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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
21/42

高槻街道を高槻まで

緑が茂っているのが見えて、神社があるのは分かったけれど、あとちょっとというところで川沿いの道が途切れてしまった。

少し遠回りして、また川沿いに戻って行った。少し前の時代の新興住宅地らしく、感心するくらい家々が建ち並んでいた。地名は登美の里町だった。

バス通りに出て、橋を渡ったところが五百住よすみ神社だった。元は大きな神社だったのだろうと思われた。川も境内を流れていたのじゃないのかな。けれど今では水路みたいな川の西側の、すっきりした神社になっていた。潔く、時代が時代だからなって、現代を受け入れているように見えた。

階段を少し上ったところにあって、レトロな時計台が目立っていた。八坂神社と春日神社が一緒になった神社らしいけれど詳細は不詳。

川の東側も特別な感じのするところで、気になりつつもスルーしたのだけれど、そこには利井常見寺があったようだった。源氏の出の利井かがいなる人の創建らしい。親鸞の教えを受けた人らしいから鎌倉時代。

近くには如是保育園があって、地名が如是らしく、利井常見寺の住職だった人が名付けたそうだ。近くには女瀬にょぜ川(芥川の支流)が流れていて、それに如是にょぜをあてたみたい。


神社の前のバス通りを東に向かっていった。かつては賑わっていたのじゃないかなという感じの通りだった。途中、バス停を過ぎたあたりに右手からちょっと古そうな道が合流してきて、これが高槻街道だった。

ここを左折して、ここからは高槻街道を歩いた。すぐに道が上り坂になり、如是川の堤だった。

目の前、川の向こうにはなんだかちょっと派手な寺(明然寺)が見えた。女瀬川を渡って右折して、土手を東へ向かっていった。

左手に善照寺。ブルーシートがかけられていた。墓地もあった。でもその周りは住宅だらけ。

交差する132号を渡った。信号がないので気を付けて(横断歩道もないから、本当は遠くにある信号で渡らないといけないのかな)。しばし土手を進んでいくと、左手に下りの細い急な階段が現れた。ここを下っていって、つきあたりを右折。水路沿いを東に向かっていった。

和菓子屋幸春(リニューアル済)なんてところがあった。江戸時代からのあん巻が名物らしい。古いものと新しいものがもうごちゃごちゃになっているところだなあ。ボロボロのアパートとかもあった。

右手には緑が茂っているのが見えたけれど、津之江公園だったのかな? 津之江公園は、女瀬川が芥川に注ぐあたりの公園。

気づかなかったけれど左手の方には筑紫津神社があったみたい。さらに行くと津之江小学校と、その隣には歩人山ぶにやま稲荷神社が。

ブニヤマ稲荷神社には「アジャリの杜」があって、石塚が集まっているんだって。アジャリは「アジハリ」がなまったといわれているそうだ。河内の豪族に大河内直おおいこうちのあたえ味張(アジハリ)という人がいて、その人に縁の土地だったと思われるのだって。

味張(別名クロヒ)は27代安閑天皇(継体天皇の息子)の時代の人で、皇后の田んぼにするために土地を差し出せと天皇(のおつきの大伴金村)に言われたんだけれど、たいしていい田んぼじゃないですよと嘘をついて差し出さずにいて、ばれちゃったんだって。

それで許しを請うのに農民を500人、春と秋とに働きに行かせることにしたそうだ。その500人の人々が住んだのが「五百住」とかいわれているのだって。

味張は当時の郡司で、(三島の)県主だったのが三嶋県主飯粒いいぼ。飯粒も同じように土地を差し出すように言われて、最初から喜んで差し出したんだって。この一件があって、郡司と県主という役職も交代になったらしい。

ブニヤマの由来も気になったけれど、分からなかった。

筑紫津神社あたりはかつて「筑紫津」と呼ばれていたんだとか。由来は不詳のようだったけれど、津があって、大きな農地もあったところなのかな。

三島で最初に稲作が行われたという安満(この北東)や、継体天皇の墓だろうとされている今城塚古墳(この北西)も遠くはなくて、このあたり一帯も気になるところだなあ。


道は132号線に出て、芥川を渡った。

芥川は南の淀川に向かって流れ、淀川の向こうは光善寺、さだ、伊加賀のあたり。

一気に北に山が近くなっていた。けれど建物でよく見えなかった。大きなビルも見えたから、高槻市の中心がそちら方面なのだろうな。

右手の急な下り坂の下に大きな石碑がぽつんと立っているところがあった。周りは住宅地になっているのだけれど、石碑だけが取り残されていた。ここに下って行った。

芥川沿いにもう一本小さな川(新川)があって、そこが「芥川緑道」として整備されているようだった。歩きたくなる素敵な道だったけれど、緑道は南に向かい、高槻街道は東に向かうので、残念ながらスルー。

このあたりで、すごいオンボロなんだけれど現役っぽいアパートを見た。自転車が止まっていたり、新しい消火器が設置されていたりして現役だと知れたけれど、そうでなければ廃アパートと思うところだった。

