たどり着けない!目的地を前にして迷い道へ
出発の支度を整え、リンレイを囲んだ。
皮革文書が、広げられた。
山頂への道が、記されている。だが、地形と目印の木や石などが、記してあるだけだ。
ライカの記憶に頼って、ここまでやってきたが、それもだいぶ怪しくなってきた。
靄がかかった森に囲まれた野営地からは、ほとんど見通しがきかない。
目を凝らすと、三本の道らしきものが、森の中に向かって延びていた。
「ライカ、祭祀場へ行くには、どの道を行ったらいい?」
「ひたすら登っていったような気がするけど……」
リンレイの問いかけに対して、ライカは、自信なげに答えた。
「登り道を選んで行こう」
ミーカナの声に促され、いちばん急な坂になっている道へ踏み入った。
カイトは、肌にチリチリするものを感じた。
「ヨナファの聖域に入った」
「そのようね」
リンレイとミーカナは、頷き合った。
一時間半ほど歩いたところで、目の前が明るくなった。
「ワァ――、着いたぞ!」
若者たちは、喜びの声を挙げながら駆けだした。
しかし、その声は、すぐにやんだ。
追いついて周囲を見回す。出発点の野営地だった。
「どういうこと、これは?」
カイトが、叫ぶように言った。
下った記憶はなかった。
「やはり……」
ミーカナは、落ち着いていた。
リンレイも、冷静そのものだった。
「壇を設ける」
若者たちに青草を刈り取らせ、敷き詰めさせる。
そこへ二人の少女が、並んで座る。
リンレイは両手を膝の上に置き、背筋を伸ばす。
ミーカナは定印を結ぶ。
前には、携帯用の香炉が置かれている。
香を一つまみ盛り、立てた指先でシュッと印を切る。
小さな炎がポッと上がり、香の香りが漂い始めた。
聖なる地を守りし精霊よ
吾らは 与那覇の神を崇め奉る者なり
巌なる鎖錠を解き 道を開かせ給え
ここに謹んで乞い願い申す
ミーカナの静かな願文が周囲に響く。
少し空気が緩んだような気がしたが、変化はない。
瞑目していたリンレイが、スクッと立ち上がる。
その場に衣服を脱ぎ捨て、頭帯を外して髪を振りほどき、短い腰布一つの姿となった。
カイトと若者たちは、サッと目をそらせる。
葉が付いた小枝を残したままの杖を前に構え、両足を交互に踏みしめる。
「シャラン、シャラン」
足首に付けた鈴が鳴った。杖を一つトンと突く。
薄緑色の光が、身体を包む。
カワス(山の霊界)におわす遠き御祖たちよ
ヨナファより出ずる聖なる水を受けし者
古えの盟約により精霊の同胞となりし者
御祖の戒めを受けんがため御前に参れり
森の木霊たちよ 祭儀の庭へ 疾く導け
歌うように唱え、再び足を踏み鳴らし、杖を突く。
森に掛かっていた薄ぼんやりとした靄が、突然の風に吹き払われたかのように消えた。 木々の姿かたちがはっきりと見える。
「結界の扉が開いた。
やっぱりリンレイは、すごい」
ミーカナが、声を掛けた。
リンレイは、まだ杖をつき仁王立ちになっていた。
ハッとした表情となり、しゃがみ込んで足元の衣服をかき寄せた。
「出発するよ」
ミーカナの号令のもとに一行は、また歩き始めた。
「ウサギがいるぞ。
晩飯のおかずにしよう」
数歩も進まないうちにライカが、言った。
木の陰に黒いウサギがいて、こちらを見ている。
(アマミノクロウサギだ!
まさか……、それも子どもだ)
カイトは驚いた。
特別天然記念物だ。奄美大島と徳之島にしか棲息していない。
ウサギの仲間としては原始的な種である。
ずんぐりむっくりとした体形、小さな目、四センチ余りの短い耳、短い脚、黒褐色の毛皮といった特徴を持つ。
(なんで沖縄に?)
