#079a 袋小路の壊しかた
「――コーダ……大丈夫ぅ?」
「ん? ああ、岡崎か」
今まで自重してくれていたのか、エドガーさんがこの広場から立ち去るのとほぼ同時に入れ替わるようにして岡崎がやってきた。
「大丈夫って言われても返事に困るぞ? あのふたりは危険人物とかじゃないし……いや、むしろ正義の味方に近い」
「うーん……そお?」
半信半疑な感じで首を傾げている。
確かにあの人たちは俺たちより遥かに上のレベルのプレイヤーたちだ。その気になれば俺など一瞬で殺されるのだろう。
だからきっと、岡崎ぐらい慎重なほうがPK――殺人行為も可能なこのゲームでは正しい立ち回りなのかもしれない。
……正直あのみーに殺されるシチュエーションというのは、さっぱりイメージできないけど。
「ねえねえコーダ、ちょっぴしここでも飛んでみても良い? どんだけ高く上がれるか試してみたくてぇ」
「良いけど……石畳だから落ちるなよ? 普通に死ぬぞ?」
「へいへい! そこはだいじょーぶ!」
にししっと笑いながら岡崎は軽く助走をつけて――
「アトリビュート<ロウ>……!」
――宣言と共に一度膝が地面に着くほど大きく身体を沈ませ、次の瞬間に空へと身体を打ち上げる。
「へぇ」
垂直ではなく俺から見て左右へとノコギリの刃のようにジグザグに軌道を変えながら高度を段階的に上げて行く岡崎。
どういう理屈かわからないが、おそらく試行錯誤の結果に得た経験則としては垂直に上を目指すよりジグザグなほうが効率が良いのだろうな。
8回ほどの往復の結果、目測で約50~60m……20階建てのビルほどの高さまで登り詰めていた。
「うっひゃーっ!」
恐怖に勝るほどのたまらない開放感とロケーションなのだろう。頭上で岡崎がそう叫んでいるのを見届けていると。
――ピッ。
不意にそんな人工的な音が頭の中に響いた。
……おそらく送信主は深山。
俺は軽く覚悟を決め、ゆっくりと視線誘導のカーソルを視界下部のメッセージ表示へと動かした。
『ミャア>香田君……ごめんなさい。まだ起きてますか……?』
「起きてるよ。終わった?」
『ミャア>はい。もし長い時間お待たせしていたら、すみませんでした』
ちょっと考えてから。
「うん。待ってた」
そう伝えておいた。
それから互いにしばらく無言のままで、不思議な沈黙が続く。
『ミャア>ごめんなさい』
「……何について?」
何だろう。この、たまらない空気感は?
弱い俺は簡単に馬脚を現してしまいそうな気分だった。
『ミャア>…………会いたい、です』
「わかった、今すぐそっち向かうよ。岡崎もいっしょに戻るからアイツの部屋じゃなくて俺たちの部屋で待ってて欲しい」
『ミャア>わかりました。ご迷惑お掛けします』
必要最低限のそれだけの会話だけで深山からチャットを終わらせた。
俺はため息混じりにソフトウェアキーボードを閉じる。
「――ご迷惑をお掛けします、かぁ」
深山のここまでの敬語、初めてな気がした。
これからの展開を軽く想像してため息が何度でも零れて来る。
「おーい、岡崎~! 深山から連絡あったから帰るぞぉ!」
「へーい!」
◇
――コン、コン。
岡崎と宿屋の階段で別れた俺は、自分の借りた部屋ではあるが一応ノックをしてから中へと静かに入った。
パタン、と妙に滑りの良い木製の扉が閉まると……部屋の中はいつもよりずっと薄暗いことに気が付く。
天井の照明となる魔法の光は消え、備え付けの机の上にあるロウソクの炎だけが12畳ほどあるこの部屋の内側を照らす唯一の灯り。
だから、深山の姿を見つけ出すまで数秒が必要だった。
「深山?」
まるで隠れているかのよう。
一番奥の部屋の隅で、壁に寄りかかりながら立ち尽くしているばかりの彼女。
確信する。
どういう状態かはさておき、今の深山玲佳は普通じゃないって。
「……すみません」
「今度はどういう意味?」
「ご足労頂いて」
ご足労、と来ましたか。
たまらない気持ちが吐息として心から溢れそう。俺は精一杯の気持ちでそれを呑み込むと、隅でうつむいたまま佇む深山へと一歩一歩、近づく。
「深山」
「はい」
俺は少しずつ歩み寄りながら、頭の中で色々な可能性を考えていた。
まず最初は…………やっぱり別れ話。
「……大丈夫?」
「どういう意味でしょうか」
可能性として一番低いと今も信じているけど、でも一番最悪で一番心配していることだから仕方ない。例えば0.1%という低い確率で自分が死ぬかもしれないルーレットがあるなら、そのハズレを引かないかと真っ先に心配してしまうあの心理だった。
「深山が普通じゃないことぐらい、鈍感な俺でもわかるよ」
「……香田君は、鈍感なんかじゃありません。訂正してください」
その一言は、救いだった。
間接的に俺への評価が高いままだと教えてくれた。
「わかった、訂正する。深山のことを敏感に察知できる俺でありたい」
「…………そう言って下さると、嬉しい、です」
次に、『高井から酷いことをされた』ということへの可能性を懸念する俺だった。
EOEの中だから、性的な行為はかなり制限されている。
でも、まったく何もやれないというわけじゃない。
たぶん高井はそういうことをする人間じゃない。最低限、それぐらいは信じている。
――でもそれは、日常的な空間での判断だと思う。
もし、例えば誓約によって深山に日常的な会話とはかけ離れた赤裸々な告白を強要したら? それでエスカレートしていったら?
