高槻街道を富田まで
そして次には、高槻街道を歩いてみることにした。
高槻には三嶋鴨神社があるらしくて、行ってみたいと思った。「鴨神社」って、興味があった。
ただ、高槻街道の道順を調べてから分かったことには、高槻街道では三嶋鴨神社は通らない・・・。でもせっかく調べたし、三嶋鴨神社はまたの機会にして、高槻街道を歩いてみようと思った。
出発はJR千里丘駅(京都線)から。
高槻街道は亀岡街道から西国街道へと通じる脇道らしくて、スタート地点は亀岡街道の宇野辺。千里丘駅から宇野辺に向かい、そこから高槻街道を歩くことにした。
千里丘駅は改札が2階にあって、2階の窓からはずうっと遠くまで見えていた。茨木の方向で、なんて広い平野だろう。三嶋溝杭って人かだれかがここに水田をつくったのも、わかる気がした。
西口から出て、右、セブンイレブンの方向へ。府道14号大阪高槻京都線に出ると、ここを北上していった。
左は吹田市、右は摂津市っていう境目を歩き、しばらくすると茨木市に入っていた。
千里丘上交差点を過ぎると、見覚えのあるポケットパークや、名糖前バス停。典礼会館のある信号で、左手の道に入っていった。ここが宇野辺。農村だった時代を残しているような、ちょっとおしゃれな感じもある元村落に残る亀岡街道だった。
おもしろいところで、他の道も散策していたら光福寺があって、小さな石仏が3体並んでいた。
三条川が流れていて、あいかわらず素敵な村落の名残を残していたけれど、その裏には大きなマンションが建っていたりした。中さんとか、中〇さんとか、中のつく苗字の多いところに思えた。
亀岡街道はこのまま北に向かうけれど、高槻街道は北東に向かっていく。
墓地の手前で右折して、とりあえず東へ。
すぐの宇野辺交差点で14号線を横切り、JRの高架の下を通り、JR貨物線の下を通り、しもあさかわ橋で川を渡った。
左手には東洋製缶の大きな工場があり、右手も工場(神戸製鋼所)で、たんぼだったところにまずは工場がやって来たのかな。川には遊歩道もあって、素敵な川だったのだろうなあと思われた。
大正川で、山田川の東を南に流れて、安威川に注ぐみたい。宇野辺の三条川は大正川の支流で、沢良宜と蔵垣内の間の天王ってあたりで大正川に合流する。
川を渡ると、住宅街だった。大きな車がひっきりなしに通る。次の奈良交差点では上を高速(近畿自動車道)が走っていた。ここを右(南)に行けば、南茨木、沢良宜経由で大日だって。
北に約1kmで茨木駅で、東は東奈良、西には宇野辺、南西には蔵垣内というあたり。大日もそう遠くないということは、弥生時代の玉作工房跡が見つかっているというあたり(守口の八雲あたり)もそう遠くはないんだな、と思った。
奈良交差点の信号で中環を渡ると、道は北に向かった。地名は奈良町だった。
右手には古い立派な旧家が見えていた。左手の旧家は壊れかけで、どうやらセキスイが買い取り、ここに新築のおうちが何軒か建つらしかった。跡形もなく旧家は取り壊されるのだろうな。
そして左手に鳥居が現れた。でも神社の姿はない。説明板があって、神社への行き方が案内されていた。
案内に従って進んでいってみると、中環(上には近畿自動車道と大阪モノレール)の向こうに参道が続いているものの、中環のこの部分には信号がなく、けっこう大回りして信号を渡った上で参拝しないといけないようだった。昭和の時代、日本の発展のため英断をして、境内地を寄付したみたいなことが書かれていた。
遠回りはいやだな、と神社には行かなかったのだけれど、奈良春日神社で、茨木にある9つの春日神社の1つだった。大正川沿いにあって、そばには池もあるようだった。
平安時代、子どものなかなかできなかった人が、実家のある奈良の春日神社にお参りしたら無事元気な男の子を出産したそうだ。春日神社を嫁ぎ先近くのここに勧請し、地名も奈良に改めたのだって。
