企業家、松上幸太郎と竜――「雷門」の由来
雷門(風神雷神門)は、浅草寺のシンボルとも言うべき存在である。
朱塗りの山門で、門の中央には、重さ約七百キロの赤い大提灯が吊りさげられている。
「これよ。何だかわかる?」
門の裏手を指さした。
彩色された左右二体の木像が、祀られている。
表を守る像は風神と雷神であることは知っていたが、裏の両像が何であるかは考えたこともなかった。
「あれ?
何だったけ……」
「金竜と天竜よ」
ゼンは、両手を腰に当てブスッとした顔で言った。
「金竜は私が、モデルになってあげたの。
彫刻家の夢枕に立ってね」
豊かな黒髪を頭頂に大きく盛って結わえ、両肩から背中へ流していた。
下半身は、赤の地に金の柄模様をあしらった裙を着け、腰に水色の布を巻いている。
上半身は、細い帯状の布で胸を覆い、前で結んでいるだけだ。
「オトナの女性って、感じですね」
「そうでしょ」
ドヤ顔で、言った。
「でも、ゼンって、元の姿はクリーム色の小ヘビじゃなかったの?」
「いいの!」
キッと、にらむ。
余計な一言を言ってしまったようだ。
「この門と提灯は、松上幸太郎という企業家が、寄贈したのよ。
生前、ちょっと縁があったの。
コウちゃんって、私は呼んでいた」
松上幸太郎の名は、カイトも知っている。一代で日本を代表する企業「松上電工グループ」を築き上げた人だ。
ゼンは、幸太郎との出会いから話し始めた。
松下幸太郎は、和歌山県の小地主の子どもとして生まれた。
しかし、父親が商売に失敗して破産し、丁稚奉公に出された。無給の見習いとして就職したのだ。
大正時代の中頃、二十三歳の時に大阪の自宅で自分が考案した電球のソケットを作って売る商売を始めた。
当初は、思ったようには売れなかった。
ある日、阪神百貨店前の道を歩いていた。すると、目の前を小さな白蛇が横切った。
(これは、吉兆だ)
そう感じた幸太郎は、まず白竜大明神を社屋に祀った。会社が発展するの従って、黒・青・赤・黄の竜神を事業所や工場で祀るようになった。その数、百三十カ所余りにのぼる。今でも、僧職(真言密教)の資格を持つ専門の社員が、祭祀を司っているという。
西宮の自宅では、善女竜王を祀っていたとのこと。
「ようするに松上電工グループでは、竜神を企業の守り神としているの。
そうした縁があって、浅草寺の雷門も寄贈した。
境内での戦いのとき現れた竜は、各事業所の社から出張してきたのよ」
「へぇ、そうだったの」
まったく気づかなかった。
「ウッソ(嘘)。
そんなわけないでしょ。ハハハハ――」
からかわれたらしい。
「コウちゃんは、私を自宅へ祀っていてくれていたので、いろんな話をした」
「どんな話をしていたの?」
「そうねえ。この世の在り方とか、人や商売の使命といった話かな」
「……」
「彼は、神に現世利益を求めていなかった」
「どう考えていたの?」
「ご利益は、すでに与えられているって言っていた」
「すべての人に与えられている?」
「そうよ」
「そんなぁ……。
だったら世の中に不平不満なんてないはずじゃん」
「だから、気づいていないのよ」
「……?」
「これ以上、話しても、ややこしくなっちゃうから止めておく。
さあ、上野へ行くわよ。花見、花見」
不満げなカイトを置いて、さっさと地下鉄の駅に向かって歩きだした。
地下鉄の「浅草駅」は、やはり大変混雑していた。
コインロッカーへ荷物を放り込み、身軽に動けるようにする。
リンレイを守るようにして構内へ入り、ホームで電車を待った。すぐに電車は滑り込んできた。
乗り込む。身動きさえままならない。こんな状態でも人々は、スマホを取り出して見入っている。または、車内の電子掲示板や中吊り広告に視線をやっていた。家族連れも多いのに静かだ。車内アナウンスだけが、淡々と流れる。
「リンレイ、だいじょうぶ?」
ゼンが肩を抱き、優しく声を掛ける。
身体を硬直させ、唇を噛みしめている。
「混んでいるのって、不快じゃない?」
カイトに言った。
「これくらい当り前じゃないの。
花見シーズンだし――」
なぜそんなことを訊くのかが、わからなかった。
横目で、チラリと見た。
「やっぱりね」といった顔で、軽くため息をつく。
上野駅で降りる。
またリンレイを、ベンチで休ませた。
(慣れていないんだから、しかたがないじゃん)
カイトは、思った。
「そう慣れていないのよ。
カイトは、慣れている……」
さっきからゼンは、妙に絡んでくる。
人の流れに乗って公園内へ入った。
「わぁ――、きれい!
