14.唯一の宝石【終】
二度目のプロポーズの日からの一年は、正に怒涛だった。
両家への報告、婚姻に際しての煩雑な事務手続き、そして退職。
ゼノはひと足先にルミナス・クラウンを去り、ヴィヴィアンもその三ヶ月後の退職を目指して引き継ぎ業務に励んだ。従業員はもちろん、顧客の多くにも惜しまれた。だが、ルミナスとは新事業を通して取引をすることが決まっている。この百貨店にはこれからも頻繁に出入りすることになると思うと、あまり極端な寂しさは感じなかった。
しかし、いよいよ迎えた最後の出勤日。
勤務を終えて、多数の従業員たちに見送られながら百貨店裏の従業員口から一歩外に出た瞬間、言い表せぬ切なさがヴィヴィアンの全身を包み込んだ。
こうして、何度この石畳を踏みしめただろう。この道を歩くたびに抱えてきたさまざまな感情が思い出されて、自然と歩みは遅くなった。
百貨店から少し離れた位置に停まっていたランバート家の馬車から婚約者が降り立ち、彼女へと手を伸ばす。その手をとりながら、ヴィヴィアンは最後に一度だけ、洗練された白い建物を振り返った。
「ありがとうございました」
誰にも聞こえないほどの小さな声でそう呟いてから、黒塗りの馬車へとゆっくりと乗り込んだ。
退職後は目が回る忙しさとなった。
立ち上がったばかりのランバート流通監査商会の仕事は想定外のトラブル続きで、休日も昼夜もないような日々が続く。
ゼノとヴィヴィアンの新居はさまざま検討した結果、結局商会のオフィスを兼ねたタウンハウスを一棟買いし、一階と二階がオフィス、三階以上が二人の住居となった。
朝起きてから寝るまで仕事に追われ、婚約期間らしい甘いムードとは無縁の日々。けれど、疲れ果てた体で寄り添う夜のひとときだけは、二人が唯一素直に、そして熱く求め合える時間だった。
「……好き。大好き」
汗ばんだ肌を寄せ合い、熱に浮かされるままにヴィヴィアンがそう伝えると、ゼノはその鋭い眼差しを蕩けさせて見つめ返してくる。
「愛してる」
普段のぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほどの、甘く密やかな囁き。ヴィヴィアンはその背を強く抱きしめながら、彼のもたらす熱情に溺れるように目を閉じた。
「ドレス一着の打ち合わせにどれだけ時間をかけるんだ、お前は」
貴重な休日、ようやく待ち合わせのカフェに現れたヴィヴィアンに、ゼノは開口一番に文句をつけた。
「ドレス一着じゃない。今日はヴェールと靴の最終チェックもあったのよ」
「ほとんど完成しているものに二時間もかけて、何を話し合う必要がある」
「あら、一生に一度のことなんだから私のしたいようにして良いって言ってたくせに。文句があるなら先に帰っていてもよかったのよ」
約束の時間を一時間も過ぎていたが、ヴィヴィアンは悪びれる様子もない。席に着くなり、すぐさま給仕を呼び止めてハーブティーを注文した。すっかり空になったティーカップを下げられたゼノは、新たにワインをグラスに注がせる。
「昼間から良いご身分ね。大して強くもないくせに」
「これからお前のドレス論を延々聞かされると思うと、酔わないとやってられない」
「酔い潰れても、私じゃ運んであげられないわよ」
結婚式の準備が一つまた一つと整っていく中、最後まで決着がつかなかったのはヴィヴィアンのドレスだった。
彼女の並々ならぬこだわりが注ぎ込まれたその一着は、一見すればごくシンプルなマーメイドラインのドレスに見える。しかし、使用する生地の選定から刺繍やレースの意匠に至るまで、あらゆる細部がヴィヴィアン自身の審美眼によって吟味され、彼女が最も信頼を寄せるアトリエの職人たちによって仕立てられた完璧な一点物だった。その完成度は、上流貴族の婚礼にも引けを取らないほどだ。
