悲劇の海商王、チャン・ポゴ
「祖父の名は、チャン・ポゴと言う。名高い方だった」
張保皐――。
「海神」とまで言われた海商王である。
七九〇年代に生れ、八四六年に亡くなった。
出身地は、朝鮮半島の南端近くの小さな島、莞島である。
「幼いときに村を襲った海賊に攫われ、大陸へ奴婢として売り飛ばされたと聞く。
なれど、異民族ながら唐の武将にまでなった」
異国の地で、牛や馬と同等の扱いを受けながら育った。
泥にまみれた境遇から、自力で這い上がっていく。
「その後、新羅に戻って足場を固め、海運業に乗り出したのだよ」
ある程度の財を築いた後、兵と武器を蓄えた。その軍事力を背景として、新羅の政治体制に食い込んでいく。
最後には、故郷近くに自ら開いた清海鎮の長官となった。
そこを拠点として、さらに海運業の手を広げていった。
活動範囲は、新羅・唐・日本を中心としていた。
東南アジア・インド・ペルシア・アラビアとも通商関係があった。
業務内容は、陶磁器の直接生産と輸出、各国使節団の通訳および案内業務、旅客運送、船舶の建造と修理、宗教や文化活動の支援など多岐にわたっていた。
「祖父は、民たちの希望の星であった。
常に同胞のことを思い、処々の事情で国を離れ、大陸に散った民の力を結集していった」
当時、唐の沿岸地域には、新羅人たちの居留地、新羅房が点在していた。
チャン・ポゴは、そうした勢力のネットワークを築き、リーダーとして活動した。
「新羅人と言っても、根っからの民だ。
北からやってきた王侯貴族とは、出自が違う」
朝鮮半島南部は、古くから倭人が住み暮らしていた土地である。
長靴に例えるならば、ちょうど爪先から靴底にかけての部分だ。
チャン・ポゴは、倭人(日本人の原族)であった。
半島南端の周辺に点在する島々の住人は「海島人」と呼ばれ、見下げられていた。
おそらく半島において大勢を占める北方系の人々とは異なる風貌や言語、風俗習慣を持っていたため、奇異に見られたためであろう。
倭人は、長江の中・下流域に住んでいた人々である。
時とともに大陸海岸部に沿って居住範囲を拡げていき、朝鮮半島にまで達した。
さらにその一部が日本列島へ渡り、大和民族のもととなったとされる。
倭人は、海人族であった。
漁労はもちろんのこと、海上交通の知識と技術を持っていた。
チャン・ポゴが急速にネットワークを拡げられたのは、似通った風俗習慣を有する倭人の血のおかげではなかっただろうか。
「武将としても、名を残している。
新羅朝廷が恐れるほどの軍船と兵力を持っていたとのことだ。
海賊退治を、己の使命としていたという。
とくに奴婢の売り買いをする者には、容赦なかったらしい」
大規模な貿易を安全に遂行し維持していくためには、それなりの武力が必要であった。
また、自分の生い立ちからも、許しておけなかったのだ。
「だが、その絶頂期に信頼していた部下に裏切られ、殺された……」
夢の途上で、部下の閤長に暗殺されてしまった。
背後には、奴隷貿易で莫大な利益をあげていた商人や、王や貴族たちの陰謀があった。
朝廷に影響力を及ぼし始めたチャン・ボゴを、快く思っていなかったのだ。
「残された者たちも抗おうとしたが、力及ばなかった。
よって、再起を果たすため、一族郎党ともに数隻の船で旅立った」
チャン・ポゴの死後、清海鎮は、ヤン・ジョン一派によって牛耳られることとなった。
残党が反乱を起したが、鎮圧されてしまった。
家族は、忠実な部下たちに守られながら日本へ渡った。
当時、日本には、チャン・ポゴと縁の深い人々が大勢いたからだ。
とくに九州沿岸には、数多くの知人や友人がいた。
そうしたところを転々とした。
「どうして、徳之島を拠点とすることにしたの?」
カイトは、尋ねた。
「安全と、貿易上の利点を考えてのことだ」
新羅周辺はヤン・ジョン一派が掌握しており、危険だった。
また、夜光貝など南海産の稀少物品を扱う業者が需要に比べて少ないことを知り、それらを商売の糧とすることにしたからだ。
「島では、面縄の東一族に助けられた。
その長の娘を娶り、ようやく安住の地を得ることができた」
東は、「安曇」の流れであった。
対馬・壱岐・九州沿海域の島々は、海人族の一大拠点であった。
その代表的な氏族が、安曇氏である。
朝鮮半島と九州の間を結ぶ「道の島」であり、航海の知識を蓄えていた。
奄美・沖縄の島々との航路を開拓したのも、この一帯の海人族であるとされている。
「父や兄者は、たいへんな苦労を重ねてきた。
海賊と戦ったり、異国で商売をしたり……」
アマミコは、一族がたどった道筋を語り終えた。