花の雲のようだ」
リンレイの顔が、輝いた。
文字通り「桜の園」であった。圧倒的な美が、眼前を彩っていた。
「吾らは、極楽浄土へ迷い込んだのでござるか?」
腰のポーチからクンダルが顔を出した。大きな目が、上下左右へクリクリ動く。
沖縄で生まれ育った二人にとって、森全体がピンクの花で満たされるなんて驚き以外のなにものでもなかった。
そぞろ歩きながら、「不忍の池」の畔へ出る。
一年ぶりに見る桜は、カイトの鬱屈した気持ちを晴らしてくれた。進学先が決まり心に抱いた新たな高校生活への期待と高揚感が蘇ってくる。あのときも友人たちと連れだって、花見に出かけた。
「やっぱり桜はいいよね。
心が洗われるようだ――」
問わず語りに言葉が出てくる。
「心を洗い清めるために日本人は年に一度、花見をするのかもね」
合わせるようにゼンが言った。
「人は、知らず知らずのうちに罪穢れを溜めてしまう。
桜は、陰陽道では「陰」の花。人々の罪穢れを全身で受け取り、舞い散る花びらとともに大地へ還していく」
継がれる言葉も、柔らかく聴こえる。
「どうして桜の木の下で宴をしているの?」
青いビニールシートに座り、飲み食いしているグループを見て、リンレイが尋ねた。
「昔から、花見に宴会はつきものなんだよ。
どうしてって言われてもわからないけど――」
カイトにとっては見慣れた光景なので、改めて聞かれても答えようがなかった。
「花見の習慣はね。平安時代に貴族の間で始まったの。
一般庶民が盛大にやるようになったのは、やっぱり江戸時代からかな。
満開の桜は、人の心を解き放つ力がある。
だから、仕事仲間や友人同士または隣近所の人たちが、親睦を深めるためにおこなうようになったのよ」
「花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身 世にふる ながめせしまに
いい和歌よね。
カイト、知ってる?」
ゼンが、試すような言い方をした。
「それくらい知ってるよ。
『古今集』小野小町の和歌だろ」
「古文」の教科書に載っていた。定期試験に出たので、はっきり覚えている。
「意味は?」
「……忘れた」
「桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間の諸々(もろもろ)のことに思い悩んでいるうちに。
――切ないよねえ。
絶世の美女と言われた小野小町でさえ、アッという間に容色が衰えてしまう。
『もののあわれ』を物語るのに欠かせない和歌だよね。
日本人の感性を良く表している。
『はかなさ、無常観……常なるものなし』というのかな」
桜の花を見上げながら、うっとりとした表情でゼンは、独り言のように語る。
(アメなめながら、古文の講釈かよ。
興味ない。勝手に浸っていろ!)
見下げられているような気がして、また不愉快になった。
「もっとも、私は『永遠の美少女』だけどね」
ゼンは彼女らしい一言で、話を締めくくった。
池中に突き出た「弁天堂」に続く参道には、たくさんの屋台が軒を連ねていた。
そこから、良い香りが漂ってくる。
クンダルがポーチから身を乗り出して、しきりと鼻をクンクンさせている。
(ちょっとヤバいよね。
ヌイグルミが、頭を動かしているのに気づかれないかなぁ)
気が気ではなかった。
でも、気持ちは、よくわかった。
「やっぱり『花より団子』よね。
行こう」
ゼンは、リンレイの手を曳いて駆け出す。
「あっ、待ってよ」
カイトも、あわてて後を追いかける。
ある屋台の前でゼンの足が、急に止まった。
両手を合わせ、頭を下げる。
覆いかぶさるように咲き誇る桜。その下には、赤い毛氈が敷かれた縁台がある。
軒先には、「甘酒」と書かれた旗が、下がっていた。
縁台には、上品な和服姿の中年女性が腰を掛けている。
湯呑を手で包むようにして持ち、静かに微笑んでいた。
(ママに似ている)
カイトは、思った。でも、すぐに首を振った。
(あんな淑やかな風情をまとった女性が、ママであるはずがない)
挨拶を終えたゼンが、神妙な面持ちで戻ってきた。
「誰なの?」
ドキマギしながら、問い詰めるように尋ねた。
「観音様よ」
「……?」
「観音様は、悩んだり苦しんだりしている人を救うことを誓った方。
だから、あのように巷に出て、人々の様子を見たり声を聴いたりなさっているのよ」
「僕のママそっくりなんだけど、どういうこと?」
「カイトには、そう見えたんだ。なるほどねぇ」
横目でカイトを見て、ニヤッとした。
「観音様のお姿は『応現身』といって、その人に合わせて変わる。
人によって見え方が異なるのよ」
「えっ――」
カイトは、動揺した。
ママに対しては、自分でも説明できない複雑な思いがある。
「それが、どうしたって言うですか!」
「はい、はい」
怒った口ぶりのカイトを軽くかわしてゼンは、さっさと歩き出す。
「吾は、あれが食べたい」
クンダルがポーチの中から指さした。
バナナにチョコレートが、コーティングされたものだった。
「私は、これ」
すかさずゼンが、リンゴ飴を差し出す。
カイトも、ワタ飴を買った。
建物の陰へ入り、石壇へ腰を下ろした。
リンレイが、クンダルに少しずつ食べさせてやる。
「うまい!
