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国民基盤役務制度  作者: 喰ったねこ
占領期編
13/41

鷲の紋章

逃亡から一週間が過ぎた。佐藤ユウトは、震災復興から取り残された街を彷徨っていた。昼は、半壊したまま放置されたビルの、太陽の光が届かない片隅で息を潜める。夜になると、飢えと寒さに震えながら、次の隠れ家を求めて瓦礫が散乱する闇の中を移動した。


社会から完全に断絶された彼にとって、唯一の情報源は、仮設住宅の集会所に設置された街角テレビだけだった。夜、住民たちが寝静まった後、彼は物陰から、音量を最小限に絞られたまま垂れ流されるニュース映像を盗み見た。自分の顔写真が「重要指名手配犯」として画面に映し出されるたびに、心臓が冷たく縮み上がる。列車転覆事件の犯人として、彼の名は憎悪と恐怖の代名詞となっていた。


もう、どこにも逃げ場はない。このまま野垂れ死にするか、捕まって都合のいい自白をさせられた末に処刑されるか。その二つの道しか残されていないのだと、日に日に弱っていく体が告げていた。


その夜、冷たいコンクリートの上で膝を抱え、絶望の淵に沈んでいた彼の脳裏に、一つの記憶が不意に蘇った。あれは、まだ自分がただの役務隊員だった頃。横浜の役務センターで、民衆が独立派を讃えていた、あの熱狂の日。その帰り道に耳にした、若い男たちの囁き声。


――『噂だがな。本当に追い詰められた人間が、最後の助けを求める時の…おまじないみたいなもんだ。夜中に、誰にも見られずに、あの紋章の下にチョークで小さな円を描くんだと。そうすりゃ、鷲の目が見つけてくれる、ってな』


あの時は、治安維持部隊が仕掛けた罠だと、一笑に付した都市伝説。書けば強制収容所行きのシロモノ。だが、今の自分に、罠を恐れている余裕があるだろうか。このまま何もせずに朽ち果てるという確実な死と、罠かもしれないが、万に一つの可能性がある賭け。天秤にかけるまでもなかった。


ユウトの心に、冷たい決意が灯った。やってやる。その都市伝説に、この命を賭けてやる。


彼は、噂だけを頼りに、街のどこかにあるはずの独立派のシンボル「鷲の紋章」を探し始めた。それは、あまりにも危険な綱渡りだった。治安維持部隊の巡回ルートを避け、監視ロボットの赤い単眼レンズから身を隠しながら、錆びついたシャッターや、崩れかけたコンクリートの壁を、一つ一つ確認して回る。陸橋の階段を上るだけで息が切れ、膝が笑う。体は、とっくに限界を超えていた。


数日後、心身ともに尽き果てようとしていたユウトの目に、それが飛び込んできた。閉鎖された工場の、埃と煤で汚れた壁。その片隅に、雨風でかすれ、ほとんど消えかかっていたが、確かにあの「鷲の紋章」が描かれていた。

心臓が激しく脈打つ。ユウトは、震える手でポケットから、拾ったチョークの欠片を取り出した。彼は、紋章の下に、小さな円を描いた。独立派だけが知る、助けを求める者の印。最後の賭けだった。



夜になっても廃工場の裏手、コンテナが山と積まれた薄暗い路地裏で、ユウトは壁に背を預けて待っていた。どれくらい待っただろうか。時間だけが、無情に過ぎていく。やはり、罠だったのか。それとも、ただの悪戯書きだったのか。そもそも、この場所に今、独立派が居るかどうかすらわからない。


諦念が心を支配し始めた、その時だった。


複数の足音が、路地の両側から同時に近づいてきた。そして、入り口が、武装した治安維持部隊の隊員たちによって塞がれた。彼らが監視していないはずはなかったのだ。


「佐藤ユウトだな。テロ行為の容疑で逮捕する。抵抗するな!」


甲高いハウリング音。拡声器で投降を促す割れた声と共に、複数の銃口がユウトに向けられる。


隊長らしき男が、嘲るように言った。 「貴様がこの街に入った時から、我々はお前の動きを監視していた。独立派のネズミどもをおびき出す、良い餌になると思ってな。だが、来なかったようだな、連中は。まあいい、大人しくするんだな」


逃げ場はない。ユウトの背中は、冷たいコンテナの壁に押し付けられていた。周囲を見渡すが、完全な包囲網だ。全身の力が抜け、膝が震える。ここまでか。ユウトは、壁に背を預けたままズルズルと座り込み、観念して目を閉じた。もはや抵抗する気力さえ、残っていなかった。


その瞬間だった。


路地裏に面した建物の屋上から、閃光と共に乾いた銃声が響き渡った。治安維持部隊の隊員が、次々と悲鳴を上げて倒れていく。完全な奇襲だった。

混乱の中、ユウトの腕を掴む者がいた。

「こっちだ! 走れ!」

見上げると、腕に鷲の紋章をつけた男が、彼を路地の奥へと引きずっていく。背後では、激しい銃撃戦が始まっていた。


狩られる者と、狩る者。そして、それをさらに狩る者。三者の思惑が、今、この暗い路地裏で交差した。

男に腕を引かれ、ユウトはもつれる足を必死に動かした。開け放たれたマンホールへと飛び込み、地下水道の冷たい闇の中へと姿を消す。地上から聞こえてくる銃声が、徐々に遠ざかっていった。


どれくらい歩いただろうか。湿ったコンクリートと黴の匂いが立ち込める地下の一室で、ユウトは息も絶え絶に壁に寄りかかった。助けてくれた男たちの一人が、ランプに火を灯す。

「……助かった。でも、どうして俺だと? あの印は、罠じゃなかったのか?」

ユウトが、か細い声で尋ねると、若い隊員が呆れたように答えた。


「罠に決まってるだろ、あんなもん。あんた、本気で信じてたのか?」

「え……?」

「その通りだ」

部屋の奥の暗がりから現れた、厳しい顔つきの男が、隊員の言葉を引き継いだ。手配書で何度も見た顔。飯田熊治その人だった。


「あの都市伝説は、俺たちが流した噂でもあるし、治安維持部隊が逆利用する罠でもある。通常なら、印や印をつけた人間を『餌』に、敵の動きを探る。スパイか本物かどうかを見分ける、試験もする。だが、お前は違った」

飯田は、ユウトの前に立つと、その心の奥底まで見透かすような目で言った。


「国中が顔を知る最重要指名手配犯だ。お前が奴らのスパイである可能性はゼロだ。そして、お前は既に監視されていた。我々にとって、お前はただの仲間候補じゃない。政府の陰謀を覆す可能性を持つ、唯一無二の『生きた証拠』だ。奴らとの銃撃戦という危険を冒してでも、お前を助ける価値があった」


ユウトは、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。ただ、自分がもはや、ただのしがない中年男ではないことだけを、悟っていた。

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