第二話 ひび割れた鏡は、虹色に輝く。
外では雨がザーザー降っている。今日の空は泣きたい気分なんだろう。
枕の横にあるスマホの画面に触れて時間を見ると丁度〇時になった所だった。
この数字を見ると、僕は白が頭に浮かぶ。
蓮沼優、彼を最初に見た時の印象も白だった。それも眩く輝いた白。かなり珍しかったから覚えている。
いや、人を見てあんな綺麗な白が浮かぶのは初めてのことかも知れない。
その日は、彼を見た時の眩しい白を頭に浮かべながら眠りについた。
何故か、いつもより眠りにつくのが早かった。
◇
薄く明るい灰色の天井と青紫色のアラームの音、眼球に絵の具を塗り込まれた様な日差し。
手をゆっくり上げる。手を握ったり開いたりして体に巡る血の感覚を掴んでいく。
リビングに降りてテーブルに置いてあるバターの塗られた食パンとベーコンエッグを一口ずつかじり、リンゴの入ったサラダを半分食べて制服に着替える。
テーブルにある母の少し丸い文字の書き置きを流し見てから扉を開けて外に出た。
ほんの少し黒の混じった深い緑色の靴音。
ビビットな赤色の草の匂い。
ザラザラとした黄色の話し声。
跳ねるシアン、泣くローズピンク、俯くマゼンタ、叫ぶライムグリーン、睨むマンダリンオレンジ、転がるチャコールグレー、動かないブロンド。
ああ。うるさい、うるさい。もう、僕にその色を見せるな。見せないで。お願いだから。
視界がキラキラと淀んで、全身が冷たく燃えていく。筆を掴んで何かに絵の具を塗りたくってやりたい衝動が頭を支配する。
いつの間にか誰かを殴る時のように拳を固く握りしめていた。
もう何千回と繰り返した、僕の……鏡野景汰の普段の朝だ。
◇
雨が降った次の日のグラウンドは土の臭いが強くなる。そしてスパイクに付きやすくなって、いつもより重たい。
ノック、ピッチング、バッティング、ランニング、etc。
これらの練習を済ませた後は全身ドロドロのヘトヘトだ。いつもならジャージに着替えた後はすぐに帰るんだが、今日はもう一つ用事がある。
職員室のドアをノックする、まだ見慣れない扉を開けると、ふわりとコーヒーの大人な匂いがした。
美波先生の机は確か、あそこだ。丁度手をひらひら振って俺を手招きしている。練習で疲れ少し動きの悪い足取りで先生の元へ向かう。
「蓮沼くーん、例の持って来てくれた?」
「はい、こちらの入部届お渡しします」
「ふふ、堅いね〜」
「まあ最初だけですけどね」
「うん、その方があたしとしても助かるわ」
渡した入部届をファイルに挟み、美波先生は立ち上がって手を叩いた。
「そうだ、ちょっと部室寄ってく?」
「まだ空けてるんですか」
「女子は皆んなもう帰ってるけど、鏡野くんは残ってるからね」
鏡野、と言う名前に思わず反応してしまう。アイツまだ残ってるのか。いやまあ、あんなに絵に執着してるなら当然か。
ウチの学校は十八時が基本的な部活動の終了時間で、最終下校時間が十九時までと決まっている。
大体の生徒は部活動の終了時間になればさっさと帰るが、部活動に熱心な生徒は最終下校時間まで粘ったりする。鏡野は間違い無く後者だろう。普段の俺は前者だ。
けど、また鏡野が絵を描いている姿を見れるなら……。
「行きます」
「うん、おっけー」
◇
「入って良いよー」
「お邪魔します」
誰も居ない美術室に入ると普段の授業の時より広く感じた。人が居ないと実は物が多いのが分かる。美術も野球と同じく、活動には多くの物が必要なのだろう。
そんな感情に浸りつつも、すぐに横の準備室に入る。鏡野は居るんだろうか。
ガラッと扉を開けて部屋に入ると、俺より一回り小さく華奢な男子がスケッチブックに絵を描いていた。あれは鏡野だ。心臓の鼓動が速くなる。
「そんじゃあたしは職員室に戻ってるから。最終下校時刻にまた来るね〜」
「あ、はい!」
◇
ああ、腹が立つ。何に? 分からない。でも、本当に苛々が募って仕方がない。最近は、こんな事ばっかりだ。
全てを投げ出して消えてしまいたい。僕と言う存在をこの世から無かったことにしてしまいたい。こんな気持ちになるなら……僕はもう生きている事がこんなに辛くて嫌で苦しくて痛くて惨めで……なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで僕はこんな気持ちになってまで、絵を描く事がやめられないんだ。
絵を描くたびに苦しさは増していく。絵を描かないと頭と体が僕を突き動かす。この衝動が収まるまで、絶対に逃さないと。でも、もう限界だ。こんな気持ちになるなら、いっそ!!
違う、僕はこんな……こんなんじゃない!! こんなんじゃない、僕の描きたいものは。物足りない、満ち足りない、ありえない、わからない、いみがない、わからない、わからないわからないわからない。なにがたりないんだ、ぼくにはなにが、なにがみえてないんだ、いったいぼくにはなにが。
僕には何が足りないんだ!!
「……鏡野」
眩く白い声がした。
この白には覚えがある。確かあの時の、もう顔や名前は忘れかけているけど、この白は覚えてる。
声の方へ振り向いた。
◇
正直、なんで声をかけたのか分からない。話をしたかったのか? 俺の存在を認識して欲しかったのか? 分からない。
ただ、俺は鏡野の名前を呼んでいた。
鏡野は俺の顔を見て目を見開いていた。
お互い何も言わない。
少し離れた距離で顔を見続ける。
初めて会った時は前髪が長くて分かりづらかったけど、今は大きくて色素の薄い吸い込まれそうな潤んだ目をしているのがハッキリ分かった。
どれくらいの時間が経っているのかは分からないが、先に沈黙を破ったのは鏡野だった。
「……居たんだ」
「ああ、今日から美術部にも入ってさ。一応また名乗るよ、蓮沼優って言うんだ。よろしくな」
「…………」
鏡野は何も言わずに、顔をスケッチブックに戻した。
いや、これは、どうなんだ。否定も肯定もされなかったぞ……。
まあ、俺も今日から美術部の一員なんだ。好きにさせて貰おう。
鏡野の横顔が見られる場所に椅子を置き、そこに座る。
変わらず鏡野は目を見開いて、スケッチブックに絵を描いていた。
けど、先程までとは様子が違う。なんと言うか……殺気とかトゲトゲしい雰囲気が減っている。バラバラで無秩序だったのが一つになって鋭く深く穏やかに研ぎ澄まされている感じだ。
その顔をじーっと見つめると、また俺の心に俺の知らない感覚が広がる。
心臓をギュッと掴まれたみたいに苦しい、なのに全然嫌じゃない。
全身に炭酸をかけられたみたいに、しゅわしゅわと弾けて、しまいには溶けて消えてしまいそうだ。
鏡野が絵を描いている時の表情を見ていると今日の練習の疲れが消えていく。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
……鏡野には世界がどんな風に見えてるんだろうか。
きっと綺麗で色鮮やかで、俺とは真逆の世界なんだろうな。