普段はモラルという蓋に封じられている、誰でも抱えているような内側の醜い部分が顔を出してしまうかもしれない。
それは高井でなくても……俺でもそうなってしまうかもしれない。
あるいはそういうことでなくても。
例えば、深山に新たな酷い誓約が課せられてしまったら?
……そういうことも含めて、俺は深山が状況的に追い込まれていないかとても心配だった。
「心配をお掛けして、すみませんでした」
「……うん。心配したよ」
深山は部屋の隅のその位置から一歩も動かない。
顔をうつむかせて、決してこちらを向いてくれない。
「いや……今もすごく心配してるよ」
「すみません。すぐに、いつも通りに戻ります」
俺はそんな彼女の目の前まで到着すると。
「――あ……」
俺は右手で深山がもたれ掛かっている正面の壁へと手を突いて逃げられないように身体を寄せ、左手を使い少し強引に彼女の顔を上げさせた。
「目……真っ赤だ」
「これは……そのっ……」
今は平気なフリをしている深山だが、その真っ赤に腫れ上がっている目元でさっきまで泣いていただろうことは明白だった。
それを悟られたくなくて部屋の灯りを消し、この部屋の隅から動こうとしなかったのだろうか?
「深山、こっち向いて」
「……」
まるで宝石のようにキラキラと輝いていたあの真っすぐな瞳は見る影もなかった。決して俺を見てくれない。
「……どうしたの?」
「……」
正直なところ俺は、すでに怒っていた。
こうなったその原因が高井によるものなのは、まず間違いがない。
――でも、怒るにしてもまずはちゃんと事実を確認してからだ。
「高井は? どこ?」
こんなに内心で複雑な感情を抱いてしまっている現状、果たしてどれだけ客観的な判断ができるか定かではないが……それでも最低限のことはしなきゃいけない。
思い込みだけで断罪してしまうような人間にはなりたくない。
「……さっき、帰りました」
「そうか」
……この深山の反応で、またわからなくなってしまった。
高井に対する特別な感情をそこから拾うことができなかったのだ。
そこには憎しみも悲しみも特には何もない。
『そんなことは、どうでもいい』という感じだったのだ。
「香田君」
「うん?」
「……手を離してもらえませんか」
「え」
相変わらず視線をこちらから見て右下の方向へと大きく外したまま、深山がそうつぶやいて……狼狽する中でとりあえず深山の顔を捕まえていた左手を離す。途端、また彼女はうつむいてしまった。
「少しだけ……お話、聞いてくれませんか」
「うん。いくらでも聞くよ」
「ありがとうございます」
ほぼ俺たちは密着しているに等しいぐらい身体を寄せているから、小さくあごを引くぐらいのわずかな動作で深山はうなずく。
「…………」
そして、しばらくの沈黙が続いた。
でも決して俺から催促するようなことはしない。
深山のペースで話して欲しい。
無理やり言わせた言葉なんかに、何の意味もない。
「……わたしは、わたしの価値を落としたくない」
「え?」
唐突に、何の予兆もなく彼女は語り出した。
「自分を卑下するようなことを言いたくありません」
「そうか……うん、それで良いと思うよ? 自分で自分を認められなくなると、それはすごくつらいことだから」
「違う。わたしがつらいとか、苦しいとか、そんなことはどうでもいいんです」
「……?」
彼女の伝えたいことが何であるのか、その真意が掴み切れなかった。
「香田君にとって、価値のあるわたしでいたい。価値のない自分を押し付けるような驕った人間になりたくない……嘘で偽って不当な評価を得ることに、何の意味もありません」
『もちろん価値があるよ』。
そう安易に答えたかった。でも、それはたぶんここから続く彼女の話を阻害するような気がして……自重した。
せっかく話してくれているのだから、今はただ静かに聞きたい。
受け止めてあげたい。俺の心はそう舵を切っていた。
「……わたし、本当に知らなかったんです」
「え?」
「わたしって……あんな酷いことをする人間だって、知らなかったんです」
震えていた。
深山の身体が小刻みに震えだしていた。
「信じられない…………あんな酷いこと……どうして考えられるの」
