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大阪を歩く犬5  作者: ぽちでわん
20/42

高槻街道と普門寺

そして高槻街道の続きを歩きに行った。普門寺あたりまで歩いた高槻街道の続きを歩こうと、向かったのはJR総持寺駅。

10月も後半に入って、日向は暑く、日陰は寒いという日だった。秋って、ヒトは着るものは少々悩むようだけれど、それでもやっぱり散歩にはいいなあ。久々に500mlの水がじゃっかん余ったくらいだった。

JR総持寺駅は新しい無人駅だった。完成したのがこの年だったみたい。

南口から出て、前にやって来た時と同じように駐輪場のほうへ左折していった。広い通り(126号線)に出ると、以前は右折していったけれど、今回は直進していった(信号がないので、信号まで遠回りして)。

茨木病院があって、その手前の道には「総持寺参道」とあった。ここを行ってもよかったのだけれど、新しい道に見えたので、そちらには行かず、病院の裏の道へ右折していった。この道をしばらく東に向かうつもり。東に普門寺があった。

すぐが総持寺(裏手)で、びっくりした。周りには大きな旧家がずらりと並んでいた。ブルーシートもところどころで見た。

ここは前にやって来たことのある、光明寺や八幡神社のある筋だった。前に違う方向からやって来た時ほどの雰囲気は感じなかったけれど、やっぱり細い道がいりくんで、面白いところだった。

うろうろしていたら、竹林の中の細い一本道や、古いままの水路のある古い(!)通りなんかもあった。

地名は総持寺。大森さんとか太田さんとか、「おお」のつく名前が多いような気がした。

総持寺公園があって、土のうステーションがあった。いざという時、自由にお使いくださいだって。

この日歩いたあたりは、ずいぶん上ったり下ったりが多かったけれど、ここ総持寺は高台あたりかな。少し南あたりなど、急激に下る段差があった。

農家風の旧家もあった。いろんな時代のいろんな建物があって、面白いところだった。

高級文化以和貴苑なんていう文化アパートも、いい味を出していた。散歩していて、ときどき見かけるタイプ。奥に長い2棟が向き合って建っていたりして、その間の狭い通路にはちょっとした庭なんかがあり、外階段がいっぱい見えている。もう古いけれど、今でも現役。

その出入り口には、○○苑なんて石に彫られていたりする。地元を散歩をしていても時々見かける○○苑って書かれた石とかは、建物は残っていないけれど、元はアパートとか長屋とかの入り口だったと分かるようになってきた。


踏切を越えて、ここは阪急京都線だった。このあたりで茨木から高槻市に入ったみたい。

踏切の名前は赤大路踏切。この北に赤大路というところがあって、そこからきたのかな。

昔、菅原道真が左遷されていくのを追いかけてきた側室がいて、臨月だったその人がここで産気づいたんだって。流血して亡くなってしまったみたいで、道が血に赤く染まり、それで赤大路。子安天満宮もつくられたそうだ。

右手には、もうボロボロになりすぎたアパートがあり、ロープがはられていた。そのうち取り壊されるのだろうこのアパート沿いに右折して、南下。東への道が途切れるので、ちょっと回り道。

ここをそのまま下っていけば、すぐ前回行った慶瑞禅寺だったみたい。昭和台ってすっかり新興住宅地で、まったく寺の気配もなくて気がつかなかった。

信号を左折。富田小学校にいきあたって、右折。ブロック塀危険と書かれ、ロープがはられていた。小学校沿いに進むと133号線に出て、三輪神社や普門寺(高槻街道)はこのすぐ東だった。

けれど小学校の南側を133号線に向かって進んでいるとき、急な下り坂になっている右手(南)、下の方に、細い水路にかかった小さな橋が見えていて、ついここを下っていった。水路沿いに進んでいくと、こんなところまで今や住宅密集地。かつてはほぼ田んぼだっただろうのに。

大宅さんなる大きな旧家なんかもあった。大宅おおや壮一という有名なノンフィクション作家が富田の人らしいけれど、関係あるのかな?

133号線に出て、その先にもまだ水路沿いの道が続いていたのだけれど、途中で途切れてしまった。右折して、132号線に出た。この細いけれど車通りの多い車道を東に向かい、すぐの信号を左折。

北への上り道が始まり、地名は富田町。ここが高槻街道で、ここを上っていけば行けば三輪神社や普門寺だった。

前回、道を間違えて、広い133号線を北上していったから、この高槻街道はまだ歩いていなかった。

今回こそ歩くはずが、高槻街道に至る前に左折して、一本西側の道で北上。今回は間違えたのじゃなくて、面白そうな道で、つい左折してしまった。大きな旧家がいっぱいだった。

それから本来の高槻街道に。


三輪神社に向かって丘を登っていった。途中、右手に面白そうな道が伸びていて、またもつい右折して入っていった。

緩い上りになっていた。むか~し、狭いところを荷を積んだ馬が通った、そんな雰囲気の道で、素敵だった。

奥まで進むと、説明書きがあった。どうやらここは富田のウォーキングコース「町屋・酒造コース」になっているらしかった。ここから三輪神社あたりにかけて、リュック姿のおじいさんとか、ウォーキングコースを回っているらしき人を見かけた。

説明によると、富田ははじめ、寺内町として発展したところだそうだ。

教行寺(このすぐ近くにあったようなのに行っていない)や本照寺(この後で行った)を中心にして栄えたのだって。蓮如の父が本照寺(富田御坊)を開き、蓮如が教行寺(富田道場)を開き、本願寺の摂津での一大拠点が富田だったそうだ。

