秘められた歴史、新羅王朝と得曼姫
八八四年、今から二十年前のことだ。
その頃、飯炊きとして船に乗っていたムサン爺は、ある出来事を目撃した。
義宝は二十一歳の青年であり、交易を任されたばかりであった。
朝鮮半島と中国大陸の間に広がる黄海を航行中、怪しげな船を見かけた。
所属を表す旗も掲げず、大陸へ入口である遼東半島を目指していた。
「あれは、海賊船だな。
新羅で悪さをして、戻る途中なんだろう」
船影を眺めていた義宝は、断定した。
半島沿岸を荒らす海賊船は、たいてい住民を攫っていた。奴婢として売るためである。
奴隷貿易の根絶を国是としているトカムとしては、見逃すわけにはいかない。
「追うぞ!」
義宝の号令が、船内に飛んだ。
幸いにも風向きは、順風である。積荷も少ない。
おまけにトカムの船は、波切り性能に優れている。
巧みな操船で、しだいに距離を詰めていった。
相手の船も、こちらの意図に気付いたようだが、もはや逃れることはできない位置関係にあった。
ほぼ並走状態である。
あわてふためく船上の人影が、はっきりと見える。
「胴に一発食らわせろ」
操舵長に指示する。
「卯面舵いっぱい!」
少し先行してから、大きく右旋回した。
帆を下ろす。
「ドン、ドン、ドン――」
「エイヤ、エイヤ、エイヤ――」
太鼓の音に合わせ、全力で櫂を身に引き付ける。
スピードが乗ってくると、衝角が水面近くに姿を現した。
「打ち込め!」
義宝が、怒鳴るように言った。
「グワァ――ン!」
凄まじい衝撃音が、響き渡る。
胴体に衝角が、突き刺さった。船足が、止まる。
「射かけろ!」
構えていた弓手が、斉射する。
相手も応射してくるが、バラバラと降ってくるだけである。
「乗り込め!」
「ワアアア――」
鈎縄で船同士を固定し、渡り板を掛けた。
吶喊し、盾と短槍を先頭に突入する。
剣戟響く白兵戦となった。
しばらくして船内の制圧を完了した。
「頭領、やはり攫われた人たちが居ました」
義宝の下へ、報告があった。
案内されて船内へ降りる。
薄暗い倉庫の床に数十人の老若男女が、蹲っていた。
服装から見て、新羅人であろう。
いずれも不安そうな顔で、こちらを見上げている。
「心配しなくてよい。我らは、トカムの者だ」
それを聞いた人々の顔に、安堵の色が浮かんだ。
奴隷貿易を憎み、それに携わる海賊に対して戦いを挑んでいる張保皐の一族と遺臣たちの噂は、半島沿岸の人々には、伝わっているようである。
すぐに移動を促した。この船も、そう長くは持たない。
人々は、動き出した。
海賊に略奪された品々も運び出す。
義宝は最後の確認をするため、グルッと全体を見渡した。
古びた衣装箱「長持」の陰に、人影を認めた。
猿轡をかまされ、手首を縛られた中年の女性と少女であった。
近くに縄でグルグル巻きにされ、転がされている若者がいた。
意識は、ないようだ。
「これは、酷い怪我だ。
だいぶ痛めつけられたな」
駆け寄って縄を切り、若者を抱き起す。
二人の女性は、まだ怯えた様子で目を伏せている。
少女の服装は庶民のものであるが、匂い立つような気品は、隠しようもなかった。
(地方貴族か官僚の娘、その侍女といったところか――)
そう値踏みをしたが、あえて問うことはしなかった。
「もう大丈夫です。
我らはトカム国の者、海賊ではありませぬ。
安心して吾が船へお移りくだされ」
若者は、戸板に乗せて同行の者に運ばせた。
義宝自身は少女の手を取り、トカムの船へと導いた。
部屋と清潔な衣服を与え、休ませる。
若者の怪我は、金創(外傷)に詳しい者が手当てした。
「主に打撲と切り傷です。命には、別状ありません」
後で、そのような報告があった。
戦いの後始末を終えた船は新羅へ向かい、攫われた人々を送り届けた。
だが、少女の一行は、上陸を拒んだ。
「理由は申し上げられませぬが一時の間、匿っていただきとうございます」
侍女らしき女が、必死の表情で訴えた。
