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流浪園殺人事件  作者: 若庭葉
第五章:喪色の宴
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16:迷宮を抜けたその眼前には……

「だから、自分の命を投げ打ってまで犯行に及んだ、と……。何と言うか、次元が違いすぎるのです」

 境木が、嘆息と共にそう口にした。

「……まあ、あくまでも、俺の想像ではって話だけどな。できることなら本人にも、考えをぶつけてみたかったよ」

 しかし、神母坂さんは緋村との対決に臨むことなく、自らの命を断った。犯人がすでに死んでしまっていては、糾弾など意味を成さない。

 今回の事件は、緋村の完敗と言えよう。彼が真相に辿り着くことができたのは、真犯人が全ての犯行を終え、彼岸へと旅立ったあとなのだから。

 ──しかしながら。

 それでもまだ、緋村には、果たさねばならぬ義務が残っている。断罪はできずとも、せめて彼女に一矢報いるのだ。

「ここまで説明させていただければ、もう十分でしょう。あの遺書は、衣歩さんの認めた物ではありません。みなさんがその内容に従ったとしても、彼女の希いはもう、叶えられないのです。……代理母出産の準備を、中止してくださいますね?」

 問いかける彼の視線は、悼む会の主催者に止まった。この邸宅と誉歴氏の遺産を相続したのは、幸恵さんだ。彼女が断念することを決めれば、残る関係者たちも、従わざるを得ないだろう。

 それでも、幸恵さんは、迷っている様子だった。緋村の眼差しから逃げるように目を伏せ、唇を噛み締める。

「……どのみち、警察の捜査が進めば必ず阻止されてしまうことです。ですが、この事件を乗り越える為にも、みなさんの手で幕を引くべきかと」

「……緋村さんの言うことは、もちろんわかります。衣歩ちゃんの遺書が偽物やってことも、理解できました。けれど……これじゃあまるで、無駄死にやないですか。衣歩ちゃんや他の人たちの死が無意味なものになってまう。そんなのって……あんまりです」

 彼女の言い分もわかる。この事件の為に、犯人を含む六人もの人間が命を落としているのだ。それなのに、何一つとして残らないだなんて、あまりにも遣りきれない。

 幸恵さんからしてみれば、彼らの死を無意味なものにしてしまう選択を、迫られているように感じたのだろう。

「お気持ちはお察ししますし、無理強いをするつもりもありません。僕の役目──と言うと大仰に聞こえますが──は、おそらくここまででしょう。あとのことは、みなさんのご決断に委ねます」

 いつになく優しく、ソッと背中を押してやるような語調だった。

 再び俯いた彼女の表情が、揺らぐ。

 すると、その隣りで、夫が動いた。

 僕の席からはよく見えないが──どうやら、肘掛に置かれていた彼女の手の上に、自らの手を重ねたらしい。

 驚いた様子で、妻が夫の顔を見返す。楡さんは、あの人懐っこそうな笑みを浮かべ、何も言わずに頷いた。

 他の二人──東條さんと織部さんも、おそらく同じ気持ちであることは、すぐに察せられた。

 ほどなく、幸恵さんは、ふくよかな夫の手を、反対の手で握り返す。

「……こんなことで迷っとったら、天国の衣歩ちゃんを不安にさせてしまいますね。……わかりました。代理母出産の手続きは、中止することにします」

 彼女の顔にもまた、夫と似た表情が浮かんだ。

 そう、迷う必要はない。迷宮は一本道だ。出口はなくとも、出たくなったのなら、ただ引き返せばいいのである。

 そして、迷宮を抜けたその眼前には……きっと、全く違った景色が広がるはずだ。


 ※


「よかったら、みなさんも観てくださいませんか? 香音流くんの作品を」

 東條さんがそんな提案をしたのは、それから間もなくのことだった。

 当然ながら、反対する者はなく──僕も、一度観てみたいと思っていた──、みな椅子から立ち上がる。東條さんはバッグからその絵画を取り出し、織部さんが持って来てくれたイーゼルに、その作品をセットした。