ぎゅううぅ……と、自分のスカートを握りしめて深山が身体を揺らす。
うつむいたまま、肩を震わせる。
それは泣いているわけじゃない。
『心が痛い』ともがき苦しんでいるわけじゃない。
悲観しているのも違う。
「信じられない」
――純粋に怒っているのだ。自分へと。
「そっか……酷いことを考えちゃったか」
「…………はい」
決して俺は、具体的なことを聞き出すような質問をしない。
彼女自身が選び、自ら発する言葉だけを受け止める。
そして察するその努力をする。
彼女はさっき『あんな酷いこと、どうして考えられるの』と自分を糾弾していた。
『考えられる』。
その表現だけで推察するには充分に思えた。
おそらく高井は、深山に自分のことをどう考えているのか、その本心を隠さず伝えて欲しい……そんな感じのことを『質問』したのだろう。
だから彼女は自らの誓約に従い、以前から高井に抱いていた『酷い考え』をありのまま伝えた。
自分のことを好きだと、ありったけの勇気を振り絞り愛をこめて告白してくれた相手に。完全に心を無防備に晒したその人に、深山は鋭利なナイフのような言葉でめった刺しにした――おそらくはそんな感じなんだろうと思う。
「……」
だから彼女は、今、こうして黙っている。
価値が下がってしまった酷い自分は、俺の前に立てない。
真っすぐに俺を見ることもできない。
まるで卑劣な犯罪者のように。
しかし必要以上に自分の価値を自ら下げることもできない。
まるで悲劇のヒロインのように泣くことも許されない。
だからもう、深山玲佳は黙って立ち尽くすしかできないのだ。
それは俺も同じ。
表層的で安易な言葉を使い、補うことはできない。
言えるわけがない。
『全然そんなことないよ』と言うのは簡単だけど、決して深山はそれを受け入れてはくれないだろう。
だって彼女の言っていることはおそらく真実で、何も間違えてないのだから。
……本当にすごい。
深山玲佳という女性は、もう決定的に根本的に純粋な尊敬を抱いてしまうほど、どうしようもなく真っすぐすぎる人なのだ。
そんな彼女に『全然そんなことないよ』なんて、口が裂けても言えるはずがない。
そんなことを言ったら、あまりにも支離滅裂だ。
愚かしい。
それこそ彼女のあり得ないほどの美しい芸術品のような真っすぐさを捻じ曲げてしまう。
俺が彼女に対してもっとも価値を感じる部分を、俺は否定できない。
それを彼女も望んでいない。
「深山は……本当に偽らない人なんだな」
「はい。正しく評価されないと意味がありませんから」
これが精いっぱいの落としどころだった。
俺は相手を傷つけるような残酷な言葉を発したことに対し、否定も肯定もできない。
深山も自分から自分の価値を上げることも下げることも言えない。
「尊敬するよ」
「…………はい。ありがとう、ございます」
よほど酷い皮肉に聞こえるのだろう。
深山の瞳が苦痛に歪んでいる。
『告白してくれた相手の心をめった刺しにするような人間に尊敬ですか』と内心では嵐のような感情が吹き荒れていることだろう。
――さて。進退極まった。
完全な袋小路に入ってしまった。
肯定も否定もできない。
ここまで追い込まれて苦しんでいる深山に対して『なかった』ことにもできないし、彼女の望まない異質な『何か』に挿げ替えて逃げることもできない。
『そうなんですか』。
そんな風に突き放して、ただただ認めることしかできない。
それじゃまるで興味のない他人事のようだ。
――なるほど。だから敬語なのだ。
深山が困窮した時、決まって敬語になっていく理由を今さら理解した。
彼女もまた自分自身を突き放してまるで他人事にしている。
過剰な主観による演出を排除し、極力客観性を得ようとしているのだ。
可能な限り公平で正しい俺からの評価を欲している。
その表れなのか。
「……すみません。こんなこと言い出して迷惑をお掛けして」
「いや、迷惑じゃないよ」
断続的に交わされる無難な会話。
それ以外の残りすべての時間は、ただひたすらの沈黙が続く。
……どうあるべきなんだろうか?
もっと高井をどう傷つけたか根掘り葉掘り聞きだして、正しく深山の残虐な行為のことを確認するべきなのだろうか?
