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流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第三章:薔薇の下
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6:蕎麦食おうや

 一行を乗せたワゴンRが米原市内へ至ったのは、正午を十分余り過ぎたところだった。景色は長閑な盆地のそれに様変わりしており、周辺の田畑や里を囲う山々には、見事な積雪が見られる。

 日本最大の湖である琵琶湖の北部に位置する同市は、豊かな自然と清らかな水資源を持つ「農業のまち」──と、渋沢が事前にチェックして来た観光案内サイトに、記載されていた。また、米原駅は滋賀県内で唯一新幹線の停車する駅でもある為、関西と関東を繋ぐ交通の要衝としても知られている。

 市が誇る名峰伊吹山は、古くから人々の信仰の対象とされており、平安時代には山岳密教の霊場として、多くの僧侶や山伏が修行に訪れたそうだ。他にも、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山に棲まう水神と戦い敗れる伝承があったり、室町時代には織田信長が薬草園を造らせていたりと、名山に相応しいエピソードが多数残されている。

 目的地の絵ノ洲町は、そんな歴史ある伊吹山の尾根に抱かれた、小さな田舎町だった。スマートフォンで検索した地図によればあと二十分ほどで到着するようだが、昼食はどうするかと言う話になると、

「蕎麦食おうや蕎麦。伊吹山の麓は蕎麦の名産地らしいで? もう完全に蕎麦の口になってもうてるわ。蕎麦以外考えられへん。蕎麦蕎麦蕎麦」

 と田花が連呼し始めた為、早めの年越し蕎麦を食べることに決まる。

 手頃な定食屋はすぐに見付かった。「水とそばのまち 絵ノ洲」と言う年季の入った看板に迎えられ、少し進んだ道沿いにある食堂で、「手打ちそば・うどん」の幟が気だるげに垂れ下がっている。店の前の駐車スペースには他に車が停まっていなかった為、やっていないのかと心配したが、杞憂であった。


 それぞれ月見とざると鴨せいろを掻き込み、店を出たのが十二時五十分。約束していた時間は十三時ちょうどなので、今から車で迎えば多少余裕を持って到着することができる。

「質問役は基本的に渋沢クンに任せるわ。この中じゃ、一番警戒され難そうな見た目しとるからなァ」

 出発してすぐ、そう任命される。胡散臭い風貌をしていると言う自覚は、あったようだ。

 あまり自信はなかったが、彼らに任せるのはそれ以上に不安だったこともあり、渋沢は引き受けることにした。

 ほどなく、目的地が近付いて来た為、田花はカーステレオのボリュームを十分の一以下に絞る。雪化粧をした畑──蕎麦の畑なのだろう──に沿った細い一車線(どうろ)を進んで行くと、目当ての看板を掲げる古い商店が、道の左手に現れた。二階が居住スペースとなっているらしく、二つ並んだ窓の片方には、小さなベランダがあった。

 猫の額ほどの小さな駐車場に車を停め、三人は店の中へ入る。

 来客を告げるチャイムが鳴るとまもなく、陳列棚の間から、小肥りの中年男性が現れた。度の強そうな眼鏡をかけており、毛羽立った材質のセーターの上から、店の名前が刺繍させれたエプロンをしていた。

「はいはい、いらっしゃいませ」

 いかにも人のよさそうな笑みを浮かべた彼は、この店の店主であり、瀬戸の父親だった。


 ※


「みなさん長旅お疲れ様です。さあ、どうぞ奥へ」

 来意を告げると、瀬戸の父親は快く迎え入れてくれた。無理を言って押しかけたようなものだと思っていたので、渋沢はかえって恐縮する。そんなつもりはなくとも、なんだか純朴な人間を騙しているようで、申し訳なかった。

 レジの裏側の通路のすぐ右手が居間になっており、靴を脱いでそこに上がらせてもらう。並んで置かれた座布団にそれぞれ座る──境木が律儀に正座した為渋沢もそれに倣ったのだが、田花だけは構わず胡座を掻いた──と、ほどなく三人の後ろの戸が開き、瀬戸の母親がお茶を運んで来た。夫よりも幾らか若いようで、年齢(とし)は五十を過ぎたかどうかと言ったところか。こちらは夫と違って酷く華奢な女性だった。色が白く、常に下がり気味の眉をしている。

 そして、何よりも渋沢が気になったのは、彼女の左目を覆い隠す白い眼帯だった。渋沢は初め、()()()()でもできているのかと思ったが、どうもそう言うわけではないらしい。赤紫色の()のような物が、眼帯からわずかにはみ出しているのが見えた。

