逃げ道の向こう
実習舎のガラス屋根に夕日が砕け、梁から下がる水滴が赤く光っていた。石床には人の靴跡と獣の足跡が重なり、奥の扉だけは巨人が通れる高さまで継ぎ足されている。新しい真鍮の金具には、王冠より小さく、けれどよく目立つ商会の刻印があった。
「そこの四人。帰る前に手を貸してくれんか」
魔法動物学の教師ベレミンが、義手で空の木箱を持ち上げた。ディディは足を止めた。フィオナはすでに箱をのぞいている。
「何が入ってるの?」
「今は空気じゃ。これから石背イタチを入れる」
「空気なら、わたしにも捕まえられそう」
「それで単位が取れるなら、俺もそうする」
「単位は出んぞ。授業はもう終わりじゃ。こやつの引っ越しを手伝ってくれれば助かる」
講義が終わっても、動物の世話は終わらない。飼育房の排水溝を直すあいだ、その住人を隣へ移すのだという。
棚の下に、灰色の獣がいた。子猫ほどの大きさで、背中に平たい青い石が何枚も重なっている。鼻先だけが白く、しきりに床を嗅いでいた。
「噛みつくぞ。石も飛ばす。正面をふさぐな。困ったらこの布を上げるんじゃ」
ベレミンは赤い布を箱に載せた。
ジズーが壁際の止め金を外す。ベレミンはそれを受け取り、排水溝の格子を取り替え始めた。授業なら黒板を見ていればよかったが、ここでは四人が動かなければ、獣の寝床はいつまでも水浸しだった。
フィオナが出口側へ回り、ジズーは棚に引っかかった敷布を取った。ゴライアスが壁際にしゃがむと、獣の背の石がいっせいに起きた。どうやら背の石には感情を表す機能もあるらしい。
ディディの腕に、細い針を滑らせたようなものが走る。
近づいてほしくない。ここから出たい。
「ゴライアス、少し離れてもらえる?」
「……ぼく、外にいようか」
「そうじゃなくて。体が大きいから、びっくりしてるんだと思う」
巨人は扉の方へ寄った。獣の石は立ったままだった。
それでもディディは片膝をついた。村では、こうして待っていれば動物の方から近づいてくることがあった。レムルスも足元に伏せている。大丈夫だ、と思った。
「こっちへ来ればいい。誰も――」
ぱん、と乾いた音がした。
小石がディディの頬をかすめた。次の一粒が床で跳ね、フィオナの足元へ飛ぶ。
白い床と、羽ばたく金色が一瞬重なった。奪われた卵を追って、何もできずに立っていた祭壇。今、飛んできたのは指先ほどの石なのに、ディディの手はあのときと同じように止まった。
「わっ!」
ゴライアスが手を差し入れた。石が爪に当たり、白い筋を残す。同時に、ベレミンの義手にはまった宝石が光り、薄い膜を広げた。棚と生徒の間で、三つの石が止まった。
「全員、そのままじゃ」
ディディは赤い布を持ち上げた。出した手を引けばよかった。動物が嫌がっているのは分かっていたのに、自分なら分かってやれると思って近づいた。
ベレミンが背後から木箱を置く。石背イタチは逃げ込まず、棚の脚へ頭を押しつけた。
「……あれ。箱、嫌なの?」
フィオナが敷布を持って首を傾ける。その端を獣が見た。鼻が上がる。ディディの腕に走っていたものが、一瞬だけほどけた。
「それ、こいつの?」
「うん。湿ってたから、先に出しちゃった」
箱には新しい白い布が敷かれている。ジズーが古い敷布の縫い目を指でつまんだ。灰色の毛が、糸に何本も絡んでいた。
「分かった。匂いだ」
ディディはゴライアスを見た。
「ごめん。お前のせいじゃなかった」
「……大丈夫。手なら、平気だし」
「手もそうだけど。俺、勝手に決めつけちゃった」
ゴライアスは扉の脇で、少し身を起こした。
「戻っても、いい?」
「うん。箱、動かないように持っててくれる?」
ベレミンは光の膜を残したまま、二人を見比べた。
「やってみるか。わしが止めたら、そこまでじゃぞ」
フィオナが古い布を箱に敷き直した。ジズーは棚から箱まで、もう一枚の布で細い道を作る。ゴライアスの指が箱の両脇に添えられた。指一本が石背イタチより太かったが、今度は石が逆立たない。
ディディは棚の前を空けた。
出たい、と思うものを追い立てなくていい。どこへ出たいのか、まだ分からないのだから。
獣は二歩進んだ。レムルスを見て止まる。
「レムルス、こっち」
銀狼がディディの隣へ退いた。扉の向こうには夕日の当たる廊下が続いている。そこへ走っていけば、箱へ戻ってくる保証はない。
それでも、ディディは足で道をふさがなかった。
白い鼻先が敷布に触れた。
石背イタチは一度廊下を見てから、箱へ入った。くるりと体を丸めると、背中の石が瓦屋根のように重なった。
「入った……!」
フィオナが両手を上げかけ、途中で止めた。ゴライアスまで息を止めている。
「息はしてよ」
「……あ、うん」
その返事で箱がわずかに揺れ、四人が一斉にのぞき込んだ。獣は鼻先を布に埋めたまま動かなかった。
ベレミンが光の膜を消した。
「よし。隣へ運ぶぞ。ディディ、その頬はあとで洗え」
指で触れると、赤いものがついた。ゴライアスの爪にも欠けたところがある。箱に入ったからといって、なかったことにはならない。
「先生。俺、分かってるつもりでした」
「手を出すのが早すぎたのう。だが、止めたあとに考え直せた。次は、こいつが断ったらそこで待つんじゃ」
隣の房で、フィオナが箱の扉を開けた。
石背イタチは出てこなかった。
「引っ越し完了! ……だよね?」
「本人が荷ほどきをせんでも、完了じゃ」
フィオナが、箱から垂れた古い布の端をつまんだ。
「これ、いっぱい縫ってあるね」
「超然協会からもらった布じゃ。直しながら使っておる」
「じゃあ、また破れたら縫えばいいんだ」
フィオナは布の端を箱の中へ戻した。ディディはさっき外した白い布をたたみ、次の箱の上へ置いた。
洗い場で頬をすすぐと、水が赤くなった。ベレミンが薬を塗り、ゴライアスの爪にも薄い板を貼った。ディディは巨人の指を支えた。石に向かって差し出された手を、今度はよく見ていた。
扉の外へ出ると、フィオナがゴライアスの手を引っぱった。
「これ、大会でもできるよ。ジズーが上から見て、ゴライアスが支えて、ディディとわたしが走るの!」
「何を支えるの?」
「そこはこれから考える!」
ジズーが小さく吹き出した。
ディディは頬の傷に触れず、レムルスの背へ手を置いた。箱へ向かう獣を、銀狼は一度も追わなかった。
今日、いちばんちゃんと待てたのは、たぶんこいつだった。