そうしないと、深山はきっと納得しない。
深山が知りたいのは、俺からの公平で嘘偽りのない正しい評価。
対して俺は、深山の心を救いたい。
ただそれだけ。
嘘でも偽りでも何でもいい。むしろ利用したい。
ダメージを負った彼女の心を少しでも救ってあげたい一心だった。
もはや彼女が望むモノとは真逆と表現して良いと思う。
「…………」
結果、こうして踏み込めない俺にとって不本意な状態がどこまでも続く。
あるいは深山にとっての本意に近い、他人のような冷たい距離感が続く。
直感する。
もうこれ以上、ここでうだうだと悩んでいても無意味だと。
何も進められない。
ただ風化して、深山の心に負ったダメージは傷となって残るだけ。
だから打破するには――
「なあ深山」
「はい」
――それらを凌駕する、まったく別のアプローチが必要だと理解した。
「見てて」
「え?」
俺はまるで辞典みたいな厚みのある誓約紙aを取り出すと、彼女の目の前で白紙のページを広げる。
「香田孝人は、ミャアに対し」
「……?」
俺は白紙のページの一行目にカーソルを合わせると、あえて音声入力で文字を記述していく。
「ふたりきりの場合に限り」
何事も経験だと思う。
当時は『勘弁してくれ』と嘆くばかりだったあの地獄のようなやり取りすらも、糧となり得る。
「どんな質問にも事実を正確に話し、全部を説明しなければならない」
「……っ!!」
そう、俺は未とのあの赤裸々なやり取りの中で思い知ったことがある。
相手も同じ誓約が入っていると、一方的にならない。
その対等な立場になった安心感は、確実に心の支えになる。
そして初めてその時、それを利用して相手に踏み込むことが許される。
「この場合に限り、質問に対し沈黙を使い逃げることは許されない」
これで俺の入力は終わり。
数秒の沈黙の後に誓約に記述されたその一文は、仮のモノとして成立していた。
「あ……あのっ、香田君――」
「――ほら深山。最後に閉めて?」
「え?」
珍しく要領を得ない返事をする深山の手を掴み、その指先を入力したばかりの一文の文末に押し当てる。
そこにアクティブを示すカーソルが現れる。
「ほら、ここに『。』を入れて深山が閉めて」
「…………っ……!!」
つまりそれは、この一文を削除する権限を深山に譲渡する行為。
これで深山以外、誰も手が出せなくなる。
「で、でも……!」
「いいから。じゃあ『質問』。嘘偽りのない俺の心の声は聞きたくない?」
「――き、聞きたい……ですっ」
それはほぼ即答だった。
軽く誓約の力が働いただろうけど、それに強く抗うこともなく深山は自分の心の声を素直に俺に聞かせてくれた。
今まで、とても怖くてこんな『質問』をすることはできなかった。
でもこれからは違う。
「香田君……香田君っ……」
やっと、泣いてくれた。
ようやく自らの戒めで硬く縛られていた深山の心を解くことができた。
深山は申し訳ないような――でも嬉しそうな感極まった顔をして、少し身体を震わせながら視線をぎこちなく動かす。
『。』と、ソフトウェアキーボードを使い、入力してくれた。
こうして俺たちを繋ぐこの大切な誓約の一文は、今、真に完成する。
「ありがとう。ふたりきりの時だけの限定で申し訳ないけど……これでこの瞬間からこの空間の中で俺たちは対等だ。深山は俺に対して、確認したいことがあれば何でも遠慮なく質問してくれ」
「……い、いいの……?」
「もちろんだ。そして俺も深山に、遠慮なく質問する」
「う、うんっ、して! いっぱいいっぱいして欲しい……!!」
本当に驚くほど効果てき面だった。
今まであれだけタブー視していた深山への『質問』が、この瞬間から俺たちの『絆』となった。
客観性を得ようと他人事のように突き放すことでしか互いを思いやることができなかったこの関係は、確実に質を変えて距離を縮められた。
新たな――そして強固で確実で有効な手段を、俺たちは手にすることができた。
袋小路は、今、こうして打破された。
「香田君……ごめんなさい。その……『質問』、です」
「うん」
あの綺麗で可愛い顔をくしゃくしゃにして、まるで子供みたいに深山は大粒の涙を落とし、激しく身体を震わせている。
肺から絞り出すように声を出す。
きっと、ずっとずっと聞きたかったこと。
どうしても信じられず、恐れ、疑っていたことを真っ先に確認する。
「こ……香田君はぁ……」
まったくバカだな、深山は。
あんなに山ほど嘘偽りのない真実を繰り返し伝えていたというのに。
隠すことなく態度に表していたというのに。
「わたしのこと……す、好き、なんですか……っ?」
そんなわかり切った、つまらない質問をしてしまうなんて――