元の道を北上していき、岩永歯科の案内が出ているところで右折。つきあたりを左折して北上していくのだけれど、その前に南の一帯が気になって、ちょっと散策してみた。水路があって、旧家があった。さっ、見えていた立派な旧家だ。牛乳受けは春日牧場。
水路に水は流れていなかったけれど、このあたりが村の中心地で、周辺はたんぼだったのじゃないかなって感じがした。
北上して道なりに進み、中条小学校の東側を進んでいった。このあたりでは水路は暗渠になっているようだった。小学校の壁には「きけん ちかよってはいけません」と書かれていた。
旧家もある道を北上していくと中条公民館があって、隣は公園になっていた。ここは神社跡だそうだ。
明治時代に神社を減らそうってことになって、多くの神社が姿を消したけれど、その跡に公民館ができるのがパターンだったのだろうな。昔は神社が公民館みたいな働きをしていたみたいで、そんな神社がなくなったら、代わりに公民館をつくるのが理にかなっている。
公民館の手前を右折。ここも暗渠になっている水路があった。暗渠というか、もう埋めたてられているのかもしれない。道はカーブしていき、広い通りに向かっていった。「市・消防本部前」交差点があって、交差するのは東西通りと、南北に走る桜通り。桜通りは元茨木川緑地のある道で、ここを北の高橋交差点まで進んでいった。
何度目かの高橋交差点は、JR茨木駅(京都線)の東に数百メートルってあたり。
ここでは桜通りは川端通りに名前を変えていた。そして高橋交差点の角にある、前にやって来た時には広いけれど暗かったスペースは工事中で、カフェなんかが入るらしかった。
ここで交差する東西の中央通りを東の阪急茨木市駅(京都線)方面に向かっていった。
茨木神社前を通り、この先はまだ行ったことがなかった。前にこの近辺を散歩したとき、茨木市駅方面が賑やかだったから、茨木市駅界隈は茨木駅界隈より都会なのかと思っていた。けれど茨木市駅に近づいていっても、特に変わりはなかった。
茨木別院の手前で左折。茨木別院は東本願寺の別院で、教如(蓮如の子孫)が開いたそうだ。当時茨木城城主だった片桐且元なる殿が城内に建立したのだって。
今まであまり分からずに書いてきたけれど、「蓮如が創建」とか「教如が開いた」とかいうのは、彼らのために誰かが坊を建立して、そこに彼らが入った、みたいなことなのかな。
片桐且元は長く豊臣家に仕え、けれど徳川家康ともつながり、大阪の陣の前には大阪城を出て家康に協力。敗色一色のかつての仲間(豊臣側)が助けを乞い、居場所を知らせてきたそうだ。それを家康の息子に伝え、大阪側は完敗。大阪城は焼け落ち、秀頼と淀君は自害した。
且元さんはそれから間もなく病死したそうだ。
さっきから見えていた商店街のほうに歩いて行った。東西に長い商店街は北にも続いていて、北に進んでいった。
旧名の碑があって、ここは材木町だったところ。北は魚屋町、南は米屋町と西大抜町だって。「高槻街道・茨木街道」とあって、茨木街道でもある道なんだな。
古くからある感じのパン屋さん(リンデン)があって、ここでパンをゲット。パン屋の向かいには広い駐輪場があって、ここがすごいにぎわいだった。元気そうなおじさん、おばさんたちが、自転車でやって来たり、帰って行ったり、ひっきりなしに出入りしていた。前に見た「茨木市駅方面の賑わい」は、駅ではなくここだったのかも。
ショッピングプラザNo.一番なるレトロなショッピングセンターがあり、「本町ROSE街」とある商店街の入り口の看板があった。
このこてこて感といい、駐輪場があるところ、にぎわっているところ、商店街が元はもっとあちこちに交差していただろうところが千林の商店街を思い出させた。千林は今も交差しまくっているけれど。
