う。
しかしその時間も長くは続かなかった。頭上から男達の苦悶の声が聞こえたと思ったら、次の瞬間には腕を引かれて、見知った背中に庇われていたのだ。
「俺の妻に触れるな」
イヴァンが短く吐き捨てた声は地を這うように低かった。
エルネスタは唖然としてその精悍な後ろ姿を見上げた。二人の男はそれぞれ首と腹を抑えて蹲っていたが、堂々たる王の姿を目にするなり顔を青ざめさせる。
「貴様らなど瞬きの間に噛み砕いてくれるぞ。それを知っての所業か、皇后……!」
それは声だけで周囲を平らにしてしまうのではないかと思うほどの、烈火の如き怒りだった。
人の姿であろうが、テオドルと対峙したときのそれなど比較にもならない。エルネスタは物干し竿や店の窓枠が揺れたような錯覚すら覚え、後ろ手に庇われながらも肩を震わせた。
いつもそうだ。困った時、どうしようもない時、いつだってイヴァンは助けに来てくれる。
エルネスタは安堵のあまり膝をつきそうな程だったが、広い背中のシャツを握りしめて何とか耐えた。その感触に気付いたイヴァンは微かにこちらを振り返り、力強く頷いて見せる。
そんなやりとりの間にも、正面から怒りを叩きつけられた男達はひとたまりもなかったようで、すっかり硬直したまま動けなくなっている。しかし女性の方は顔を青ざめさせつつも毅然とそこに立っていた。
エルネスタは今になってようやく悟る。
この動じることのない佇まい、ツンとした鼻、ブルネットの髪。どこからどう見てもエルメンガルトにそっくりではないか。
「……イヴァン王。なぜ、あなたがここに」
「それはこちらの台詞だ。コンスタンツェ皇后」
女性の名乗りが嘘でなかったことの証左を受け、エルネスタは再び凛とした立ち姿を見つめた。産みの親との対面はあまりにも突然で、どうにも感情が追いついてこない。
コンスタンツェは問いかけても無駄であることを悟ったのか、一つため息を落として目を伏せた。
「わたくしは、皇帝陛下の命を受けて参りましたの」
「皇帝の命だと?」
「ええ。今後もエルネスタをエルメンガルトの身代わりとして利用する為に、確保した上で監視下に置け、と」
静かな声で告げられた事実に、イヴァンの背中から怒りが噴出した。表情を見ることは叶わなかったが、それでも伝わるほどの怒気だ。
「……下衆め。おまけに途方もなく愚かだ。それが実の娘に対する仕打ちか」
罵りの言葉を投げつけられても、コンスタンツェは目を細める以外の反応を示さなかった。
しかし彼女が何か言葉を返そうと口を開きかけたところで、第三の来客が訪れる。
軽快すぎる歩調で現れたのは、完全に予想外の人物だった。
「よーお、久しぶりだなお二人さん! って、あれ……?」
「テオドルさん……⁉︎」
人の姿のテオドルは張り詰めた空気に頬をかきつつ、顔を左右へと動かしている。当然ながら状況を把握するには至らなかったようで、最終的には答えを求める視線をイヴァンへと送った。
「俺、もしかしてお取り込み中に来ちゃった?」
「いや、最高のタイミングだ、テオ。親書をよこせ」
再会を喜ぶでもないイヴァンの様子に気を悪くした風もなく、テオドルは背負っていた荷物の中から丸めた羊皮紙を取り出した。
親書を届ける役目を担ったのがテオドルだったとは。まさかの事態に、エルネスタは開いた口が塞がらない。
「ほれ。囚人遣いが荒いぜ、お前」
放り投げられた筒を難無く受け取ったイヴァンは、そのままコンスタンツェに向かってそれを差し出した。
「今この場で読んでもらおう」
この時になってようやく我を取り戻した護衛の男が、よろめきながら立ち上がって親書を受け取る。コンスタンツェの頷きを受けて羊皮紙を広げた男は、その内容を読み上げ始めた。
「……これは此度の謀略についての、厳重な抗議文書である。貴国はもはや同盟国として尊重するにあたわず。切なる反省と謝罪を表明した上で、以下の条件を受け入れられたし。一つ、エルメンガルト、エルネスタおよびその家族について、今後一切の接触を禁ず」
エルネスタは思わず顔を上げた。前を向くイヴァンはこちらを一瞥すらしなかったが、力強い腕が肩を支えてくれている。
「一つ、シェンカ大使エンゲバーグ伯爵を解任することなかれ。一つ、同盟を破棄することなかれ。一つ、条文における派兵の項を撤廃することとす。以上。また、これらの条件が一つでも反故にされた際には、エルメンガルト姫の証言と共に此度の謀略を世界中に喧伝することを留意されたし」
男は親書を読み上げると、蒼白になった顔をのろのろと上げた。
今回の件が世界に知れたらどうなるのか、考えなくともわかることだ。
ブラルは外交上の信用を失う。諸外国にそっぽを向かれた国の末路など、明るいものではないことは間違いない。
イヴァンは真っ直ぐにコンスタンツェだけを睨み据えている。彼の藍色は抜き身の刃を思わせる鋭さを有していた。
「もう一つ、付け加えておこうか。この条件を飲めないのならば、俺はこのまま単独で宮殿に向かい、皇帝の首を切り裂いてやる。不可能だなどと思ってくれるなよ」
テオドルが「それなら俺も手伝うぜ」と気楽そうな声を上げる。しかし効果は十二分だったらしく、護衛の男二人は限界まで強張った顔をさらに引きつらせた。
「貴様らは謀る相手を間違えた。理解したならそれを持って夫の元に逃げ帰るがいい」
これで話は終わった。そう言わんばかりに吐き捨てたイヴァンに対して、コンスタンツェはしばし黙したままでいた。
やがて皇后は微かな笑みを浮かべて見せる。それは安堵の含まれた優しいものであった。




