7.竜王の花嫁候補(レオside)
彼女――ルルに初めて会ったあの日は、とても過ごしやすい陽気だった上に天気も良かった。絶好の花嫁候補選出日和といったところか。
彼女と出会ったあの頃、二年経っても全く決まる気配のない花嫁に、俺は少し痺れを切らしていた。そもそも二年程度で領主家の令嬢が総替わりするわけがない。しばらく時を置いた方が得策なんじゃないかと、今回の花嫁候補選出騒動が終わったら、俺はそう進言するつもりでいた。
* * * * *
決まらない花嫁を選出して竜王に謁見させるという作業に、またかと少し不貞腐れていた俺は、領主家の近くの林を散歩していた。その林は意外と広く深く、小川の流れる音までしていて、少し驚いたのを覚えている。小川は王都にはないものなのだ。
音を頼りに小川を発見した俺は、近くの木に登って少しうたた寝することにした。わざわざ木に登ったのは、連れの兵たちに見つからないようにするためである。
そよ風に身を任せながら、浅い眠りにつこうとしていたその時、耳に軽い音が聞こえてきた。草を踏み分ける音と、荒い吐息。俺の聴覚はその辺の人よりも優れていたから、その音が遠くからでも聞き取れた。
「……なんだ?」
思わず身体を起こして、音の聞こえた方を見てみる。これまたその辺の人よりも良い視力である俺の目が最初に捕らえたのは、宙をチラつく白いもの。淡いライトブルーのリボンに白い型紙といったデザインの、とても華奢な栞だった。
そしてそのすぐ後ろに見えた人間を目視した瞬間、俺の身体は動いていた。身を任せていた太い枝に体重を思いきりかけてしならせる。そしてその反動を利用して、遠くに飛び降りた俺は、降りるついでに宙を舞っていた栞を掴んだ。
一瞬だけ見た、栞を追う少女。淡いライトブルーの髪を踊らせ、その金色の瞳は熱を持って潤んでいる。彼女の周りには、透き通るような魔力が感じられた。少女自身はそれに気づいていないのか、その魔力は垂れ流されている。これほど純粋な魔力を持っているのに、魔法の心得はないようだ。そしてその魔力を強制的に押さえつけている、高等魔術師にしか掛けられない封印の呪の存在にも、俺はすぐに気がついた。その少女が純粋に気になったというのも、俺が動いた理由の一つではあるかもしれない。
しかしそれよりも、彼女は栞を見てはいなかったということが俺を動かした。彼女は栞を通して、もっと違う何かを見ていて、それに向かって必死に手を伸ばしていた。見過ごすには、あまりにその瞳の煌めきが儚くて美しくて。気づけば俺は栞を掴んでいた。
「この栞は君のか?」
俺は少女に歩み寄りながらそう問いかける。彼女は驚きに目を見開いた後、その綺麗な金色の瞳から涙を一粒零した。俺はその涙をとても美しいと思った。
礼を言いながら泣き始めた女の子。いつもの俺であれば、適当にあしらうはずなのに、なぜかその涙を愛しいと思った。その瞬間、俺はこの子を花嫁候補にすることを決めた。この子ならあるいは、と思ったのだ。
少女は裸足だったから、白い脚には細かな傷ができていた。俺が手当を始めると、その少女は真っ赤になって、年相応の反応を見せてくる。しかしすぐに俺の剣の紋章に気づいてしまったようで、表情には戸惑いと困惑が混じった。
「竜王様の……直轄軍。」
零れ落ちた小さな呟きを俺の耳は拾う。なんとなくしてやったりな気持ちになったから、俺は彼女と視線を合わせて口角を上げてみせた。すると彼女の視線は俺の襟元に移動して、階級を示すバッジを凝視する。そして彼女はそのあとすぐに自分のこめかみを押さえていた。それがなんだか可笑しく感じた。
「師団長、様……。」