(何か深い事情がありそうだ)
義宝は、その願いを受け入れ、トカム(徳之島)へ連れ帰った。
島の館で少女は、王妃の近くで暮らすこととなった。
王妃である義宝の母は、面縄集落の長、東(安曇)家の娘である。
壱岐島の斎王、オオミコの血を引いていた。
姉は巫女として祭祀を取り仕切っていたが、妹に霊能力は、現れなかった。
しかし、高貴な血筋は争えない。賢く、洞察力に優れていた。
傍に置いて細目に世話をしながらも、とくに問い質すこともしなかった。
義宝も、意図的に距離を置いていた。心の傷を癒すには、時間が必要だと思ったからだ。
少女は、ときおり芝生の庭へ出て、木陰で涼んでいた。
離れたところから眺めていただけであるが、心惹かれるものがあった。
齢は、十六、七歳といったところだろう。
淡い紅色の薄衣を纏い、背もたれ椅子に身を委ねていた。
遠い空を見上げる物憂げな表情が、若い義宝の心に揺らぎをもたらした。
若者の方は瀕死の重傷を負っていたはずなのに、見る見るうちに回復していった。
山盛りの飯を食べ、少しずつ身体を動かしていた。
少女が落ち着いた生活を送っていることを知った後は、侍女たちと言葉を交わす場面も見られるようになった。
けっこう気さくな性格らしい。
七日ほど過ぎた頃には、長い棒を左右に振り下ろしたりもしていた。
長刀を扱う動きである。
日課となった朝の鍛錬を終えた若者を、庭の腰掛け(ベンチ)へ誘った。
若者は新羅人で、李昌輝と名乗った。
「身体の具合は、どうかな?」
「思いがけぬ恩恵を賜り、九死に一生を得ることができました。
心から感謝致しまする。
身体の方ですが手足の動きに、さほど支障はないようです」
語る笑顔が、魅力的であった。
髭で顔面が覆われているため、年齢は定かではなかった。
「おヌシらの氏素性について、話してもらいたい。
むろん明かせることだけでよい」
気遣いを見せながらも、率直に尋ねた。
「詳しい経緯につきましては、主君の許しを得なければ、申し上げることはできませぬ。
ですが、拙者に関することであれば、お話し致しまする」
「主君とは、あの若い娘子のことか?」
「左様でござりまする」
「御名は?」
「得曼姫と、お呼び申し上げておりまする」
「貴族でいらっしゃるか?」
「――まぁ、そう申し上げても良いかと……」
言葉を濁した。
これ以上、問い詰めても答えないだろうと思い、話題を切り替えた。
「おヌシは、姫の護衛武士か?」
「はっ、父の代から、お仕え致しておりまする」
武士としての誇りが、うかがえた。
昌輝は、海賊船に捕らえられるまでの経過を語った。
得曼姫は、事情あって母君と共に新羅の海岸近くの村に隠れ住んでいた。
身辺には二人の侍女と下僕、護衛武士である李の父子しかいなかった。
昌輝は、十五歳のときから姫の警護を任されていたという。
武術は、幼い時から父に仕込まれていたので、それなりに自信があった。
都落ちして、この陋屋に住まってから、はや十年が立つ。
ここは、姫の乳母でもあった侍女の出身地であった。
目立たぬよう息を潜めるようにして暮らしてきた。
だが、ついに敵対する勢力の目に留まってしまった。
敵方としても、放っておけなくなったのだ。
自分たちの地位を脅かすかもしれない母娘であるからである。
大規模な探索の網が掛けられ、絞り込まれて特定されるに至った。
その情報は、敵の勢力下にあっても恩顧を感じている者から、秘かに伝えられた。
追手がやってくるのも、時間の問題だった。
「わしが、追手を食い止める。
少しでも遠くに、お二人をお連れせよ」
父の命には、逆らえなかった。
昌輝は女君に、その旨を申し上げた。
「吾は、ここへ残る。
姫だけ連れて逃げよ」
「そんなわけにはいきませぬ」
承るわけにはいかなかった。同行することを懇願した。
すると、懐刀を取り出し、自分の首筋へ当てた。
「お前の主人は、誰か!