これは、何ちゅうもんじゃ」
「チョコレートだよ」
口の周りを茶色に染めながら、クンダルが尋ねる。
パリパリとした食感が、気に入ったようだ。
「やめてください!
放して」
叫ぶような声が聞こえた。
数人が、絡み合いながら目の前へ現れた。
「いいじゃないか。
ちょっとだけ付き合ってよ」
茶髪の若者が、若い女性の腕をつかんでいる。
後ろからサングラスの男が、ついてきた。
ポケットに手を突っ込み、下卑た笑みを浮かべている。
後に三人が、続く。だいぶ酔っぱらっているようだ。
「相変わらずの光景ね。
陽気に浮かれて、こういうやつらが這い出てくる」
リンゴ飴を舐めながらゼンが、覚めた目つきで言う。
カイトたちを、五人が半円形に囲んだ。
「おっ、ここにもカワイイ子がいるじゃん。
ヌイグルミなんて抱いちゃって――」
「戦士のコスプレだぜ。へへへ。
ボクたちとタタカってもらえますぅ、お嬢ちゃま」
ニヤニヤしながら、一人がゼンとリンレイに近づいてきた。
「ハァーイ、喜んで仰せのままに――。
お兄さま」
ゼンが、アニメ声で答える。
「リンレイ。
やっちゃっていいよ」
ドスの効いた声に転じた。
リンレイは、コクッと頷く。
クンダルをカイトに手渡し、立ち上がる。
「おおっ、お嬢ちゃん、俺たちとやろうというの?
いいねぇ――」
リンレイは軽く地を蹴り、跳んだ。
「ウグッ!」
男は顔をゆがめ、前に倒れ込む。
リンレイの足がシュッと旋回し、後頭部を直撃したのだ。
(なんて見事な『延髄切り』――)
オドオドしっぱなしだったリンレイの面影は、どこにもない。
凛とした立ち姿は、「運天の戦い」の際の彼女を思い起こさせた。
「なにをしやがる!」
残りの男どもが、殺到する。だが、時を置かず無様な姿で悶絶した。手刀とつま先が円を描き、喉や胸、腹の急所を撃ち抜いたのだ。
鳥が着地するときのように、広げた両手を身体に収める。半歩前に片足を出した屈身姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。
桜の花びらが、ハラハラと散りかかった。
一連の様子を花見客たちが、少し離れた場所から眺めいた。少女を中心につむじ風が起こり、囲んでいた男どもがバタバタと倒れたとしか見えなかったであろう。
「田氏に歯向かうなんって、千年早い。
フン」
ゼンは、立ち上がる。
リンレイは、漢人の家庭教師から田氏に伝わる拳法も学んでいた。
「面倒なことにならないうちに行くよ」
呆気に取られている若い女性と遠巻きにしていた人々を残し、足早に立ち去った。
駆けつける警察官たちと、擦れ違った。バナナチョコやリンゴアメを手にした女の子たちが当事者だとは、誰も思わない。
間もなく「アメ横」商店街へ到着した。賑わう通りをポコポコ歩く。
リンレイも、だいぶ慣れたようだ。興味深そうに店先の品々へ、目を遣っていた。クンダルも、絶え間なく鼻をひくつかせている。ゼンは、試食を繰り返していた。
「そうだ。釣り道具も買っておこう。
ちょっと寄り道するよ」
航海の途中で、何度も「現代の釣り道具があれば……」と悔しく思ったからだ。大通りに出て、大型釣具店を探す。




