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第四話 蓮の香りが消えた時、気付いた。

「……なあ、鏡野かがみの

 蓮沼はすぬまは少しだけ迷いが込められたような慎重な声色で僕に話しかけて来た。

「何?」

 筆を止めて蓮沼の目を見る。けれど目を合わせてくれない。こんな蓮沼は初めてだから、小さな暗い不安が生まれる。何か重大な事件が起きたのだろうか。


「しばらく、美術部に来れそうにない。野球部の大会予選が始まるんだ」

 そう言った蓮沼の声には、どこか、誰かに許しを乞うような響きがあった。

「……そうか。もう、そんな季節なんだね」

 正直、拍子抜けだった。大会の予選が蓮沼にとって大事なのは百も承知だ。そんな事を言おうとするだけで不安になるなんて、意外と蓮沼は繊細なのかも知れない。


「俺がいなくて、大丈夫か?」

「僕はずっと一人で絵を描いていたんだ。少しの間くらい君が居なくてもどうってことないよ」

「そうか、俺としてはちょっと寂しいけどな」


 彼の瞳は、何かを欲するように僕を見ていた。


「……頑張ってね」

「ああ!」


 眩しく笑う蓮沼の顔を見て、彼が欲しかったであろう言葉を伝えられた事に安心した。


 ◇


 蓮沼が来なくなって、二週間が経った。

 きっと、近いうちに戻ってくる。そう自分に言い聞かせるたび、声にならない叫びが頭の奥を歪んだ痛みで支配する。

 初めは……多少の寂しさは感じていた。けれど、今はもうそれだけではなかった。


 十八時のチャイムが鳴っても、彼が美術室のドアを開ける気配はない。

 何気ない瞬間にふと虚しさが忍び寄る。

 僕の思考すべてに彼の残像が染み込んでいるんだと気付かされた。

 机に手と顔を伏せて瞼を閉じると、彼の眩い白さが心の奥に滲んでくる。何でもない話、僕を見て微笑んだ時の顔。その一つ一つがやけに鮮明で、手が届きそうなくらい頭に浮かんでいるのに、まるで鏡の中に居るように触れられない。

 どうして、こんなにも息が詰まるのだろう。 ほんの少し目を閉じただけで、頭と心が蓮沼で埋まってしまう。


 帰り道、蓮沼と歩いていた道を一人で歩くと、景色が妙に歪んで見えた。

 抑えようとしても、気づけば彼のことを考えている。ずっと彼を探している。

 ……会いたい。ただそう思うだけで、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

 自分の心が、自分のものでなくなっていく感覚。

 彼が戻ってきたら僕は、いつも通りで居られる自信がない。


 ◇


 蓮沼が来なくなってから三週間、学校を早退する事が増えた。蓮沼のクラスに行こうと思ったが、他人に何処のクラスに居るのかを聞き出す勇気も気力も無い。そして校内で浮いている僕が会いに行ったら……蓮沼にとっては迷惑だろう。もう大人しく蓮沼が帰ってくるまで耐えるしかない。


 ……今日も、何をしても心が満たされない。


 家に帰り、一人のリビングでソファに座りながら何の気無しにテレビを付ける。なんと画面には蓮沼が映っていた。


「……!」


 すぐにリモコンの番組表を押す、今のチャンネルに「全国高等学校野球選手権 地方大会 決勝」と書いてあった。

 ウチの学校の野球部が決勝まで行ってるんだ……凄い。しかも、蓮沼が投げてる。


 カメラに抜かれる目付きの鋭い蓮沼。顔の汗の量が球場の暑さを物語っていた。


『さあ、自慢の速球を武器にツーアウトまで漕ぎ着けました、マウンドは三番手の蓮沼優くん! ツーアウト満塁、フルカウント! ここを抑えて全国への切符を掴めるか!』


 アナウンサーが力を込めて実況している。その言葉の全ての意味は理解してはいないものの、絶体絶命の状況である事は何となく分かった。


 画面の中の蓮沼が息を吐き、ゆっくりと振りかぶった所で、僕はあまりの緊張で自然と手を組んで祈っていた。……頑張れ! 蓮沼!


『高めストレート空振り三振! ピッチャー吠えました!』


 蓮沼がマウンドで拳を突き上げて叫んでいる。

 その姿を見た瞬間、ふーっと胸を撫で下ろすと全身の力が抜けてしまい、ソファに力無くもたれ掛かった。


 ……蓮沼は僕をいつも褒めるけど、誰が言ってるんだ。君の方がよっぽど凄いじゃないか。


 まだ心臓が痛い。胸に手を当てて速まる鼓動を精一杯落ち着かせる。


 テレビには整列して帽子を脱いで挨拶を交わす選手達が映っていた。

 美術部に来た時の蓮沼はよく知ってるけど、野球をしてる時はあんな感じなんだな。知らなかった。

 汗を拭いながら相手チームの選手と握手を交わす蓮沼の目は少し潤んでいるように見えた。


 テレビの向こうで暑いグラウンドで汗だくになっている蓮沼と、テレビの前でクーラーの冷風を浴びている僕。


 ……まるで別の世界の住人だ。

 本当に蓮沼は僕の隣に戻って来てくれるのだろうか……そう不安になりながら、テレビに映る蓮沼の姿を目に焼き付けていた。

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