もっとも、その一着に情熱と予算のほとんどを注ぎ込んだ結果、式そのものは慎ましいものになる予定だった。挙式を行うのは王都でもひときわ小さな教会で、会場を彩る装飾も最小限。華美とは程遠い、ささやかな結婚式になるはずだった。
だから、当日。
式場に一歩足を踏み入れた瞬間、ヴィヴィアンは思わず息を呑んだ。視界いっぱいに広がる、純白の百合の花。小さな祭壇も、質素な柱も、通路の脇も、会場全体が白い花々で埋め尽くされている。
どういうことかと隣を見上げるが、ゼノもまた呆気にとられながら会場を見回すばかりだ。慌ててコーディネーターに事情を尋ねると、彼は困惑したように微笑みながら一通の封筒を差し出した。
「今朝早くに、お祝いの装花として大量の百合が搬入されまして……飾り付けも全て手配されておりましたもので。こちらを、お預かりしております」
上質な厚紙の封筒をそっと開く。中には白いカードが一枚だけ収められていた。
『最も美しい人の門出に』
流麗な筆致でそう書かれたカードの端には、たった一文字だけ。
──F。
それを認めた瞬間、ヴィヴィアンは反射的にカードを手元で伏せた。頭上から、呆れ笑いの吐息がハッと吐き出される。
恐るおそる顔を上げると、ゼノは眉を寄せながら、口の端だけわずかに吊り上げてヴィヴィアンを見下ろした。
「未練がましい王子様からの祝福だな」
不機嫌そうな顔とは裏腹に、その声は妙にあっさりとしている。彼は肩を竦めると、そのまま大股で控え室へ向かって歩き出した。
「ねえ!」
ヴィヴィアンは慌てて後を追う。
「私、彼とはもう何もないわ。連絡だって取っていないのよ」
「分かってる」
「本当に、知らなかったんだってば」
「分かってるよ」
なおも歩き続けようとする背中に追いつき、その頑丈な腕を掴んで引き留めると、彼は大きく息を吐き出しながらようやく立ち止まり、ゆったりと微笑みながら彼女を見下ろした。
「最後くらい格好つけさせてやるさ。あいつが唯一手に入れられなかったものが、今日からは俺の隣にいるんだからな」
灰色の瞳が、どこまでも穏やかに細められる。
その眼差しに胸の奥がくすぐったくなり、ヴィヴィアンは思わず睨むように彼を見つめ返した。大きな手が伸びてきて、乱暴な手つきで顔を掴まれ、両頬をぐにぐにと弄ばれた。
「ちょっと! 化粧が崩れる」
慌てて抗議の声を上げると、ゼノは心から愉快そうに笑った。
「さっさと支度を仕上げてこい。どうせ細部の仕上がりにまで文句をつけて、また時間がかかるんだからな」
「文句じゃなくて確認よ!」
反射的に言い返したものの、その声に険はない。結婚式の朝だというのに、いつもと変わらないやり取りに思わず頬が緩んだ。
ゼノの予想は見事に的中し、式の開始時刻ぎりぎりまで、ヴィヴィアンはドレスの裾の広がりやレースの重なり、ベールの角度に至るまで細かな調整を重ねることになる。そうしてようやく完成した花嫁姿は、誰もが息を呑むほど美しかった。
身体の線を優雅に描く純白のドレスは、磨き抜かれた彼女の美貌をいっそう引き立て、まるで物語から抜け出してきた姫君のようだった。
「チーフ、本当のお姫様みたいですよぉ……」
花嫁からブーケを受け取りながら、メアリーがぐすぐすと鼻を鳴らして大粒の涙を拭う。泣き笑いのようなその顔がおかしくて、ヴィヴィアンとゼノは思わず目を合わせて笑い合った。
幸せに手を取り合う二人を、純白の百合が静かに見守っていた。
「だからさ、『クチュール・シャルム』は絶対にこの秋が勝負なわけ。あの旅行用鞄は確かに値が張るけど、他にはない機能性と装飾性を兼ね備えていて絶対に受けるのよ。イチオシとして流すべきだわ」
「あの鞄の質については分かっているが、メインで流すのはもっと小回りのきく普段使い用の物がいい。博打は打てない」
