第三話 蓮と鏡は寄り添って。
俺は鏡野に話しかける事なく、その真剣な姿を全て逃さず目に焼き付けていた。
野球部の練習が終わったタイミングで鏡野しか居ない美術部に顔を出す。これが俺の最近のルーティンになっている。
鏡野はいつも、他に誰も居ないのに美術室ではなく、少し狭い準備室で絵を描いている。何故かは聞かない。おそらく鏡野はこういう場所の方が落ち着くんだろう。
紙に線が引かれる。繊細で力強い線が。見る見るうちに風景画の輪郭が形になっていく。
この速度に圧倒的な精度、鏡野の絵はその色彩の美しさに目が行きがちだが、その裏にはしっかりとした技術が詰め込まれている……と素人ながら思う。
どれだけの絵を描き続けたら、俺と同い年でこんな技術が身につくんだろうか。鏡野のこれまでを勝手に想像して、勝手に感動が溢れてしまう。
「凄いな」
そう呟いた瞬間、鏡野の手が止まった。
鏡野はゆっくりとスケッチブックから手を離し俺を見つめた。大きな瞳が真っ直ぐに俺を捉えて、金縛りにあったかのように体が固まってしまう。
「……何が、すごいの?」
小さく、でもはっきりとした声。その声には苛立ちも軽蔑も無く、ただ純粋な疑問が込められているように感じた。
それと、久しぶりに鏡野が俺に反応してくれた事が嬉しくて答えに詰まりそうになりながらも、どうにか言葉を見つけ出す。
「こんなにも没頭出来ることさ。鏡野の絵は本当に素敵だ。けど鏡野が絵を描いている時の姿だって全く負けてない」
鏡野は、ほんの少しの笑いを浮かべながらスケッチブックに視線を戻す。
「蓮沼は変なやつ、だね」
「……そんな事はじめて言われたな」
◇
時計が十八時四十分を指した頃、鏡野は筆を置いた。
「今日は、もういいや」
「もう描かないのか?」
「……ん、気が済んだ」
「そうか、それなら良かったよ」
鏡野が十九時の最終下校時間ギリギリまで絵を描かないのは初めてだった。俺としては大変残念だけどまあ、本人がそう言うならしょうがない。……そう思っていると鏡野が小さく呟いた。
「君は白くて眩しいな」
「白?」
「…………」
俺は問い返した事を少しだけ後悔した。独り言だったかも知れないし、鏡野にとっては答えづらい事だったかも知れない。
「君は本当に綺麗な色をしている、僕が出会って来た人の中でも一番、綺麗だ」
「? そうなのか、ありがとう。嬉しいよ」
「……僕とは大違いさ」
「そんなことない!」
鏡野が小さく目を見開いた。ごくわずかに、でも確かに。
「……なんでそう思うの?」
「さっきまでの鏡野を見てたら分かる。鏡野はなんというか……美しい。心の底からそう思う」
「……変なやつ」
鏡野は少し困ったような顔をしてスケッチブックを閉じた。
◇
外に出ると世界がオレンジと深い紫に染まっていた。アスファルトの隙間から伸びた草が風に揺れ、とても涼しげに見える。
俺と鏡野はいつも通り、特に言葉を交わすことなく並んで歩いていた。
「いつも僕のこと見てるだけで飽きないの?」
鏡野が口を開く。前を見たまま歩幅も変えずに。正直こんなに鏡野が話しかけてくれるとは驚きだ。俺に心を開いてくれているのだろうか。
「鏡野に飽きるなんて、あり得ないよ」
「……本当に変なやつ」
「また言った」
つい笑ってしまった。鏡野も、くすっと喉を鳴らすように笑ってくれた。
「君は変なところもあるけど……本当に真っ直ぐな人なんだね」
「はは、ありがとな」
「……僕は立ち止まってばかりだから、君が羨ましい」
「……そうか」
鏡野が何の気無しに言ったその言葉の重さに思わず息を呑む。
「なあ鏡野」
「……?」
「もし立ち止まるときがあってもさ、隣に誰かいれば、一人じゃなければ、また歩き出せるんじゃないか」
お互いしばらく黙っていた。信号が青に変わって単調なサイレン音だけが響く。
「だったら、蓮沼が……僕の隣にいてくれる?」
振り向いて俺に見せたその顔は真剣で、どこか不安げに見える。
だから、俺は出来る限り力強く答えた。
「勿論だ」
鏡野はほんの少しだけ、安心したような顔を見せて前を向いた。
夕焼けが鏡野をやわらかく照らしている。
◇
「じゃあ、また明日」
蓮沼は名残惜しそうに僕に手を振っている。
僕も手を振ろうか迷ったけど、やっぱり面倒だからやめた。
……蓮沼は不思議な人だ。
僕の絵じゃなく僕自身を見てくる人となんて初めて会ったから、どうすればいいか分からない。
……けど、嫌とかじゃない。
それに、蓮沼と一緒に居ると目の前の景色が少しだけ綺麗に見えた。こんな事も初めてだ。
分からない、分からない。なのに嫌じゃない。それが何故なのかも、本当に分からない。
◇
次の日。美術部の準備室には、いつものように僕と蓮沼の二人だけ。
けれど、いつも通りじゃない事が一つだけあった。
蓮沼は僕の右斜め横の椅子に腰掛ける、ここまでならいつもと同じだ。けど今日はスケッチブックを手にしている。
「どうしたの?」
筆を持ったまま僕が尋ねると、蓮沼は少しだけ照れるように笑った。
「俺も描いてみようと思ってさ」
「……そっか」
蓮沼は一々線を引くだけで唸っていた。顔を見ると、本当に集中している顔だ。
「人物画? それとも風景画?」
「ちょ、まだ出来てないし恥ずかしいから見ないでくれ」
「ふふ、見せてよ」
僕は手を止めて、蓮沼のスケッチブックを覗き込む。そこには、ぎこちない線で描かれた誰かの横顔が──ああ、これは僕だ。初心者なのに結構上手いじゃないか。ちょっと美化されてるけど。
「なんで僕を描こうと思ったの?」
「……最初は俺の知ってる一番美しいものを描きたかったから」
「……そう」
やっぱり蓮沼は変なやつだ。
準備室の窓から差し込む陽は僕らを照らし、心地良い暖かさに包まれる。
僕は蓮沼の手元をもう一度見た。ぎこちない線、慣れない手つき。けれど、その線には不思議な体温が宿っている。
「……なんで、鏡野はそんなに魂の籠った絵を描けるんだろうな」
ぽつりと落ちたその声は独り言のようでいて、確かに僕に向けられているのが分かった。
筆先を宙に浮かせたまま、少しだけ考えてから口を開く。
「僕としては普通に絵を描いてるだけだから、何かアドバイスとかは出来ないかな」
「……そうか」
蓮沼は首を捻りながらスケッチブックを睨み付けている。普段は僕に見せない蓮沼の困ったような表情を見ていると、なんというか……頬が緩んでしまう。
「ねえ、蓮沼」
「ん?」
「君と居る時は、この世界が少しだけ綺麗に見えるよ」
「……奇遇だな、俺も」