改めて命ずる。姫を生き延びさせよ。
お前の働きに、新羅の命運が懸かっている」
強い口調で再度、命じた。
その気迫と覚悟を前にして、もはや昌輝は拒むことができなかった。
「はっ!
承りました。
姫様は、わが命に代えてもお守り致しまする」
片膝を地に突き、深々と頭を下げた。
ただちに得曼姫とお付きの侍女一人を伴い、その場を離れた。
しばらくして振り返ると、隠れ住んでいた家の辺りから炎か上がっていた。
おそらく父も、女主人と運命を共にしたことであろう。
昌輝は唇を噛み締め、母の名を呼んで泣き叫ぶ得曼姫の手を引きながら、藪の中を走った。
逃避行の先として選んだのは、中国大陸であった。
敵の勢力を考えれば、新羅国内に安住の地はない。
とりあえずは、山東半島に点在する新羅坊を頼るつもりだった。
港へ出た。
懸念した通り検問が、おこなわれていた。
兵士たちが、旅客の人別と荷物を改めている。
坂道近くの岩陰から、その様子をうかがいながら、船へ乗り込む方法を考えた。
夜の闇に紛れて忍び込み、倉庫にでも隠れるしかない。
日が、暮れた。
それでも、兵士たちは立ち去らない。
松明の火が、桟橋付近で揺れている。
(ダメか――)
絶望しかかったとき、急に松明の火が移動し始めた。
かなり慌てている様子だった。
少し山手方向にある集落の中心付近から、火の手が上がっている。
役所か軍の駐屯所でもあるのだろう。
(しめた!)
この機を逃さず、迅速に行動した。
一気に坂を駆け下り、船へ乗り込む。
容易く成功した。
積み重ねられた木箱と隔壁の間に、三人とも身を潜めた。
これで最初の難関は、突破したはずだった。
だが、さらなる災いが、待ち構えていた。
大勢の人が桟橋を歩く足音と、怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきた。
しだいに近づいてくる。とうとう船底の倉庫へと、やってきた。
「ここに押し込めておけ」
塩辛声が、聞こえた。
そっと覗いてみると、人々が、手首を縛られ数珠繋ぎにされて、座らされている。
周りを無法者らしき風体の男たち数人が囲み、足で蹴ったり棒でこづいたりしていた。
(海賊の奴婢狩りか)
昌輝は、思った。
すんなり乗り込んできたところを見ると、最初から貿易船を装った海賊船だったのかもしれない。
(とんでもない船に飛び込んでしまったな)
後悔した。
おそらく火事騒ぎは、海賊たちの陽動ではなかったか。
別働隊が兵士たちを誘き出し、わざと後を追わせて港から引き離したものと思われる。
その間に本隊が、海岸近くの民家を襲ったのであろう。
「キャッ……」
得曼姫が、小さな悲鳴を挙げた。
ネズミが、足元を走っていったのだ。
「誰だ!」
海賊たちの目が一斉に、倉庫の片隅へ注がれた。
(仕方がない)
昌輝は刀を抜き、転がり出た。
その勢いのまま腕を振り、近くにいた海賊の足を払う。
「野郎、何者だ」
刀や短槍を手にして、殺到する。
低く身を構え縦横に歩を踏み、迫る相手を切り伏せていった。
しかし、しだいに追い詰められ、最後は長い棒で突かれ、打ちのめされた。
後は、字通りの「袋叩き」である。
ボコボコにされて、気が遠のく中で、最も危惧された台詞を耳にした。
「おっ!