この日、かなり古そうなアパートなどをいくつか見た。赤大路踏切近くのアパート以外は現役のようで、耐用年数が長く設定されている地域なんだなあと思った。

道なりに東に進んでいって、132号線の信号に達する前に現れる右手の道に進んでいった。古い時代の商店街だった感じの道だった。

広い道に合流して、この道を東進。すぐの信号で左折して、広い16号線を北上。すぐの高西交差点で右折。かくかく進むのは、もう旧道が残っていなくて、今ある道をつないで歩くしかないからだな。

高西交差点の少し北にパン屋を見つけて、ここでパンをゲットしてから交差点を東に向かった。

左手に白っぽくカラー舗装された道路が現れた。


なんだろうと行ってみると、城跡公園だった。高槻城だった跡地らしい。

今の地図と、城があった時代の地図とが並べて掲示されていて、それで見ると、本丸があったところなどは学校になっているようで、公園は城跡のほんの一部のようだった。廃城になり、昭和の時代になってから、それらしく再現されたみたい。

ここでしばし休憩。

城跡公園の児童公園を奥に行くと、学校(第一中学)との間に車止めされているところがあって、ここを進むと地蔵がいて、その次には鳥居が見えた。

八幡大神宮(犬NG)だった。村の神社だった感のある、見知らぬ人間でもお邪魔させてもらえるのが素敵に思えるところだった。詳細は不詳。宇佐八幡を男山に勧請(石清水八幡宮)したとき、その神輿をここの人がかついだことが縁で八幡を祀ったと伝わるそうだ。

神社のそばにも白っぽくカラー舗装された道があって、北に歩いていった。左手に大きな旧家があって、「東大手門跡」とあった。

高槻城の最も重要な表玄関的な門で、参勤交代の時もここから出て、武家屋敷などの並ぶ松林の道を北上し、西国街道を進んで行ったのだって。

野見神社の案内が出ていて、野見宿禰のみのすくねの野見かも、と矢印の方向に向かっていった。野見宿禰は11代垂仁天皇の時、力自慢と相撲をとるために出雲から呼ばれてきた人で、天皇に埴輪を進言し、土師氏の祖となった人。菅原道真とかもこの人の子孫。

「しろあと歴史館」と公民館があって、野見神社が現れた。かつては高槻城の中にあって、歴代城主の信仰も厚かったのだって。

歴代城主は有名どころでは和田惟政や高山右近。

和田惟政これまさは甲賀の人で、元々高槻城にいた入江氏を滅ぼした織田信長から高槻城を与えられたらしい。入江氏を滅ぼすのに、当時芥川山城にいた惟政さんが活躍したのだって。後に白井河原の戦いで荒木村重と戦い、敗死。

その後、高山右近が城主に。高山右近はキリシタンで寺社嫌いだったから、野見神社も壊されてしまったみたい。高山右近の頃、領内にあったらしい教会堂は、野見神社を壊した跡地に建てたと思われるのだって。

江戸時代には一つの国に一つのお城(一国一城)ということになって、それまで3000くらいあった城が170くらいに減らされたそうだ。摂津国で残されたのは高槻城。

新しく城主になった松平さんが神社を再建。けれど野見神社ではなかったみたい。平安時代の頃からずっと牛頭天王社だったそうだ。後に野見宿禰を祀り、名前も野身神社と変えたそうだ。このあたりに式内社の野身神社があったらしくて、名乗りをあげたみたい。

高槻城には後には譜代大名の永井さんが入り、高槻は城下町として栄えたのだって。大阪城も摂津国にあったと思うのだけれど、大阪城は別格だったのかな。

けれど明治になって廃藩置県の一環で廃城令が出て、高槻城も廃城となってしまった。

藩が廃止されて、それまで藩庁として使われていた城は一部は軍用施設などとして残されたけれど、多くが取り壊されることになったのだって。

廃城となった城や陣屋の跡地は、陸軍用地とか学校とかに転用されたそうだ。それでこの周辺にも学校が多いのかな。


参道の左側(南)が、大規模な工事中だった。教育施設になるんだとか(芸術文化劇場)。

北には高槻市駅(阪急京都線)と高槻駅(JR京都線)が案内されていた。そちらには進まず、道を引き返して、八幡大神宮から北に伸びる白い道の続きを北上。つきあたったら一本東側の道へ。ここが高槻街道だった。

古い町屋などがあり、道標があった。「右 京 山崎」とかあって、その後ろにあるのが円成寺。寺前を右折して東へ。また「左 京」とある道標があって、ここを左折して北上していった。

沢良木町交差点があって、茨木の沢良宜と関係あるかと思えたけれど、よく分からなかった。次に八丁畷交差点。ここで歩道橋を渡ったのだけれど、歩道橋に敷き詰められたレンガか何かが割れまくっていて、歩くと足元でカラカラ音が鳴った。スリルがあった。

阪急の高架の下を通って、広くなった道を北上。学生と車通りの多いところだったけれど、左側が大阪医大だったみたい。

この先、JRを越えたところで西国街道に達して、ここまでが高槻街道のようだった。

JR高槻駅すぐのこの場所は、車通りは多く、道は広く、大きな建造物がど~んと迫ってきて、頭の中がくるくるした。JRの向こうはまた西国街道歩きのときに・・・ってことにして左折。

今日のところは帰ることにして、JR高槻駅へ向かった。

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