ワシントン亡命政府
2040年、初夏。日本国内では、有馬政権による「浄化作戦」が猛威を振るっていた。自衛隊のクーデターは潰え、独立派は地下深くへと潜り、国民は恐怖と無関心という名の沈黙を受け入れていた。
しかし、その淀んだ空気を変えようとする男が、遠く離れた地で一人戦っていた。
ワシントンD.C.の強い日差しの中、元厚生労働省官僚・湯川道彦は、汗ばむ額を拭い、合衆国国務省の建物を睨みつけていた。震災後、有馬のクーデターに近い政権掌握を予見した彼は、僅かな協力者の助けを得てアメリカへ亡命。以来、この地で亡命政府的な活動を続けていたのだ。
彼の武器は、銃や爆弾ではない。彼が信じる「戦後日本の理念」――民主主義、人権、そして福祉国家という理想そのものだった。彼は連日、有力な議員やシンクタンクのロビイストに接触し、日本の惨状を訴えていた。
「有馬政権は、東亜連邦の傀儡に過ぎない! 日本の民主主義の灯が消えれば、次はアジア全体の自由が脅かされる!」
彼の訴えは、正論であり、情熱に満ちていた。一部の人権派議員は彼に同情し、議会で日本の状況を問題視する声明を発表してくれることもあった。
だが、湯川は気づき始めていた。この超大国の、分厚く冷たい壁に。
今日、面会した国務省の若き次官補は、彼の話を丁寧な微笑みで遮った。
「ミスター・ユカワ。あなたの情熱には敬意を表します。しかし、ご理解いただきたい。世界は変わったのです」
その言葉の背景にあるのは、トリンプ元大統領が推し進めた強力な国家戦略『アメリカ・マニュファクチャリング2030』の完成だった。かつて世界の工場であったアジアに依存していたサプライチェーンを、徹底的な保護主義と国内投資によって、アメリカ本土へと回帰させる計画。その最大の柱が、半導体の完全自給体制の確立だった。
次官補は続けた。
「アリゾナとテキサスの新しいファブのおかげで、我が国の半導体サプライチェーンは、今や完全に国内で完結しています。正直に申し上げて、もはや列島や半島、台湾の地政学的な重要性は、以前とは比較にならないほど低下しているのです」
その一言が、湯川の理想を根底から突き崩した。彼が訴える「アジアの自由」の砦であったはずの国々は、合衆国にとって、もはや死活問題ではなかったのだ。日本もまた、その例外ではない。
このアメリカの戦略的撤退こそが、東亜連邦が「東亜の新秩序」という野心を解き放つことを可能にした、決定的な「力の空白」を生み出していた。東亜連邦による日本の掌握は、彼らの壮大な計画の第一歩に過ぎない。湯川には、その恐ろしい未来図がはっきりと見えていた。だが、目の前の男には、それが見えていない。いや、見ようとしていないのだ。
「もちろん、日本で起きている人道上の問題には深い懸念を抱いています。あなたの存在と声は、東亜連邦に対する我々の重要な政策オプションであり、いざという時に切れる貴重なカードです。ですから、どうか活動を続けていただきたい」
丁寧な激励。だが、その言葉は湯川の耳に「貴殿は、我々が使う駒の一つとして、引き続き価値を示し続けてくれたまえ」という冷酷な響きとなって届いた。彼らは、湯川というカードを握ってはいる。だが、本気でそのカードを切るつもりなど毛頭ないのだ。
面会を終え、まとわりつくような湿気と暑さの中、街を歩きながら、湯川は深い無力感に襲われた。自分は、かつて自分が信奉したシステムの亡霊であるだけでなく、もはや戦略的価値を失った地域の亡霊として、このワシントンの街を彷徨っているに過ぎなかった。
◆
一方、日本の山深い隠れ家では、佐藤ユウトが古い短波ラジオのノイズに耳を澄ませていた。クーデター後に独立派は新たなメンバーを得たものの、有馬政権の執拗な掃討作戦で身動きが取れずにいた。ユウトは、持ち前のIT知識を活かして、政府の監視網をかいくぐり、海外からの情報を必死に集めていた。
その夜、雑音の中から、か細い声が聞こえてきた。それは、合衆国から発信されている日本語の短波放送だった。キャスターが、ワシントンで活動する元日本政府高官について伝えている。
「……湯川道彦氏は、有馬政権の非人道性を強く批判し、国際社会の介入を訴えています……」
その声を聞いた瞬間、ユウトの隣で装備の手入れをしていた飯田熊治が、ぴたりと手を止めた。
「……湯川……。あの男、生きていたか」
その声には、驚きと、軽蔑と、そしてほんのわずかな安堵が入り混じっていた。
ユウトは飯田に尋ねた。「知り合いなんですか?」
「……ああ」飯田は、遠い目をして答えた。「かつて、同じ部屋でこの国の未来を憂いた男だ。だが、奴は理想を語るだけで、血を流す覚悟がなかった。俺たちとは、進む道が違った」
放送は、湯川の悲痛な演説の一部を流していた。それは、銃ではなく言葉で戦う男の、孤独な叫びだった。
その叫びは、絶望的な状況にいたユウトと飯田の心に、小さな、しかし確かな波紋を広げた。
俺たちは、まだ世界から完全に見捨てられたわけではないのかもしれない。