名前の通り奄美にしかいないと思い込んでいた。
(この時代なら、不思議はないか)
約一万年前、南西諸島が大陸とつながっていた頃、渡ってきたと考えられている。分断されてからも高い山のある沖縄本島なら、生き残っていてもおかしくはない。
(でも、昼間から、それも幼獣が姿を現すなんでありえないはず――)
アマミノクロウサギは、非常に臆病で警戒心が強い。
仔を産むと、住処から離れたところへ、穴を掘って入れる。
授乳するときだけ入口を開け、済むとすぐに土をかけて閉じるといったことをする。
ライカは弓を取り出し、矢をつがえる。
「待て!」
リンレイが、制止した。
「あれは、案内役だ」
体長十五センチ足らずの仔ウサギが、ピョコと後ろ脚で立ち上がった。
これには、みんな驚愕した。
仔ウサギは、トコトコと幼い子が歩むような足取りでゆっくり近づいてきた。
一行の目の前までやってくると立ち止まり、少し俯いたかと思うと、ガクッと頭部が後ろへ折れるように倒れた。
(ええっ、人の顔が――)
着ぐるみを着た俳優が、休憩時間になって頭部だけ外したといった感じである。
現れた顔は、ピンポン玉ほどの大きさだった。
ザンバラ髪、太い眉、二重瞼、クリッとした両眼、頬骨が少し張り、顔全体としては、丸ポチャとしている。髭は生えていない。まだ若いようだ。
身長の割には頭部が大きく五頭身といったところだろう。手の平と足の平も大きい。
「よく来てくれた」
リンレイはしゃがみこんで、昔からの知り合いのごとく声を掛けた。
「吾は、クンダル。
ヨナファの命にて、汝らを案内仕るため参った」
頭の中へ直接、言葉が流れ込んできた。
心話は初めてではないが、いきなり頭の中へズボッと潜りこまれてくるようで、カイトは、なかなか慣れることができない。
「昨日の晩、吾らを助けてくれたのは、おヌシたちか?」
「そうだ。ヨナファの指示だ。
嫌な気配を感じたので、見張っていた」
リンレイの問いかけに、高いキーのアニメ声で答えた。
(やっぱり昨夜の人影は、見間違いじゃなかったんだ)
「あれは、何なの?」
隣のミーカナにそっと尋ねた。
「たぶんセイ(靖)人。
『山海経』という中国の古い地理誌に載っていた」
「巫女の館」で、漢籍(中国の古書)を山ほど読まされている。
「これより吾が先達を務むる。
道中、危うきこと多し。一同、心して歩まれよ」
クンダルは、顔に似合わない古めかしい言い回しで注意を促した。
言い終わると同時にキャップをかぶり、四つん這いとなった。
ピョコピョコと小さく跳ねながら森の中へ入り、進んで行く。
下草が揺れる先を見て、必死に後を追っていった。
急な山道を、一時間ほど上った。
木漏れ日がさす樹間を、縫うようにして進んだ。
カイトは、すっかり息が上がっていた。
先頭のライカが、立ち止まって手を挙げた。
「広場だ」
短い草がまばらに生えた、赤茶けた平地に出た。
「どうやら着いたようね」
ミーカナが、呼吸を整えながら言った。
三方を、苔むした岩壁に囲まれている。樹木が、首飾りのように青い空を縁取っていた。
「ピリュリュルルル――」
流れる水音に混じって、アカショウビンの鳴き声が聞こえる。
カワセミの仲間で、赤褐色の羽色。艶やかな珊瑚色の長く大きな嘴が特徴だ。
大きく深呼吸する。ヒンヤリとした清浄な空気が感じられた。
「そう。ここだ」
リンレイも頷いた。
仔ウサギは、草地から盛り出た石の上にいた。
ゆっくり後ろ脚で立ち上がり、頭部を外す。
「吾の役目は、ここまでだ。
後は御身らに任せるが、注意なさるがよい。聖域を守る主がいる。
あれは、相手を見分けない。立ち入るものすべてを攻撃する」
腰に手を当て、クンダルは言った。
言い終えるとウサギの姿に戻り、草むらへ跳び込んだ。