自分の階級を気にしたことはあまりなかったが、こうも驚かれるとさすがに面白い。悪戯をしていた幼少の頃の気分をほんの少し思い出すような気分だった。
俺はそのまま流れで、少女が身に付けている純白の手袋を視界に捕らえながら、花嫁候補選出という目的を果たすために彼女に領主家への道案内を頼む。しかし少女は、ピシリと音が聞こえてきそうなほどわかりやすく固まった。
彼女は領主家の紋章が入った手袋をしているのに、自分の身分は未だに気づかれていないと思っているらしく、俺は少し訳が分からないまま、問答の果てにその決定的証拠を明示した。
「その、手袋。封印の呪がかかっている。そんなものをこの地で用意できるのはここでは公爵家だけだろうし、その手袋のレース部分にも、小さくストーレンス公爵家の紋章がある。」
そこからまた問答することしばし。少女の空気が底冷えしてきたことに俺は気づいた。どうやら気分を害してしまったようだ。代わりの侍女を寄越すと行って走り去る背中に声を掛けたが、その小さく華奢な背中は振り返らなかった。せっかく手当てしたのに、あれではまた傷ついてしまうではないか。
彼女の感情の機微に素早く気づくことができなかった自分に腹が立ち、小さく舌打ちする。自分への苛立ち故に伏せた瞳には、先ほどまで彼女が立っていた場所が映し出された。昼下がりのこの時間に、草に露が付いている。
そのことから、少女の手袋が押し隠している能力は、きっと水かそれに近い何かに纏わるものなのだろうと算段をつけた。あの手袋の呪はなかなか高度なものだったから、彼女の気分次第でそれすらも凌いでしまうというその能力に、少し興味が湧いてくる。
「貴女様が竜王直轄軍の師団長様でお間違いないですね? お屋敷へご案内致します。」
突然掛けられた声に振り向くと、困惑に笑みを貼り付けたような顔の侍女がそこにいた。彼女はすぐに、と言っていたが、本当にすぐに侍女が来て少し驚く。こちらへ、というその侍女の後ろに俺は付き従った。領主家へ向かうその道中も、俺は先ほどの少女で頭がいっぱいだった。
* * * * *
「不要な前置きを省くことをご容赦願いたい。今回の花嫁候補者の件で参りました。」
領主家に着き、謁見の間に通されてすぐだった。俺は単刀直入に用件を述べる。飾り立てた言葉で誤魔化しながら話を通す気はないし、遠回しな方法がそもそも好きではない。
俺より少し高い位置に座っている御領主本人は複雑な表情を浮かべている。そのすぐ隣に立つ奥方殿ーーグローリア様は、完璧なまでの無表情だ。3年前の大災害から思っていたが、やはりここの領主家は他の領主家と比べて一味も二味も違う。フィルドの領地の治世の要となる御領主とグローリア様が、物は言わぬがその差を雄弁に語っている。
俺はそんな彼らに気圧されないように、毅然とした態度で話を続けた。
「この家の長女は養女ということだが、そのことについては私が直接口添えしましょう。だからぜひとも、彼女を花嫁候補として王都へ連れて行きたい。ご令嬢は必ずお護りします。」
そう述べると、長い長い沈黙が場を支配した。俺は言うべきことを全て言ってしまったから、後はもう彼らの返答を待つより他はない。
オレンジ色のロウソクが揺らぐが、その光は見えない。窓から差し込む夕陽と同化してしまっているようだが、じきにロウソクの光がこの室内を照らすだろう。
長時間の耐久を苦に感じない俺は、沈黙もさして気にならなかったし、了承を得るまでこの場から動かないつもりでもいた。それくらい、俺は少女に入れ込んでいた。竜王を射止める者がいるなら、きっとそれは彼女なのだろうという予感もしていた。