こんなところに女がいるぜ。
それも上玉だ」
舌なめずりをせんばかりの、卑猥な語調だ。
(姫……)
意識を失った。
語り終えた昌輝は、そのときの悔しさが脳裏に蘇ってきているようだ。
拳を握り絞めている。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
「――そうか、わかった。
よく話してくれた。感謝する」
「いえ、こちらこそ、もっと早くお話し申し上げなければならないことでした」
李昌輝が、深々と頭を下げる。
肝心なところはボカされているが、主ありきの話なので致し方ないことであろう。
近々の経緯は、ほぼ想像通りであった。
何よりも率直な物言いと、屈託のない明るさに惹かれた。
話は武術談に及び、運ばせた朝食をほおばりながら、延々と話し込んだ。
その中で、義宝より四つ年上であることがわかった。
意気投合し、後には「桃園の誓い」をなし、義兄弟の契りを結ぶほどの関係となった。
ほどなくして母である王妃から声が掛かった。
「良いお茶が手に入ったから」という誘いである。
むろん応じた。
樹の下に設けた卓を挟んで、香片の入った餅茶の接待を受ける。
「最近、あの護衛武士と親しくしているようだな」
「はは、母上のお耳にも届きましたか。
好い男ですよ」
義宝は、答えた。
互いの近況報告を交わした後、義宝の方から話を導いた。
たぶん王妃の本題であろうことについてである。
「得曼姫に関して、何かおわかりになりましたか?」
「そのことだが――」
王妃は、得曼姫と侍女から断片的に語られた内容を話し出した。
「山東半島の新羅坊をめざしていたとのことだが、確かな宛はなかったみたいだ。
切羽詰まっての選択だったらしい。
さりとて新羅へも戻れない事情があるようだな」
「そこまでは、私も把握しております。
問題は、その『事情』というやつですが――」
「うむ、吾もそれを知りたかった。
だが、得曼姫は、自ら語ることを拒んでいる。
そこで、侍女にそれとなく尋ねた。
なかなか口が重かったが、『姫のためじゃ』と諭して語らせた」
「それで?」
「驚くべきことが、わかった。
得曼姫は、新羅王室の姫君だ」
「ええっ――、まさか!」
「ああ、直ちには、信じられなかった。
だが、吾の聞き知る新羅王室の政情と、話の辻褄が合うている」
「……」
義宝も新羅との通商をおこなっているので、ある程度の政情は知っている。
その話の内容は、十分に納得できるものであった。
八六〇年――。
新羅王朝の第四十七代、憲案王は、王族の膺廉に二人の娘の内、どちらかを娶らせようとした。
姉の容姿は人並であったが、妹の方は美貌で知られていた。
選択を迫られた膺廉は、ある僧に相談し、その助言に従って姉の方を選んだ。
それは、正しかった。王の願いに適っていたからだ。
膺廉は翌年、王の遺言により王位を継ぐことになった。
第四十八代、景文王(在位・八四五年~八七五年)である。
景文王は妹の方も娶り、王妃とした。
次席ではあるが、正式の王妃としてであった。
この王妃が、姫を産んだ。景文王は「得曼」と名付け、可愛がった。
得曼が六歳になった八七五年、景文王が崩御した。
姉の方の王妃には、二人の息子と一人の娘がいた。
長兄が、王位を継いだ。
その結果、妹の次妃は姉側の宮廷勢力から、命を狙われるようになった。
理由の一つは、得曼が形式上のことだけであっても、王位継承権を持つことだ。
もう一つが、「嫉妬」であった。
景文王は当初、損得勘定で姉の方を娶ったが、心は妹の方にあった。
よって、次妃を寵愛し、姫も慈しんだ。
それは、「得曼」という名にも、表れている。
字は異なっても、賢王として名高い「善徳女王」の諱、本当の名前である「徳曼」と同じであったからだ。