広場の真ん中に立つ。ホテルの宴会場くらいの空間である。
「あれが祭壇じゃない?」
ミーカナが、正面の岩壁の下を指さした。
人の口のようにポッカリ開いた洞窟があった。
その前に、石積みの壇が築いてあった。火をたいた跡も残っている。
リンレイが歩み寄った。
「確かに吾らの部族のものだ。
さて、どうしたものか」
この地に来たのは、初めてである。
「まずは、ご先祖様に挨拶しなくちゃ」
「そうだな」
リンレイは、祭祀の準備のため壇周辺の雑草をむしり始めた。
旅の目的地に着いたことで、みんなホッとしているようだ。
「なんか腹減った」
若者たちはゴザを敷き、竹カゴの中から干した果物や飲み物を取り出す。
リラックスムードが漂っていた。
だが、ミーカナだけは荷物も下さず、緊張した面持ちで周囲の気配を探っていた。
(何か、おかしい。
胸が、ザワついている)
風景としては、どこといって変わったことはない。
(思い過ごしかなあ)
自分も荷物を下ろそうとした。
「魔物だぁ――」
手桶を持った若者が、必死の形相で叫びながら、駆けて戻ってきた。
後を追う物影があった。
ザワザワッと草むらが大きく波立ち、足元にまで迫っていた。
潜望鏡のようなものが突出した。
(アナコンダ?)
カイトは、南アメリカに棲む巨大な蛇を思った。
「金ハブだ」
背後からミーカナの声が聞こえた。
(ええっ、そんなことありえない)
カイトは、思った。
ハブは、最大でも三メートル弱である。太さもビール瓶くらいだ。
だが、頭のかたち、大きく上下に開いた口の上顎から突き出た二本の鋭く長い牙は、まさしくハブ特有のものだった。
金ハブは、沖縄北部に棲息する。
黄褐色の地に黒褐色の模様が描かれ、黄色っぽく見えることから、そう呼ばれるが……。
(黄金色!
金箔が張ってあるようだ)
鎌首を持ち上げた巨大なハブは、陽の光を浴びて豪華な煌めきをを放っている。
カイトは一瞬、恐怖も忘れて見入ってしまった。
「ミーカナ、カイト!
こっち。
ライカたちは、森へ逃げて」
リンレイの叫ぶ声が、聞こえた。
ミーカナは、大蛇と向き合って禁呪を唱えている。
玉帝の名において命ず
地に這うものは態を止めよ
急急如律令 禁!
サッと印を切った。
大蛇の動きが、止まった。その場で凍結したようだ。
「今のうちに逃げて!
長くは持たない」
ミーカナとカイトは、走った。
祭壇の前では、リンレイが杖を両手で突き、目を閉じて唱えていた。
身体の周りには、薄緑色の光がドーム状に大きく広がっている。
二人は、その結界の中へ駆け込んだ。
ライカたちも無事に森の中へ逃げ込めたようだ。
彼らは、森を生活の場としている。いったん樹々の間に紛れてしまえば、どうにでも対処できる。
「はあ、助かった」
カイトは、呼吸を整えながら言った。
巨大な金ハブの両目が、再び輝いた。長い舌が、動く。
ゆっくりと上体が前に倒れ、全身がうねり始めた。
地面に「S」の字を描きながら、祭壇に向かってやってくる。
リンレイの結界にも、限界がある。玉の汗を、額に浮かべていた。
呪唱の声が、か細くなってきた。
「祭壇裏の洞窟へ逃げ込もう」
ミーカナは、後の二人に声を掛けた。
「たぶん神域となっている。
守護者でも、むやみに立ち入れないはず」
「一か八か」の選択だった。
リンレイは結界を維持しつつ、洞窟の前までソロソロと後退っていった。
「一、二の三、それ!」
掛け声に合わせて、三人一緒に洞窟の中へ転がり込む。
「ケホン、ケホン」
寝転がった身体を起こしながらカイトは、咳込んだ。
黴臭い。下は白砂が敷き詰められている。
入口にはカッと口を開き、威嚇している大蛇の頭部があった。
しかし、それ以上、立ち入ってこようとはしていない。
「ふぅ――。
逃れられたようね」
