深層海流
西暦2040年、冬。一連の事件を受けて灰色の宰相・有馬征四郎が発動した「浄化」は、未だ日本全土で猛威を振るっていた。
だが、その嵐の中で、真実を追い続ける男がいた。フリージャーナリストの相沢。彼は、有馬政権発足時に『週間文冬』を追われ、今や海外の暗号化されたサーバーを経由する、アンダーグラウンドなネットメディアで執拗な調査を続けていた。
彼が追っていたのは、一つの巨大な謎だった。
「なぜ、これほど国民に憎悪される有馬政権が、まるで微動だにしないのか?」
その答えを求め、相沢は足を使って調査していた。有馬政権によって左遷され、あるいは職を追われた元官僚たち。彼らのリストを洗い出し、一人、また一人と、接触を試みる地道な取材活動。
だが、ほとんどの人間は「秩序維持法」への恐怖から、相沢を前にして貝のように口を閉ざした。取材は難航し、焦りだけが募っていく。
転機が訪れたのは、冷たい雨が降る夜だった。公衆端末から、暗号化されたメッセージが届いた。「話したいことがある」。指定されたのは、都心から遠く離れた寂れたホスピスだった。
病室で相沢を待っていた男は、痩せこけ、死の影を色濃くまとっていた。彼は、元・会計検査院の幹部職員だった。震災復興予算の監査を担当していたが、何かに気づきすぎたために、早期退職という名の追放処分を受けていた。
「……時間がない」男は、弱々しく咳き込みながら言った。「家族には、ただの癌だと言ってある。だが、本当は……奴らに消される前に、これだけは、あんたに託したい」
男は、震える手でベッドの下から一つのデータチップを相沢に差し出した。
「私は……この国の番犬であるはずだった。だが、気づいた時には、飼い主が化け物にすり替わっていた。……頼む。これが、私の最後の仕事だ」
アパートに戻り、厳重なセキュリティチェックを経てチップの中身を確認した相沢は、その内容に戦慄した。
「……これは」
相沢が息をのむ。
それは、あの男が職権で閲覧した会計データの、決定的な概要だった。 画面に映し出されていたのは、東亜連邦から有馬政権に「復興調整費」の名目で流れ込み続ける、天文学的な額の秘密資金の流れ。 それは公的な監査ルートを完全に外れ、「内閣官房復興特別会計」という名の有馬の機密費に吸い込まれていく。
その金の流れは、有馬個人に留まらない。まるで人体の毛細血管のように、政界、官界、財界のあらゆる中枢へと張り巡らされていた。
与党議員はもちろん、懐柔された旧野党系の大物議員たち。財務省や経産省の幹部官僚たち。「復興特需」という名の果実を与えられた財界のトップたち。彼ら全員が、この「黒い資金」の共犯者だった。
これが有馬政権の隠然たる力の源泉なのか。
国民の支持など、彼にはもはや必要ない。東亜連邦からもたらされる莫大な政治工作資金が、日本の中枢部を内側から買い取り、有馬への絶対的な忠誠を誓わせる「接着剤」となっていたのだ。
相沢は、その腐敗のリストを追ううちに、ひときわ異様な金の奔流に気づいた。
「タチバナ総合科学研究所……?」
山梨県の山中に、震災後に設立されたばかりの謎の研究機関。そこに、他のどの復興事業とも比較にならない、ちょっとした小国の国家予算級の資金が、今この瞬間も流れ込み続けている。
相沢がさらにデータを深く追う。
「特殊生産設備 増強費」「第四期 量産ライン 資源調達費」
「……量産? 一体、ここで何を造っているんだ……?」
相沢が掴んだ情報によれば、タチバナ研究所が生産しているのは、ただ一つ。
全固体電池。
震災後の電力不安を解消する蓄電タンクとして、モバイル機器の電源として、そしてロボットや電気自動車のエネルギー源としても利用可能な、超高性能バッテリー。
そう、電池だった。作っている物は平凡すぎるものだ。
相沢は、拍子抜けした。あまりにも平凡すぎる。これが、あの有馬が国家予算級の秘密資金を注ぎ込むプロジェクトの正体だというのか?
(なぜ、ただの電池にこれほどの金を……? 確かに高性能らしいが、コストが釣り合わない。何か、もっと別の目的が……?)