姉の方の娘の名が、ただの「曼」であっただけに、その溺愛ぶりは周囲の者たちの眼にも明らかであった。
それが、姉側に根深い嫉妬心を生じさせた。
後ろ盾を失った次妃が身を護るためには、宮廷を離れ、僻村に隠れ住むしかなかった。
長兄が病の床に就き、王位の継承が、現実の問題となってきた。
その頃から、得曼姫の名が再び、宮廷人たちの間で囁かれるようになった。
当時、高位の君臣による反乱があったりしたからだ。
得曼姫は、反乱軍の神輿として担がれかねなかった。
王室は、警戒した。
後継の王は次兄と定まっていたが、病弱であった。
妹の曼への継承も、視野に入れておかなければならなかった。
八八四年――。
昨年から続く凶作の影響で人々は、飢餓に苦しんでいた。
その怨嗟の声は王城にも届き、世情は不安の渦中にあった。
王室は「後顧の憂い」を断つため、次妃親子の捕縛を全国規模で命じた。
義宝は、母が訊き出した新羅王室の「事情」に息を飲んだ。
得曼姫に、心から同情した。
「凄まじくドロドロした話ですね」
「そうだな。
だが、王室にはよくあることだ。
最も吾らのような新興の小国には、縁のない話だがな。フフッ」
王妃は含み笑いをしながら、茶椀を口元へ運んだ。
いずれにせよ得曼姫が新羅へ戻るという選択肢は当面、なさそうだ。
「得曼姫さえ承知すれば、しばらく吾が、身柄を預かろうと思う。
王の内諾は、得ておる。
よいか?」
「ええ、無論です」
快諾した。
反対する理由などなかった。
美しい姫と気の合う友が近くにいてくれるということは、願ってもないことだった。
ただ一つ気になることがあった。
得曼姫が、海賊に奪われたという錦織の巾着袋に対して、狂わんばかりに執着していたことだ。
「どうしても取り戻して欲しい!」と懇願された。
中身を尋ねたが、答えない。
いちおう略奪品を調べてみたが、該当する品はなかった。
その旨を伝えると、非常に気落ちしたようで、その日は、食事も摂らなかった。
「あれは、何だったんでしょうね?」
起こった出来事を話し、心当たりがないか尋ねた。
「ああ、それも聴き出している。
あの袋には、頭巾が入っていたのだ」
「頭巾?」
意外な答えに、思わず問い返した。
「奪った海賊も、拍子抜けしたことだろうよ。
金目の物かと思って開けたら、古びた頭巾が入っていただけだからな」
確かに布地は、上物ではあった。――とは言っても、頭巾である。がっかりして、下っ端の者に投げ与えたらしい。
だが、得曼姫にとっては、何物にも代え難い品だった。姫の父、景文王の「形見の品」であるという。
六歳で死に別れた父親であったが、膝の上に抱え上げられ頭を撫でられた記憶はあった。
都落ちするときに唯一つ持ち出せたのが、この頭巾であった。
「景文王の……」
義宝は以前、新羅の城市で耳にした「ある噂」を思い出した。
「景文王の耳は、ロバの耳」という寓話めいた話だ。
景文王は即位した後、急に耳が急に長くなった。
しかし、いつも頭巾を被っていたため、誰も気が付かなかった。
ある時、頭巾職人が、このことを知ってしまった。
むろん誰にも話すわけにはいかない。
そこで人のいない竹藪で、「王様の耳は、ロバの耳」と叫んだ。
すると、風が吹いて竹が揺れる度に「王様の耳は、ロバの耳」という声が、竹藪から聞こえるようになったという。
これと似た話を、西域の商人からも聞いたことがあった。
「西の国から流れてきた単なる寓話だろう」と義宝は、その時は思った。
それが、景文王と結び付けられたのは、為政者になってからだ。
街の様子や声を知るため、庶民の服装に身をやつし、街中を歩き回ったからであろうと推察した。昔から 優れた王は、そのような行動をとると言われていたからだ。
