七章・氷兇の魔女(1)
「あ、ぐ……ああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
異変は、お母さまに蹴られて地面を転がったナスベリさんが、それでもすぐさま体勢を立て直し起き上がった、その瞬間に発生しました。突然私達の目の前で彼女の長い黒髪が白くなったのです。
(違う!)
振り乱された髪から白い結晶が飛び散り、色が黒に戻ったことで気付きます。変色したわけじゃない。あれは霜──この暑い季節に、瞬間的に頭髪が氷で覆われるほどの冷気を放った証。
「そうよね、あんたはやっぱり、そうくるわよね!」
冷気と熱気がぶつかり合って生じた風。その突風に抗いながら母は笑います。でもあれは強がり。自分を鼓舞するための笑み。本当は逃げ出したいほど怖いはず。
当然でしょう。あんな冷気に晒されたら、私の護符無しでは確実に死に至ります。護符があっても危険かもしれない。
(ナスベリさん、どうして?)
これまで彼女は魔法を使いませんでした。一般人に対して魔力を用いること自体危険でありえない行為だと考えていたのでしょう。だって彼女は良い人ですから。私はその善性を信じて大人達に決着を託した。
なのに今の彼女からは殺意すら感じます。近付く者をことごとく凍らせんと、その殺意は吹雪に形を変えて正面から吹き付けました。
「こんな……! まずい、これじゃ……!?」
「思い出すわねナスベリ、あんたのアダ名。氷兇の魔女ってさ!」
母は気付いているのかいないのか、怯えながらも再び一歩前へ。さらに身体を傾け前傾姿勢に移行し、今にも走り出す気配。私は咄嗟に呼び止めました。
「待って、お母さん!」
しかし母は立ち止まりません。今この時だけは、私より優先すべき対象がいたからです。
「行くよ、ナスベリ!」
一番近くで見ていた母は、この時、気が付いていたのです。
ナスベリさんの、助けを求める呼び声に。
やめろ、やめて、いやだ、やめてください!
思考が乱れる。人格が交雑する。噴出した記憶が今の自分を侵食する。この記憶が全て現実の出来事なら、きっと心が壊れてしまう。
(あ──)
恐怖と苦痛の中、ナスベリは理解した。だから忘れてしまっていたのだと。記憶を喪失したわけではなく封じていたのだ。自分の心を守るため、特別な魔法を使って。
記憶凍結魔法。
彼女は凍らせることに突出した才能を持つ魔女だった。昔から、それが一番得意だった。だから遠い昔、心が張り裂けそうなほど悲しい場面で無意識に新たな魔法を創り出し発動させた。任意の記憶を凍結させて忘れ去る魔法を。
それが今、暴走を始めた。蘇った記憶を再び封じようと脳内で荒れ狂う。このままでは生命に関わる。そう判断した彼女の肉体はエネルギーを体外へ逃がす。
放出された力は強烈な冷気と化し、カタバミに襲いかかった。
「させない!」
流石に黙って見ていられず魔力障壁で母を守るスズラン。守るためにはそうする以外に選択肢が無かった。事実、彼女の障壁で断ち割られた冷気は周囲の全てを一瞬にして凍り付かせてしまう。凄まじい超低温。この威力では護符でも防ぎ切れない。
しかし魔法で防御行動を取ったことが仇にもなった。母を守ることに気を取られた瞬間、そんな彼女の知覚外、死角となる角度から地面を走って近付いてきた別の魔法が至近距離で炸裂する。
突然の小爆発がスズランを襲った。
「あうっ!?」
直前で気付いて魔力障壁を張ったのに防げなかった。ナスベリは魔法で生み出した水を同じく魔法で電気分解し水素を発生させたのだ。それに余剰電力で火を点け、爆発を引き起こした。
魔力障壁は強力な防御手段だが、一つ弱点もある。術者が指定した対象なら素通りしてしまうことだ。ありとあらゆるものを遮断することもできるが、視界を確保するためには可視光線を透過させなければならない。呼吸のためには空気を透過させなければならない。だから魔法使いは状況に応じて透過対象を選別する。
だが空気とは複数の気体の混合物だ。スズランはその全てをまとめて大雑把に透過対象に指定していた。空気中には僅かながら水素も含まれている。だから障壁の内側でそれが爆発した。
とはいえ威力は低く、せいぜい音で驚く程度のもの。
だが熟練の術者には、その一瞬で十分だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
ナスベリは立て続けに魔法を発動させる。美しい無数の曲線が描かれ、半分がカタバミ、もう半分がスズランへ迫った。
(なんて人!?)
思わず瞠目する。ゲッケイの時のように正気を失って見えるのに、それでもなお精密な制御。無意識化であれを行っているのだとしたら、いったいどれだけの修練を重ねた先の境地なのか。
しかも無作為に術を発動させたわけでもなさそうだ。数種類の魔法が僅かにタイミングをずらして放たれている。さっきと同じようにこちらの防御を突破するなんらかの仕掛けがあると見た。
必然、スズランは二者択一を迫られる。この攻撃を片手間に防ぐことはできない。母か自分か、どちらかの防御に専念しなければ無理だ。
迷う暇も無い。脅威はすでに目前へ迫っていた。