8:ちゃんと話しておくべきやった
最後に、田花がこんなことを尋ねる。
「藍児クンはよく同じ夢を見ていた、と言うことはありませんか? あるいは、何か印象に残る不思議な夢を見た、と言った話を聞いたことは?」
意外な問いだったのだろう、夫婦揃って目を瞬かせる。例の「金縛りに遭う女」の夢について両親が聞き及んでいないか、田花は確かめているのだ。
「いや、特にそんな話は聞いてへんなぁ。……あ、ただ、いっときしょっちゅう悪夢に魘されとった時期はあったみたいやけど」
「そう言えば、そんなことを言うてたわね。確か、最初は小学校の高学年くらいの時やったかしら。朝、起きて来たら、すごく蒼い顔をしとって……」
瀬戸少年を苛んでいた悪夢とは、どのような物なのか。その内容に関しては、両親も知らないと言う。
「何度か尋ねてみたんですが、教えてくれませんでした。中学校の三年生に上がる頃には、そんなことものうなったみたいですが」
「悪夢を見なくなったと、彼が言っていたのですか?」
「いえ、直接そう聞いたわけではないので、もしかしたらそのあとも続いていたのかも知れません。けれど、以前ほど怖がっている様子はなくなったと言いますか……」
まるで、その夢を受け入れたかのようだったと、育ての母は述懐した。瀬戸は自力で悪夢を克服したと言うことか。
興味深いエピソードだと、渋沢は感じた──が、それでも瀬戸の失踪との関連性を見出すことはできなかった。その悪夢の登場人物が榎園家の養女──あるいは彼女によく似た別の女性──だったとして、何故五年も経ってその姿を描いたのか。そして、どうして彼女に会いに行こうと考えたのか……その辺りの謎が解けない。むしろ、結び付けて考えようとすると、余計に混迷してしまいそうだ。
早々に思考を切り上げた彼は、代わりにインタビュアーの姿を盗み見る。
田花は右の親指と中指で髭を撫でながら、少しの間黙り込んでいた。
粗方話を聞き終えた後、三人は瀬戸の自室を見せてもらうことにした。瀬戸の父親は店番をしに向かった為、彼らには母親が立ち会ってくれる。
主が不在である為か、部屋の中はよく整理されていた。壁際の本棚には美術に関連する書籍の他、中学、高校の卒業アルバムや、スケッチブックが整然と背表紙を並べている。
壁にはポスターなどは貼られておらず、小洒落たデザインの丸時計が一つかけられているのみだった。様々な色の油絵の具を乗せたパレットをモチーフにした物で、二本の絵筆の形をした長針と短針が、休まず時を刻んでいる。
「あれも、榎園さんからいただいた物なんです」
渋沢の視線に気付いたらしく、瀬戸の母が教えてくれる。「下宿先には持って行かんかったんですね?」と尋ねると、
「運んでる間に壊れてしまったら嫌やからって……心配しすぎですよね」
彼女は可笑しそうに、控えめな笑みを湛えた。それほど大切に扱っていた、と言うことか。そして、両親もそのことを理解していたからこそ、持ち主のいない今も動き続けているのだ。
育ての親から許可は得ていたとは言え、勝手に物色するのはさすがに憚られた。渋沢たちは中にある物には手を触れず、室内にある物を観察するだけに留めた。
「あの……藍児は、大学でうまくやれていたんでしょうか? 昔からあまり友達の多い子ではなかったので、親としては心配で……」
オズオズと、戸口の傍らに立った瀬戸の母が尋ねて来る。どう答えるべきか、そもそも自分がそれに応じてよいものか渋沢はしばし迷った。──結局、その役目は田花に譲ることとなる。
「少なくとも、親しくしていた友人はおったようですよ。せやろ? 渋沢クン」
「はい」今度は迷わず首肯する。「何人か、彼の友達を知っています。みんな、藍児くんのことを心配していました」
「……そうですか。少し、安心しました。……あの子、気が弱いんかわかりませんけど、ちょっと内向的なところがあって……幼い頃は同世代の子と遊ぶよりも、一人でお人形さんで遊びをしたり、絵を描いたりしとることの方が、多かったくらいで」
想像に難くない。渋沢はそう思った。彼自身、瀬戸と会ったのは一度きりなのだが、確かに非常に中性的な雰囲気を帯びていたことを、記憶している。その際の、礼とのやり取りや接し方にしてみても、そうした幼少期は容易に結び付いた。
「いったい、藍児はどこにおるんでしょう? こんなに色んな人に心配をかけて……」
呟いた彼女は、やや血色の悪い頬に手を当て、溜息を吐いた。
「……こんなことになるんやったら、ちゃんと話しておくべきやった」
思わず口を突いて出たらしいその独白を、田花は聞き逃さなかった。
「何か、彼に伝えていないことがあるんですか?」
「え、ええ……先ほど夫も言いましたけど、私たちとあの子の間に血縁関係がないことは、すでに話してありました。でも、本当はもう一つ、伝えとかなあかんことがあって……」
「それは何なのでしょう? もしよろしければ、教えてください」
彼女は迷うように、片方だけの瞳を伏せる。どこか怯えたような不安げな視線が、暫時カーペットの上を彷徨った。
やがて、彼女が再び口を開こうとしたところで、
「おうい、美由紀ィ。ちょっと来てくれんか?」
階下から、夫が呼ぶ声が聞こえて来た。美由紀とは、無論妻の名前だ。