相沢はリーク情報を元に、さらなる調査をすすめた。
しかし、疑惑の研究所は治安維持部隊が周りを固めていて近づく事すらできなかったし、聞き込みをした人々の口はどれも固かった。
彼の調査が行き詰まり、その「違和感」の正体を掴めずにいた、そんな時だった。
海外サーバの暗号化されたメールボックスに、一通の通知が届いた。差出人は不明。添付されていたのは、一枚の画像データだった。それは、タチバナ研究所から、有馬の側近が代表を務めるダミー会社へと送金されたことを示す、銀行の取引記録の一部とみられる更なるリーク情報だった。接触したうちの誰かが匿名で送ってきたものかもしれなかった。
「……還流させている!」
相沢の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、音を立ててはまった。 そうだ、目的はバッテリーそのものじゃない。タチバナ研究所は、東亜連邦からの「黒い資金」を「有馬の個人資金」へと変える、巨大な「洗浄工場」だったのだ。
「利権か……!」相沢は確信した。「復興を名目に、連邦の金で巨大なバッテリー工場を作り、その利権を独占して私腹を肥やしている。これが有馬の汚職の核心だ!」
相沢は、これが政権を揺るがす最大のアキレス腱だと判断した。彼は、国内の監視網をかいくぐるため、海外の匿名サーバーを経由し、この「有馬疑獄」の証拠を一斉にネット上へリークした。
◆
一瞬、日本は揺れた。
検閲システムと国内の監視網が反応するより早く、情報はSNS上で爆発的に拡散された。「#黒い資金」「#タチバナの闇」「#有馬の汚職」といったハッシュタグが、トレンドの上位を埋め尽くす。
山深い廃鉱に潜む独立派のアジトでも、その一瞬の炎上は観測されていた。
「おい、見ろ!有馬首相が、こんなことを!」
古い端末を監視していたユウトが声を上げた。飯田がその画面を覗き込む。そこには、消される直前の「タチバナ研究所」の名と、巨額の資金の流れを示すグラフのスクリーンショットが映し出されていた。
「……タチバナ……黒い金……。バッテリー利権で多額の金を横領して私腹を肥やしてるって話だ」ユウトが読み上げる。
「これか」飯田は、吐き捨てるように言った。「奴の力の源泉。そして、この研究所は奴の汚職の心臓部というわけか」
この火の手がどこまで広がるのか、独立派は固唾をのんで見守っていた。久々に有馬政権の打撃となる事件だったからだ。このまま国民の怒りが広がれば、政権に一矢報いるチャンスがあるのではという、淡い期待もあった。
火の手は、国会にも飛び火した。まだ買収されておらず、良心を残した数少ない旧野党系のベテラン議員、福永が、予算委員会でこのリークデータを突きつけた。
「総理!タチバナ研究所に流れたこの巨額の資金は何ですか!国民に説明する義務がある! そして、そこに座っている閣僚の何名かが、この黒い金を受け取っているリストがある!答えなさい!」
議場は怒号に包まれた。だが、有馬は能面のような表情を崩さない。
「……復興に必要な生産のための資金だ。以上」
有馬の「浄化」が、その牙を剥いたのは、その日の夜だった。
まず、SNS上のハッシュタグと関連記事が、AIによって一斉に削除された。トレンドは、政府広報である「復興支援への感謝」といった無難な話題にすり替えられた。
翌朝。国会で有馬を追及した福永議員の、古ぼけた「女性スキャンダル」が、政府系タブロイド紙の一面を飾った。愛人との手切れ金をめぐるトラブル、隠し子の存在。福永は、党の倫理委員会から即日除名処分を受け、議員辞職に追い込まれた。あまりにも手際の良い、政治的な暗殺だった。
だが、火の手はまだ完全には消えていなかった。
検察特捜部。その中にも、まだ有馬の金に汚染されていない「正義派」の検事たちが残っていた。彼らは、福永の失脚を見て、これが司法の独立を守る最後の戦いだと覚悟を決めた。彼らは水面下で捜査令状を準備し、タチバナ研究所への家宅捜索を、極秘裏に計画した。
その情報が、有馬の耳に入るまでに時間はかからなかった。
家宅捜索決行の前夜。官邸の執務室に、法務大臣が呼び出された。
「総理……いかがなさいましたか」
法務大臣の顔は、不安に引き攣っていた。彼自身もまた、「黒い資金」の最大の受益者の一人だったからだ。
有馬は、窓の外の闇を見つめたまま、静かに命じた。
「指揮権を発動しろ」
「し、しかし総理!」法務大臣は狼狽した。「それをすれば、三権分立は……日本の司法は完全に死にます!国民の反発が……」
「法務大臣」有馬は、ゆっくりと振り返った。その氷のような目が、大臣を射抜く。
「君が受け取った金は、何のためだったかな? タチバナは、国家の最重要機密だ。復興の、いや、この国の生存そのものに関わる。その心臓部に、シロアリが入るのを放置するのか?」
「……っ!」
「これは、司法の独立などという平時の感傷ではない。国家のエネルギー安全保障の問題だ。速やかに、検事総長に伝えろ。『タチバナ研究所に関する一切の捜査は、国益を著しく害する』と」
法務大臣は、もはや反論できなかった。彼は、震える手で「承知いたしました」とだけ答え、深く頭を下げた。
騒動は、わずか三日で、力ずくでもみ消された。
国民に知らされたのは、「福永議員の倫理的問題による辞職」と、「タチバナ研究所に関する一部の誤解は、政府の説明により解消された」という、あまりにも白々しいニュースだけだった。
検察特捜部の「正義派」の検事たちは、翌日付で地方の検察庁へ一斉に左遷された。「指揮権発動」という、戦後政治史に残る大事件は、報道されることすらなかった。
総理執務室では、白洲二郎が有馬に淡々と報告していた。
「情報工作の首謀者、ジャーナリストの相沢は拘束。『浄化』リストに加えました。福永も、検察内部のノイズも、これで一掃されます」
「そうか。世間での私への評判はどうかね」
「多額の資金を投入して電池工場作って、キックバックを貰っている汚職宰相、金に汚い売国奴、欲に目がくらんだ守銭奴首相と、その他あらゆる罵詈雑言を一身に受けておられるかと」
有馬は、窓の外に広がる、静まり返った東京の夜景を見つめたまま、答えた。
「……タチバナへの送金は、倍額にしろ。時間を、買う。普及こそが、我々の武器だ。そして私は金に汚いからな」
彼の机の上には、タチバナ総合科学研究所から届いたばかりの、「第四期量産体制 稼働率98%」と記された報告書が置かれていた。