入り口看板を右折。ここがかつては賑わっていたのだろうなっていう、独特な感じのところだった。道の感じといい、城下町の入り口だったとか、宿場だったとか、そんな感じだった。
小さくて趣のある水路の向こうに信号が現れて、交差するのが15号線。目の前にはパン屋があって、にぎわっていたので、思わずここでもゲット。おしゃれな感じのパン屋さんだったけれど、リーズナブルだった。
すぐに阪急の線路だった。
茨木街道は直進。高槻街道はここ(線路手前のコンビニ前)を左折。このあたりはすっかり新しくなっていて、面白くない道だった。
広い道に合流する前、右手には緑が見えて、牟禮神社だ。前に行ったワイルドなところ。
そして合流直前、左手に古そうなところが見えて行ってみた。児童公園があって、その奥が素盞嗚尊神社だった。通称戸伏神社(犬NG)だって。光照寺もあった。
旧家も多かった。道はいりくんでいて、小規模だけれど面白いところだった。そして街道に戻り、安威川を渡るべく土手へ。前は草ぼうぼうだった牟禮神社方面への土手の草が刈られていて、そこを行ってみたけど、やっぱり電車に阻まれて行き止まり。
安威川を千歳橋で越えた。
そのまま府道132号高槻茨木線を東へ。地名は庄だった。もうすっかり旧街道は失われているようだった。そこで少し南を歩いて、前に近くを歩いたものの気づかずにスルーしていた橋の内近くの須賀神社に寄りつつ東に進んでいくことにした。
阪急京都線を過ぎて最初の信号の奥には墓地があって、その向こうはUR。その手前を左折すると橋の内北公園だった。ここで休憩してパンをいただいた。柿ピーの柿の種が落ちているのかと思ったら、どんぐりだった。いろんなどんぐりを散歩していて見てきたけれど、こんな細長いのは初めてだった。
公園は南に緑道みたいになって続いていて、そこを進んでいった。その先も公園(犬NG)で、手前を左折。この向こう(南)は安威川の土手のようだった。
道路の右側には農業用水路が流れていた。旧家があり、木々が茂り、けれど、すっかり住宅地。右手(南)が古そうな感じだった。それから右手に東小学校が現れて、その向かいに鳥居と参道。
ここが鮎川(安威川が変化して鮎川になったといわれる)の須賀神社(犬NG)だった。参道を進むと小さな橋があって、小川を渡るようになっていた。さっきの農業用水路が二つに分かれて、そのうちの片方がこの下を通る。
神社について詳細は不詳らしい。けれど小川の感じから言って、古くは水稲栽培に関わる水の神様だったのかな、という感じがした。
境内の灯篭の上半分がなくて驚いた。後ろに落ちていた。地震で下に転がって、そのままなのかな。
楠も上半分がなかった。これは地震や台風の前からみたい。樹齢千年近い、茨木で一番大きな木だったけれど、枯れてしまって幹だけ残っているのだって。
コンコン大工仕事の音がしていて、木材も置かれ、補修の真っただ中のようだった。
神社の西側の道を北上していくと、総持寺キリスト教会があって、右手には柳川公園。若いお母さんたちが小さい子どもを遊ばせていた。新興住宅も多いのだな。
本来の高槻街道(132号線)に戻ろうと、直進すればいいだけだったのに、方向が分からなくなっていて左折。そうしたら、ここがぜ~んぶURの建物で驚いた。延々と同じような建物が続くのだけれど、全部で50棟ほどもあるらしかった。
広々と、整然と並んで、1つの町みたいになっていて、中に郵便局やスーパーもある。犬NGとあちこちに書かれてた。わたしは須賀神社からずっとバッグに入って荷物と化していた。総持寺団地だって。元は一体なにがあったところなんだろう?? 昭和30年代に建ったらしくて、それなら田んぼだったとかなのかな?