不意に、グローリア様の目線が動いた。窓へと視線を投げ、夕陽に照らされた街並みを見やっている。そしてその瞳が一瞬だけ揺らぐ。俺とグローリア様以外の誰も、そのことに気づいていないだろう。俺はその辺の人よりも視力が良いから視認できたのだ。グローリア様は俺に向き直ると、静かに言葉を発した。
「……ルルの生まれは、テナの村の、アレクスファー子爵家です。ですから、わたくし達の娘はどちらも、この竜王様の花嫁候補という名誉をいただくに不相応ということは決してございませんわ。」
俺は唖然とした顔でグローリア様を見つめる。テナの村の子爵令嬢だと? 3年前のあの大災害で、生き残ったのは一人だけだったようだと、この領主家から報告を受けている。つまり、俺が昼に会ったあの少女は、テナの村のたった一人の生き残りということになる。
時間にしてコンマ数秒、俺はすぐに間抜けた顔を元に戻すと、それを確認したグローリア様は更に言葉を続けた。
「わたくしは、あの子の王都行きに賛成ですわ。本日の晩餐が盛り上がる頃、庭園にルルを呼んでおきますから、そこで直接あの子に是非を問うて下さいませ。」
冷静沈着という言葉がピタリと当てはまると思っていたグローリア様にしては、いささか性急な事の運び方だと思った。スルスルと口から滑り落ちてくるその台詞に、もしかしてグローリア様はずっとこの可能性を考えていたのではないかということに思い当たる。
「グローリアが決めたことならば、私も反対はするまい。師団長殿の先ほどの言葉、違えることないよう重ねて願う。あの子は私たちの掛け替えのない娘なのだから。」
「はい。」
苦笑しながらも真剣な調子で話す御領主に、俺はしっかりと頷いてみせた。グローリア様は完璧な淑女の礼を一つすると、すぐそばにあった扉の向こうへ姿を消す。
時は夕刻。日の入りが段々と迫ってきている。俺も礼を一つすると、踵を返して与えられた自室へと下がった。黒に近い濃紺の夜空に星が瞬き始めるその時まで、俺は少女や花嫁のことだけではなく、王都の様々なことについて考え込んでいた。それでもあの少女の複雑な色をした目と翻る淡いライトブルーの髪だけは、俺の脳裏から消えることは決してなかった。
――そしてあの夜、俺は言葉を尽くしてルルを説得した。俺が名乗るために行った最後のアレは、少しキザだったかもしれないと、実は今でも気恥ずかしく思う時があったりするというのは、誰も知ることのない俺だけの秘密である。
* * * * *
ルルとの出会いを思い出しながら、俺は目と鼻の先にある城壁の内側に見える王城を見つめていた。もう日は高く、昼に近い朝といったころだろう。昨夜、わざわざ宿まで俺を訪ねてきた来客の言葉を思い出す。その来客のせいで、ルルとの出会いやルルを選んだ経緯を思い出していたのだ。
『執務を放ったらかして、一体御身は何をしておいでですか!グレル様は今頃反省文を書かされておりますぞ。今回は監視もしっかりと付けさせております。全く幼い頃から御身らは――。』
『シッ、声が大きいぞレヴィー。判の百や二百、お前が押しても問題ないだろう。お前は有能だからな。とにかく俺は、今ここを離れるわけにはいかないんだ。』
黒麻のフードを目深に被りながら、険を含んだヒソヒソ声で俺に説教してくる三十路の男。それよりも冷えた声で俺は返答する。ルルを置いてここを離れられるわけがないのだから、俺にとっては至極当然の対応と言えよう。
『ええ、ええ。御身にこの哀れで頑丈なレヴィーの体力精神力がしゃぶり尽くされようが本望でございますとも。しかしですな、何よりも大切な貴方の責務である"身を固める"というのはいくら有能な私でも代行不可な領分でして――。』
『レヴィー、分かっているから少し黙れ。フィルド領地の花嫁候補が決定した。アレクスファー子爵家令嬢だ。』