ミーカナが、安堵のため息をついた。
暗さに目が慣れてきたカイトは、周囲を見回した。
「げっ!」
背筋が凍りついた。
洞窟の中は意外に広く、高さも含めて八畳間くらいの空間となっていた。
壁沿いに素焼きの甕が十幾つも並んでいる。飴色に変色した骨がのぞいていた。
いくつかは割れて骨が、毀れ散っていた。ずいぶん古いもののようだ。
正面には、少し盛り上がった土盛りの壇の上に、朽ちかけた木棺が置いてある。
後ろには壁を掘り窪めた棚があり、頭蓋骨が十柱ほど鎮座していた。
花器があるところからすると、祀られているのであろう。
(風葬墓になっているんだ)
少し冷静さを取り戻してから思った。
こうした場所は「崖葬墓」とも言い、奄美や沖縄では珍しいものではない。
「御祖たちが眠っている墓所のようだ」
リンレイは、胸の前で両手を合わせながら言った。
崖葬は大陸南西部の沿岸、台湾やインドネシアの島々に至るまで広くおこなわれていた。
アミ族も、同様であった。
「安心召されるな。
危機が去ったわけではないですぞ!」
クンダルが、岩陰からピョンと跳ね出てきた。
「邪悪なモノの気配がする」
カイトの方へ鋭い視線を送りながら言った。
「えっ?」
カイトのリュックの中で、カサコソッというわずかな動きがあった。
「後ろ!」
ミーカナの叫び声で、一斉に振り向いた。
入口で留まっていた大蛇が、首をシュッと伸ばしてきた。
「右だ!
右の穴へ逃げ込め」
大蛇を睨みつけながら、カイトは大声で言った。
身を寄せ合って、奥の枝洞へ駆け込んだ。
カイトは、リュックの脇ポケットから懐中電灯を取り出し、奥を照らす。
足元を確かめながら歩んでいく。
曲がり角に当たった。
「この先には、何かある」
リンレイは、言った。
闇の向こうに、ボンヤリとした光が見えた。
糸屑のようなものが、煌めきを放ちながら舞っていた。
光の手前まで進んだところで、ストップをかけた。
「手を繋いで」
両手を後ろに差し出す。
カイトとミーカナは、その手を取った。
光が満ちている空間へと、踏み込む。
リンレイの上半身が白銀に輝き、微細な光が全身を包んでいく。
「あっ!」
カイトは強烈な光を浴びて、目が眩んだ。
無数の虹色に輝く糸屑が、それぞれ旋回している。
光の領域は、繭状になっていた。
気が付くと周囲は、宇宙空間――。
星々や星雲が、広がっていた。
圧倒され、何の言葉も頭に浮かばなかった。
リンレイを見る。
「ハアァ――」
驚きで、これまた言葉にならない。
肩甲骨の辺りから延びた幅広の透き通った四枚翅が、細かく振動している。
白銀の髪をなびかせ、服は若葉色に染まっていた。
リンレイが振り向き、笑顔を見せた。髪から突き出ているのは、笹の葉の形をした耳。
(エルフじゃないか!)
ファンタジーコミックやアニメの見過ぎだ。妖精の姿に見えるなんて――。
「今、吾らは『エン』の繭船に乗って、カワス(霊界)を航行している」
頭の中へ直接、語りかけてきた。
リンレイの声のようだ。落ち着いた語調である。
「どこへ向かっているの?」
ミーカナの声が響いた。
「地球だ」
「エッ、地球?」
カイトは、素っとん狂な声をあげた。
眼下には、急速に小さくなりつつある月面がある。
(ひょっとして月面のクレーターから出てきた?)
前方を見ると、暗い宇宙空間に青く輝く地球が浮かんでいた。
「座標を定める」
リンレイの額から銀糸が放出され、直進していく。
彼女ばかりではない。ミーカナとカイトからも並行して出ていた。
三本の銀糸の先は、ある一点へレーザー光線を照射したように届いていた。
眼前で拡大しつつある地球、それも日本列島の――。
「ヒュ――ン」
そんな飛翔音が、聴こえたような気がした。
カイトの意識は、途切れた。