 いったいそこに何が隠されているのか──余計に興味が惹かれたが、尋ねるわけにもいくまい。それに、あまりジロジロと見るのも失礼だろう。

 渋沢は視線を外し、テーブルに目を落とした──そこへ、湯気の立つ湯呑みが置かれる。

 盆の上の物をテーブルの上に配すると、彼女も夫の隣りに腰を下ろした。

 渋沢たちは礼を述べつつ、ひとまず自己紹介をする。その時になってようやく田花がサングラスを外したのだが、存外澄んだ瞳をしていた。

「渋沢さんから電話をもろた時は、驚きました。藍児が退学したなんて話、全く知らんかったから。正に寝耳に水でしたよ」

 ひとしきり挨拶を済ませた後で、彼は白髪混じりの頭を掻きつつ、苦々しげに言った。

「そう言った話は、少しも聞いてへんかったんですね?」

「ええ。昨年末に帰って来た時も、特に大学を辞めるようなことは言うてへんかったし、それからも何度か電話やメールでやり取りをしてたんやけけど、そんな話は出んかったから。──なあ?」

 妻が頷く。息子の身を案じているのだろう、彼女は終始不安げに顔を俯けていた。

「藍児くんが大学を辞めてもうた理由について、心当たりは?」

「さあ、今話したような状況ですから、私たちには何も……。聞いた限りでは、授業も楽しんでいたようやし、何か悩んどったわけではないはずなんやが」

「一時期電話に出てもらえないことがあったそうですね」

「今年の七月頃からやったかな。夏休みに()()()来るんかどうかを訊こ思て、家内が電話にしてもろたんやけど、いくらかけても繋がらんくてね……。それで、少ししたらメールで返事が来たんですよ。『しばらく電話を取れそうにないから、メールで堪えてくれ』と。その時は授業か何かが忙しいんかなと思ったくらいであまり気にせんかったんですが……今思うと、少しおかしな話やな」

「しかし、何ヶ月か経って、また電話に出られるようになった、と」

「ええ。先月、妻がメールで確認したんですよ。まだ電話に出られんのかと。そうしたら、もう大丈夫とのことやったので、久しぶりに声を聞くことができました」

 その際、どうして今まで電話に出られなかったのかと尋ねると、「少し立て込んでてん」とはぐらかされたそうだ。

 どうやら、七月から十一月までの間、瀬戸は電話を取ることが難しい状況だったらしい。その約四ヶ月間、いったい彼はどこで何をしていたのだろう? 考えつつ、渋沢はさらに質問を続ける。

「最後に連絡が取れたのは、いつなんですか?」

 何気なく放ったこの問いに対し、瀬戸の父は意外な答えを寄越した。

()()です。これも家内がかけました。相変わらずどこにおるんかはわかりませんでしたが、ひとまず変わりはなかったようですよ」

 ──今朝? 渋沢は我が耳を疑った。他の二人も同様らしく、どちらも虚を衝かれたような表情を浮かべ、瀬戸夫妻の姿を見返していた。

「ち、ちょっと待ってください。藍児くんと連絡が付いたんですか?」

「はい。確か、九時頃やったかな。家内の電話の方が出てくれるやろうと思ってかけさせたら、アッサリ繋がりましたわ」

 こんなにも簡単に瀬戸の無事が確認できるとは。渋沢は彼が何らかの事件に巻き込まれている可能性も危惧していたのだが、少し心配しすぎていたのかも知れない。おそらく、礼の一件があった為に、よくない想像をしてしまったのだろう。

「えっと、今朝はどんな話をされたんですか?」

 直接瀬戸と話したと言う母親に、尋ねる。

「今どこにいるのかと言うことと、大学を辞めたと言う話は本当なのかを尋ねました。勝手に退学したことは認めてくれたんですけど、詳しい話を聴く前に切られてもうて……やっぱり、何かを隠しとるみたいでした」

 その「何か」の正体を知ることができれば、瀬戸の居所も判明するのだろうか?

「電話した時、周りの音は何か聞こえて来ませんでしたか? 藍児くんのおる場所を特定する、ヒントになればと思ったんですが……」

「さあ、どうでしょう……」

 彼女は頬に手を当て、斜め下を向く。懸命に記憶を辿っているようだ。

「……別段、おかしな音を聞いたりはしませんでした。たぶん、どこか部屋の中におったんやと思います。そんなに騒がしい感じはしなかったので」

 瀬戸は当時屋内にいたらしい、と言う程度の情報しか得られなかった。

 次に何を尋ねるべきか悩んでいると、反対にこう質問される。

「みなさんの方ではどうですか? あいつから、何か聞かされてへんかな?」

「いえ、大したことは……ただ、電話でも少しお伝えしましたが、僕の友人が最後に藍児くんと話した時、彼は流浪園と言う場所に行き、誰かに会うと言っていたそうです」

 恋人ではなく友人と言ったのは、なんとなく気恥ずかしかったからだ。

「ルロウエン……いったいどこなんやろうなぁ。聞いたことあるか?」

 問われた妻は、「いいえ」とかぶりを振った。

「どうやら、誰かの別荘の名前のようなんです。藍児くんはそこで誰か女性と会う予定だと告げていた、と友人から聞きました」

 瀬戸の両親は、その女についても心当たりがない様子である。さすがに「夢の中で見た」と言うエピソードについては口にするのが憚られた為、瀬戸がその女性のことをスケッチしていたとだけ伝えておいた。

 すると会話の切れ目を見計らっていたかのように、田花が久し振りに口を開いた。

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