俺は多くを語らなかった。この男はこの国の頭脳と言っても過言でないほど頭が切れる。これだけで、おそらくこいつは悟っただろう。案の定、次に発された言葉は控えめなものだった。フードから覗く瞳が、僅かに揺らいでいる。
『アレクスファー子爵家とは、まさかあのテナの。』
『ああ、そうだ。』
『これは……なんと……。』
レヴィーはフードの陰の奥で目を見開いて絶句する。
アレクスファー子爵は小さなテナの村の領主権を持っていた。もちろん上位の領主権を持つのはストーレンス公爵家であり、その上の最上位の領主権を持つのはレイオール大陸一つを丸ごと治めているレイオール国三代目竜王グリオールだ。
しかし、竜王だけではこの広大な大陸を直接治めきれないのは明白で、よってレイオールの三公と謳われるように、三つの公爵家がこの広大なレイオール大陸を分割統治している。それと同じシステムで、下位の領主権として各地の力のある貴族に小さく細かに領地と権利を分け与えているのだ。これがこの巨大な国の統治システムである。
つまりアレクスファー家は、子爵家といっても街を任されるほど大きな貴族ではない。どちらかといえば慎ましい貴族と言えるだろう。ルルは三公の領主家の生まれの令嬢とは訳が違う。せめて王城の自室に着くまでは、唯一の知り合いである俺が離れるわけにはいかないのだ。
そんな意味を込めて、俺は先ほどの言葉を発していた。レヴィーは普段から俺の真意を取り違えることはない。こいつの反応から見て、今回も正しく真意を読み取ったのだろう。しかし、返ってきた言葉は完全に予想外のものだった。
『なるほど! やはり実際に行かねば分からぬこともあるのですなぁ。いやはや、これはグレル様の反省文を用紙千枚から五百枚に減らさねばなりますまい! グレル様は実に素晴らしい働きをなされた!』
『は? おい、レヴィー?』
『ええ、ええ、畏まりまして。このレヴィー、心得ておりますとも。貴方はそのまま姫君と共に王城へおいで下され。なるほどなるほど、三公の令嬢ではなくわざわざアレクスファー家のご令嬢を……そうですかそうですか。私の肩の荷が下りるのももうじきというわけですね、いやはや思いの外早くて安心しました。向こう十年は私も責務に囚われるものかと――。』
『ちょっと待て、落ち着け! お前いったい何を言ってるんだ?』
『それでは私は先に戻って手筈を整えて参ります。失礼致します。ああ、忙しい、忙しい、忙しくなりますなぁ!』
と、昨夜のレヴィーの様子を思い出して眉を顰める。自然と王城を見る目も険しくなる。
結局あの後、レヴィーは俺の声に耳を傾けることなく、嵐のように去っていった。レヴィーは頭の回転が速すぎて、こちらがついていけなくなることは割とよくあるのだ。しかし昨夜に限っては、いつにも増して本当に酷いものだった。
昨夜、レヴィーが口早に捲し立てたことの半分以上が、俺にとっては意味の分からないものだった。三公の令嬢を選ぼうが、他の者を選ぼうが、今は俺に一任されているんだから俺の勝手だろうに。
反省文五百枚か。後でグレルには謝っておこう。グレルがいくらお気楽な性格だとはいえ、反省文五百枚は手痛い灸になっているはずだ。監視がついているということは、半分缶詰め状態なのだろうし。
俺は空を仰いで溜息を吐いた。王城に着いてからが思いやられるが、そこは俺の踏ん張り所だろう。早めに仕事を片付けて、ルルとの時間を確保しなければ。
ゆるり、と口角が上がるのを俺は感じた。赤茶色の髪が後ろに靡く。ルルのための苦労を嫌と感じない自分がいることに、俺は気づいてしまったのだ。そしてそんな自分も、嫌とは感じなかった。