富田寺内町を形成して栄えていたのだけれど、細川晴元、それから織田信長の兵火により荒廃。江戸時代に再興。

富田は江戸時代には、酒造の町としても栄えたんだそうだ。おいしい米、おいしい水もあって、酒造りに適した土地柄だったのだって。

江戸の初めの最盛期には造り酒屋が24軒もあったそうだ。その後、伊丹や灘のお酒が人気になって、縮小。けれど今も残っている酒屋もあるらしく(2軒かな?)、説明書きのそばにも古い趣のある酒屋があった。

この雰囲気のある道を引き返していった。途中、三輪神社への道標が現れたけれど、元の道(高槻街道)まで戻って北上。ずっと家々の続く坂道だったけれど、ぽっかりとした空間に出て、古い大きな石碑がたっていた。

その奥が三輪神社と普門寺だった。丘の上にあって、どれだけ見晴らしがいいだろうと思うけれど、残念ながら建物やらが多すぎて見晴らせず。

このあたりでは上下さんの旧家が多かった。


三輪神社はお酒の神様を祭る神社だそうだ。造り酒屋の町、富田の神様ね。元はオオナムチを祭っていたと思われるけれど、詳細は不明。江戸時代になって、普門寺に入った和尚が荒廃していたのを再興したんだそうだ。

三輪神社の東側の道を北に向かって、今度は道を下っていった。途中、出世地蔵がいて、「高槻まちかど遺産」として説明が書かれてあった。明治時代の神仏分離政策で、それまでは神社にもいたお地蔵さんたちが神社の外にやられてしまった。それを安置したものだそうだ。

寺や神社だけじゃなく、お地蔵さんにもそういうことがあったんだな。安置した後、何度も転んだけれど、10年たつと転ばなくなったのだって。これは修行して阿闍梨(高僧)になったんだろうってことで「出世地蔵」。仏の世界で偉くなることも「出世」というみたい。

この地蔵のいるところを右折。すぐに本照寺が現れた。室町時代、寺内町として栄えた富田の拠点の1つ、富田御坊ね。

このあたりの代官だった日野さん(日野富子の一族)の関係で、蓮如の父はここに寺を建てたそうだ。

蓮如が創建した教行寺は、それまでいた京都の本願寺を比叡山に焼かれてしまった蓮如に、まだ勢力のあった細川さんが土地を与えたのだって。

右左もお寺だったけれど、本照寺はひときわ目立つ存在感だった。

門のところには入り口からロープで封鎖されていて、別の入り口から入るようにと書かれてあった。地震や台風の影響かな。

江戸時代に再興された後でかな、本照寺は被差別階級の人々の本山的な寺となっていたそうだ。被差別部落の寺をまとめる役目を与えられたからみたい。

よく分からないけれど、人はみんな、どこかのお寺に属さなければならなかったそうだ。その檀家帳が戸籍みたいな働きをしていたみたい。たとえば村を出て引っ越したければ、引っ越し先のお寺の檀家帳に載せてもらう必要があったのだって。

そして被差別民の人たちは、被差別民の寺、通称えた寺にしか属せなかった。そのえた寺をまとめるように任じられたのが本照寺。けれど本照寺はえた寺ではなかったので、被差別民の人たちは本照寺に参ることはできなかったそうだ。

東となりの眞薬寺なるお寺の前を進んでいくと道路につきあたって、料亭きんなべの看板が目立っていた。このあたりの古いおうちの1つが料亭として使われているのかな?

もう少し南の道で一本東側の道に行き、北上するのが高槻街道だった。けれど気になった北に向かっていった。本照寺の東門前を通り、ここにもロープがはられ、塀にはひびが入っていた。


その先が筒井池公園だった。

古そうなところだったけれど、もうすっかり町になってきていて、若いお母さんたちと子どもたちがいっぱいいた。

公園の端を川が流れていた。北にはおしゃれな住宅街の中、富田駅(阪急京都線)のほうに向かうみたい。

川沿いを南に進んでいくと、本照寺東門を過ぎたあたりで東に向かい、そこには遊歩道があった。ここに進んでいってみた。

池があって、比較的自然のままの感じの池の周遊部を歩けるようになっていた(犬はNG)。けれどここもロープがはられて、立ち入り禁止。

池は筒井池で、昭和の時代まではもっと北にひろがっていたらしく、筒井池公園あたりまで続いていたのかな? 普門寺城の時代には、筒井池はお城の濠の一部だったそうだ。

遊歩道はすぐ終わり、すぐ北側の広めの道路を渡って北上していった。ここが高槻街道。じぐざぐの上り道で、ここにまた「高槻市まちかど遺産」が現れた。

「紅屋屋敷跡」だって。酒造の清水家(屋号は紅屋)の屋敷があったところらしい。その範囲は広く、筒井池も屋敷の庭にあったそうだ。だから筒井池は、別称紅屋池というらしい。

富田の造り酒屋の中でも最も栄えて有名だったのが紅屋で、江戸時代の終わりまで酒造を営んでいたそうだ。他には布屋などがあったのだって。

屋敷跡も丘だったところのようだった。静かな住宅街だった。ぎっしり住宅が建っているのに。

つきあたりのようなところ(すぐ左手に交差点が見えている、赤い旧いポストの立っているところ)で右折。しばらくは旧家が続いたけれど、途中からはすっかりリニューアルされた感じになってきた。丘の上には旧家もあったけれど、川のそばの低地はみんな田んぼだったところで、それが昭和の時代にどんどん住宅地になっていったのかなって感じがした。

水路と交差した。ここは本当は水路じゃなくて日野川だった。

このまま進み、もう少し東の五百住よすみ小学校の西側の道を北上するつもりだった。けれど、このただの住宅地は面白みがなくて、水路みたいな日野川沿いを北上していくことにした。川沿いにある五百住神社に行くつもりだったので。

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