「すみません、夫が呼んでいますので、私は失礼します。あとはみなさんで、好きにご覧になっていてください」
まるで渡りに船とばかりに、そう断った美由紀は、そそくさと部屋を出て行ってしまう。どうやら、あまり他人には知られたくない内容らしい。
「しゃあないな。あとでまた聴かせてもらうとするか」
彼らは室内の観察を再開した──のだが、見るべき場所は大して残っていなかった。仕方なく、三人は一階の店舗に下りる。
しかし、美由紀の姿が見当たらない。店主に訊いてみると、隣り町にある郵便局まで、お使いを頼んだと言う。
「そろそろ年賀はがきの用意をしとかなあかんことを、思い出したもので。あいつに何か用ですか?」
「ええ。先ほど中断してしまったお話の続きを伺いたかったんです」
渋沢は美由紀の口にした「言わなくてはいけないこと」について、彼に尋ねてみた。しかし、夫の反応は芳しくない。
「何のことやろうなぁ。……申し訳ありませんが、私にはようわかりませんわ」
そう言われてしまっては、それ以上追及のしようがなかった。
美由紀が帰って来るまで待たせてもらうわけにもいかず、甚だスッキリとしない気分のまま、彼らは瀬戸の実家を暇することにした。
※
結局、《瀬戸酒店》に滞在していたのは一時間ほどだった。店を出る間際、田花は「緋村チャンたちへの土産にする」と言い、日本酒とツマミを買い求めた。二人に酒を嗜むイメージのなかった渋沢は意外に感じたのだが、境木曰く「無理矢理呑ませるつもりなのです」とのことらしい。ご愁傷様、である。
車の元に戻ると、境木だけが先に乗り込み、喫煙者組の二人はひとまず一服することにした。買った物を後部座席に置いた田花は、煙草ではなく、まっさきにスマートフォンを取り出す。
「……出んかったわ」
先ほど写真に収めた連絡先にさっそく電話をかけたようだが、繋がらなかったらしい。不満げに歪めた唇の端で、黒一色の煙草──ジガノフ・ミステリーを、一本咥えた。渋沢が火を点けてやろうとすると、彼はそれを断り、自らのジッポライターを使った。
甘いアーモンドの芳香が、紫煙と共に漂う。
「例の繭田ってオッサン、怪しいな」
「どうしてですか?」
自分も煙草に火を点けつつ、尋ねた。
「瀬戸クンの親父さんにした質問や。好きな画家だとか子供の頃の話だとか、そんなもんとっくに本人から訊いとってもよさそうやないか。ホンマに彼と会うたことがあるんならな」
「つまり、瀬戸くんに遺産相続の件を伝えてあるって言うのは、嘘やったと? けど、瀬戸くんも相続の話や繭田さんのことは、知っていたらしいやないですか」
「だからこそ余計におかしい。瀬戸クンはどうしてそんな大事なことを、親御さんに相談せんかったんや? 榎園氏の遺産とやらがどれほどのもんかわからんが、突然それなりの額の金を譲り受けることになったんやで? しかも、この家に預けられてから一度も会うたことのない産みの親から。相続すると決めていたとしても、報告くらいはするもんちゃうか?」
田花の言うことが道理だろう。これまでの振る舞いが嘘のように、意外と理路整然なことを言う。
「遺言状の管理者が一人で訪ねて来るって言うのも、少し引っかかる。うまく言えんが……作為的な物を感じざるを得ない」
「誰かに仕組まれた話やってことですか?」
「かも知れんな……」
──いったい誰が? 渋沢は口には出さずに、問いかける。
それは繭田なのか、あるいは瀬戸自身なのか、はたまた渋沢たちの知らない第三者か……。今はまだ黒いシルエットでしかないその人物の姿を、思い浮かべる。
田花の直感がどこまで正しい物なのかは不明だが、少なくとも、繭田の訪問には何か裏がありそうだ。
「このあとはどうします? これ以上できることはなさそうですし、一服したらもう帰りますよね?」
携帯灰皿の縁をなぞってから、相手の方へ差し出した。
「いや、まだ一箇所行きたいところがある」
「どこですか? 他に話を聴く当てでも?」
重ねて問うと、予想外の返事が──さもそれが常識であるかのように──、寄越される。
「風呂や風呂。この近所に日帰りで利用できる温泉施設があるらしい。せっかくやから、ひとっ風呂浴びて来うや。このまま帰ったら、わざわざ滋賀まで日本酒買いに来ただけで終わってまうで?」
渋沢としては別にそれでも構わないし、全く収穫がなかったとも思わなかったのだが。
しかし、確かにせっかく遠方まで足を伸ばしたのだから、もう少し寄り道して行くのも悪くはないかも知れない。何より、渋沢が答える間もなく、
「ホンマにええんか? そんなしょーもない旅行で。つうか、お前ら酒すら買うてへんやないか。俺は空気読んで売り上げに貢献して差し上げたって言うのに、なんでなん? これじゃあ、俺一人浮かれとるみたいで恥ずかしいやろが! お前、イケメンなんやから気ィ使えや!」
と、意味不明な暴言を浴びせられ、反駁するのも面倒になった。
「はあ……すみません」
いったい、何に対する謝罪なのか。
「わかればええんや。わかればな。ほんなら、さっそく行こか」
一転して上機嫌そうな笑みを浮かべ──情緒不安定にもほどがあるだろう──、田花はワゴンRの車体でジガノフを揉み消す。
再び携帯灰皿を差し出しつつ、渋沢は思う。前言撤回。少しもマトモちゃうかった、と。