「長い耳」とは、「庶民の声に耳を傾ける耳」を例えていたのかもしれない。
景文王の評価は、「歴代の王の中では、まあマシな方かな」という程度だった。
だが、得曼姫にとっては、「誇るべき賢王」として理想化されているのだろう。
その思いと共に肌身離さず持っていた大事な品が、海賊に奪われのだ。
得曼姫の悲嘆を義宝は、理解した。
一月近くを経て気持ちの落ち着いた得曼姫は、王妃の館で暮らし、貴人としての教育を受けることを承諾した。
護衛武士としての任を解かれた李昌輝は、義宝と共に船に乗り、航海術や交易を学ぶことを望んだ。
新羅王室は二年後、次兄が継承した。
だが、大方の見方通り病弱のため、一年と持たなかった。
八八七年、妹の曼が推戴された。「真聖女王」である。
得曼姫にとっては従妹であり異母姉妹でもあったが、同時に母君の敵である。
また、宮廷人事は、敵方で固められていた。
新羅で足掛かりを築ける見込みは、まったくないようだ。
得曼姫は義宝の求婚を受け入れ、トカムの妃となった。島で暮らした三年の間に二人の距離は、それなりに縮まっていた。
ちなみに真聖女王は十年間、王座にあったが、新羅は急速に衰亡していった。
それというのも女王が国事に関心がなく、見栄えが良いだけの若い男を要職に就けたためとされている。
そんな有様を見た景文王の老いた遺臣たちは、「得曼様が、女王となられていたら……」と声を潜めて語り合い、嘆いたという。
「へぇ――、そんなことがあったんだぁ」
カイトはムサン爺の話を聴いて、感嘆の声を挙げた。
まるで韓流の歴史ドラマのようであった。
ムサン爺は義宝や李船長から、「昔語り」として聞いたらしい。
これで出発前に得曼妃が、「聴き耳頭巾」に拘っていたわけがわかった。
皇太子となった息子に「景文王のようになってもらいたい」という願いからだったのだ。
その背後には、新羅王朝の血筋への執着があるのであろう。
李船長がミーカナに対して敬語を遣うのも、かつて護衛武士として得曼に仕えた縁が、そうさせているのかもしれない。
「考えて見ると、ミーカナが受け継いでいるものって、すごいね。
面縄集落出身のお祖母さんの血統は倭人で、安曇氏の本家筋でしょ」
「そうじゃなぁ――。
倭の天皇家も、親戚筋と言えんこともないからなぁ」
「えっ、そうなの?」
「元をたどれば、同じ海人族の血を引く家柄じゃからな。
その縁で壱岐や隠岐、九州沿岸の氏族が、いっぱい朝廷へ仕えちょる。
じゃから、わしらの商売もうまくいっちょるんじゃがね」
日本書紀によると天皇家の祖、神武天皇の祖母は海神である「綿津見大神」の娘、豊玉姫。綿津見大神は、安曇氏の祖神である。
祖父は山幸彦で、妻の豊玉姫から、「潮の干満を操る珠」を与えられている。
父親のウガヤフキアエズもまた豊玉姫の妹(神武天皇から見れば叔母さんに当たる)、玉依姫を娶っている。
玉依姫は、その名が示すように神霊を憑依させることのできる巫女であったと思われる。
つまり神武天皇は、祖父と父の二代にわたって海神の血を受け、助力を得ているのだ。
そこから天皇家における海人族の「霊的守護者としての立ち位置」がうかがわれる。
安曇氏は、朝廷から「海人族の長」に任ぜられた。
また、宮内省に属し、天皇の食事を担当する役職、「内膳司」を代々受け継ぐこととなった。
食事の管理は、「天皇の生命維持に関わる仕事」である。
さらに言えば神武天皇は四人兄弟の末っ子であり、長兄は、「穀物と食料の神」だ。次兄は海の彼方にあり、生命の源である「常世の国」に住まっている。
おそらく安曇氏は「食料を通じて天皇に霊力を補給する任を担っていた」のではないだろうか。
いずれにせよ天皇家と安曇氏との間にある深い縁と、信頼がうかがわれる。