 愛されることを渇望した青年の描いた「地獄」とは、どれほど恐ろしいものなのか。僕は密かに怯え、身構えていた。

 だからこそ。

 そこに描かれた光景を目にした瞬間、僕は衝撃を受けた。

 それは緋村も同様であり、彼もまた虚を衝かれたように、呆然と立ち尽くしている。

 ややあって、あることに気が付いた僕は、画商に顔を向け、

「僕たちに、()()()()()()()んですね?」

「ええ。素直に答えるのも、少々癪でしたから」

 彼は悪戯っぽい笑みを横顔に湛え、アッサリとそう答えた。この嘘は、緋村にも見抜けなかっただろう。

 僕は改めて、カインの遺作を鑑賞する。

 額装のなされていないカンバスに描かれているのは、澄んだ蒼穹と、新緑の絨毯を広げたような草原──どうやら、丘のようだった。

 その丘を、一人の女性が上っている。

 彼女はノースリーブのブラウスとジーンズと言う軽装(ラフ)な出で立ちで、こちらを振り返りつつ、ツバの広い麦わら帽子が風に飛ばされそうになるのを、右手で抑えていた。

 その頭上では、白い蝶の群が列を成して羽ばたいて行く──そんな幻想的なワンシーンが、丁寧な色彩によって紡がれていた。

 生命への賛美に満ち溢れた風景……それは痛々しいほどに切実で、無垢で……僕は、思わず目を奪われた。

 ──地獄の馬などではなかったのだ。

「素敵な作品ですね。描いた人の優しさが、詰め込まれているように感じます」

 まっさきに感想を述べたのは、井岡だった。友人は無邪気に瞳を輝かせ、作品を見入っている。純粋に感心しているのが伝わって来た。

「この女性……()()()()()()みたいやな」

 彼女の隣りで、渋沢さんが呟いた。

 言われてみると、確かに剥き出しの両腕に、古い傷痕らしき物が、白い壁にヒビが走るように、幾つも刻まれているではないか。

「ホンマやな。……もしかして、この女性のモデルは()()()()なんやないか?」

 今度は楡さんが、誰にともなく問う。

 そうなのだろう。帽子のつばの作る影で、顔は識別できないが、体付きや髪の長さ──そしてその艶やかな黒色と素肌の白さは、確かに彼女の物だった。

 神母坂さんの体には、カミダーリィによって自ら刻み込んだ無数の古傷があった。彼女の裸婦画を描いた際、それを目の当たりにした香音流さんは、怖がるのではなくただ同情していたようだったと、衣歩さんは語っていた。

 もしかしたら、そのことが──切創(キズ)だらけの体を彼が恐れなかったことが、神母坂さんの恋の始まりだったのではないか。そんな想像をしてみる。

「香音流様は、神母坂様からされたことを、赦すおつもりだったのかも知れません……。それから、衣歩様と明京流様のことも、本当に祝福する決心ができていたのだと思います」

 織部さんが、静かに見解を述べる。

「ただ、あの日は、明京流様がお二人の仲を見せ付けるような場面が、何度かございました。そこにお酒を召されていたことも加わり、気持ちの制御ができなくなってしまったのかと……」

 この考えが正しいとすれば、SNSに書き込まれたあのコメントは、カインの本心だったと言うことになる。

 いや、きっとそうなのだろう。でなければ、こんなに優しい筆遣いを、できたはずがない。

「この絵を観た時、鮎子さんは『最低』と呟いていました。その時は、自分の体にある古傷を絵に描かれたことが不愉快で、そんな言葉がまろび出たのかと思ったんですが……本当は、違ったんでしょうね。鮎子さんはたぶん、自分自身に対して、『最低』と呟いたんだ……」

 香音流さんに想いを拒まれて以来、彼女は彼に対する態度を一変させていたと言う。しかし、この絵を観たことで、自らの過ちに気付いたのだ。

 ──彼は、自分のした悪戯を赦そうとしてくれていた。それなのに、自分は彼に辛く当たり、孤独な立場に追いやってしまった。

 ──最低。

 彼女は痛く後悔した。そして、改めて思い知ったのだろう。自分が今でもまだ、香音流さんを愛していたことを。

「しかし、それほど愛していたのなら、どうして香音流さんのクローンではなく、彼との子供に拘ったのでしょう? 将臣さんの企みを感知していたのであれば、むしろ香音流さんの生まれ変わりを望んでもよさそうなものです」

 境木の発した問いに、

「んなもん、決まっとるやないか」

 鼻を鳴らしつつ、田花さんが応じる。

「クローンなんてのは、結局は親と同じ細胞を持った赤ん坊に過ぎん。そんなモンより、彼女にとっては、『自分と自分の愛した男性の血を継ぐ子供を遺すこと』の方が、よっぽど重要やったんや。とても人間らしい心理やと思わんか? 少なくとも、同じ立場やったら、俺もそう考えるやろうな」

「……珍しく、真面目なのです」

「あァ? 俺はいつだって真面目やで?」

 本当に真面目な人間は、刑事の仮装をして聴き込みの真似事などしないと思うが……。しかし、彼なりに緋村の推理に協力してくれたのだろうから、何も言わないでおこう。

「神母坂さんがこの絵を飾りたかった理由が、なんとなくわかった気がします。きっと、観てもらいたかったんですね。産まれて来るはずやった、自分と香音流くんの子供に」

「なるほど。その子にとっては、亡き父が亡き母の姿を描いた作品と言うことになるわけか」

 幸恵さんと秀臣さんの会話が聞こえて来る。

「しかし……いい絵なだけあって、余計にやりきれません。恋をした相手が自分をモデルにした作品を残してくれた……これだけでも、十分に幸福なことじゃないですか。それなのに、何の罪もない人たちの命を奪うだなんて……」

 秀臣さんが、神母坂さんを赦すことのできる日は、もしかしたら永遠に来ないのかも知れない。無理もないことだろう。彼女はそれほどの罪を犯し、あまつさえ、勝手に死んでしまった。生きて罪を償ってくれていれば、まだ何か違っていただろうに。

「……件の絵か」

 描かれた女性の姿を眺めたまま、緋村が小さく独語する。どうやらそれは僕以外の人間の耳には届かなかったらしく、誰にも拾われることはなかった。

 その言葉を聞き、僕は以前、緋村の語った予言獣の話を思い出す。

 件は、()()()姿()()()()()()を飾ることで、災いを免れると告げる。

 彼女はアンフィスバエナであり、バフォメットであり、カッコウであり──


 件だったのだ。

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