「ねえ、そんなつまんないこと言ってたら私たちの仕事の意味がないでしょ? 小回りのきくバッグが売りやすいなんて、流行遅れの古着屋だって言えるわよ。もっと勝負に出て行かなきゃ」
「勝負ばっかりして負け続けじゃ、うちは破産だ」
「私がいつ負けたのよ! 先月のハイヒールだって大当たりさせたじゃない。この石頭」
「金食い虫」
「守銭奴、ヘボ騎士、朴念仁!」
代表執務室から漏れる、高い怒鳴り声と低い罵声。
部下たちは「やれやれ、また始まった」とばかりに苦笑いを浮かべ、慣れた手つきで算盤を弾き続けた。
「このアトリエの新作を独占するって言ったじゃない! 予算がなんだって言うのよ、このドケチ!」
「現時点でのキャッシュフローを考えろ。この脳みそシルク女が」
勢いよく執務室のドアが開け放たれると、二人のやり取りはより鮮明なものとなってオフィス中に響き渡る。
ぷりぷりと頬を膨らませたヴィヴィアンが、握りしめた書類を翻して不機嫌を丸出しに飛び出してきた。
「なんなのよ」
どっかりと自分のデスクに腰かけると、ゼノに突き返された書類をじろりと睨んだ。
どうにか自分の希望と、彼が突きつける冷徹な数字の折り合いがつかないかと唸る。頭を捻れば捻るほど、主に感覚で生きてきたヴィヴィアンにはストレスの溜まる毎日だが、その瞳にはかつてないほどの野心的な光が宿っていた。
そんな騒がしい日常の中に、彼女が何よりも愛する「宝石」のような瞬間が訪れる。
「ヴィヴィアンさん、『ノスタルジア』のご主人が試作を持っていらっしゃってますよ」
「まあ、本当」
新進気鋭の工房の若き主人が持ち込んだ、繊細な刺繍がふんだんに施された婦人用のグローブ。応接間の広い窓から差し込む午後の光を浴びて、シルクの上に踊る銀糸が、まるで生きている鱗のように煌めいた。
「素敵ね。まるで、朝露をそのまま縫い止めたみたい。この繊細な透かし彫り、王都でもここまでの仕事ができる職人は数えるほどしかいないわ。本当に素晴らしい職人をお持ちね」
「お宅の援助のおかげで、前シーズンを乗り切ることができました。職人にも手当を出すことができて……。このグローブは、前回のお客様からの要望を形にしたんです。きっと反響があるかと」
「ええ、そうね。……ねえ! ゼノ、見て。この丁寧な刺繍。本当に美しいわ」
遅れて応接室に入ってきた夫が席につく前から、ヴィヴィアンは興奮気味にシルクを差し出した。どっかりと腰を下ろしながら、ゼノはその手元を覗き込む。
「確かに美しいな。だが工程数がかなり多そうだ。原価はどうなる」
「ねえ、試作段階からそんな夢のない話しないでよ」
「試作段階だからこそ言ってる。ルミナスの上顧客向けには良いが、あまり数は多く出せないぞ。他の店にも広く売り出したいなら、工数を減らすべきだ」
「ごもっともですね。一度持ち帰って、シンプルな仕様も作ってみましょう」
「このままでも上顧客向けにはなるんだから、この仕様も捨てないでほしいわ」
「ありがとうございます、奥様」
満足げな顔をして去っていく主人を見送った後、ヴィヴィアンは置いて行かれたサンプルを前に、うっとりと目を細めた。普段のトゲのある高慢さは影を潜め、その瞳は純粋な少女のように煌めいている。彼女は布地を愛おしげに撫で続けた。
「撫ですぎてボロにするなよ」
呆れたような、けれどどこか柔らかな声で夫が声をかける。
「するわけないでしょ。私、お気に入りは大切にするんだから」
ヴィヴィアンは顔を上げ、強請るように彼を見つめた。
他に誰もいなくなった室内。ゼノはわずかに目を細めると、そっと身を寄せて、ヴィヴィアンの唇に優しくキスを落とした。
窓から差し込む午後の光が、二人の影を一つに重ねる。明日の商談はきっと、今日よりももっと騒がしく、そして面白いものになるはずだ。