途中、右折して北上したら公道(132号線)に出て、昭和ろ~ど商店街の入り口だった。132号線が商店街になっていた。北側にはなんだかあやしい店があった。それをいうなら、昭和ろ~ど商店街自体もちょっとあやしい。昭和ってどこか淫靡で、その感じがいまだに残っている一帯なのかな。
途中、慶瑞禅寺の案内が現れて、行ってみた。思いのほか大きなお寺が現れた。黄檗宗だって。
少し丘になっていたんじゃないかってところで、かつては田舎の田んぼの中の高台にあるお寺だったのかも。今は昭和台町なんていう、少し古い時代の新興住宅地なのだろう住宅密集地の中にあった。
持統天皇の時、道昭が創建したと伝わるそうだ。近くの有名な総持寺より古い。
道昭は三蔵法師の愛弟子で、弟子には行基がいる。行基が土木工事などを民のために行ったのは師匠、道昭の影響だとも言われていて、道昭は土木工事に長けていた船氏の出。百済の王の家系の渡来人で、羽曳野の野中寺にも関わっているのじゃないかとされる人々ね。
今まで散歩してきた中で、道昭創建と伝わるお寺は3つ目だった。
1つは長柄の国分寺(元は長柄寺)。ここは難波に都があった頃の亡き天皇(孝徳天皇)のために建てたお寺。斉明天皇(天武天皇の母)の頃だそうだ。1つは天武天皇の時、勅令で建てられたっていう往生院で、熊野(紀州)街道の途中にあった、泉南市のお寺。当時の南海道にあたるあたりだった。
順番から言うと長柄寺、往生院、慶瑞寺。
お寺から132号線に戻ってさらに南に少し行ってみると、さっきの総持寺団地の北端部だった。団地を囲んで川が流れていて、木々が自然な感じに茂っていて、素敵だった。
132号線を東に向かい、北摂総合病院の旧館を過ぎると右手に分岐する道に進んでいった。今度は新館があって、新館も過ぎてつきあたりを左に行けばよかった(三輪神社にたどりつく)みたい。けれど間違って新館の手前で左折して、広い府道133号鳥飼八丁富田線を北上していった。高台に向かう広い坂道。
左手に富田小学校が現れた。慶瑞禅寺あたりから高槻市に入っていたみたいで、ここは富田。
三嶋溝杭の頃、ここはどんなところだったんだろうと思わされる高台だった。このあたりに立って、あたりを見晴らしていたことだろうなあ。
それから三輪神社があるはずなんだけれど、と探して、東側に見つけた。
本当はここが高槻街道。近くには普門寺もあった。14代将軍の宣下式も行ったという寺なのだって。
足利義満の時に創建され、その後、荒廃して、城が建てられたそうだ。通称、普門寺城。細川晴元さんが隠居して住んでいたそうだ。
名門細川家の大物でありながら、下克上の世の中になって、家臣の三好長慶にやられてしまった人。ほぼ幽閉されるように普門寺城で過ごし、2年後、50歳の時、ここで死亡。
三好長慶さんの死後、代わって大物になった三好三人衆は将軍、足利義輝(30歳)を殺害。代わって足利義栄を14代将軍にまつりあげた。そのとき、ここ普門寺城で将軍宣下。
三好三人衆はその後、普門寺城にいたそうなのだけれど、この人たちもやられ、将軍も30そこそこで病死してしまったんだそうだ。そして15代将軍が、織田信長が擁した足利義昭ね。
将軍義栄さんが亡くなったところは不明で、ここ普門寺城だったかもしれないのだって。
そんなことがあったなんて知らずにいたら、静かでのどかなところだった。三輪神社も富田小学校も、普門寺城だったところなのだって。見晴らしがいいわけだな。
寺近くには本照寺境内にあったっていう旧富田小の門柱がたてられていて、そしてすぐそばにはアパートがあった。なんだかすごい歴史のあるところだな、でもすぐ横がアパートなんて、どういう扱い?と思いつつ、ひとまず帰ることにした。
最寄り駅は阪急富田駅(京都線)。
道も分からなくなっていたので、133号線を北上していくことにした。
まさにそこは丘で、富田小学校あたりを頂点として、また道は下っていった。
「人権」とか「水平」とか書かれた公共のセンターがあった。人権関係の建物だったのは明らかだった。
こんな素敵な場所に差別があったなんてな・・・。
阪急富田駅に行けば、JR摂津富田駅もすぐのようで、案内に従って多くの学生やサラリーマンにまじって摂津富田駅に向かい、JRで帰った。




