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第二十一章 灰と雪と酒

 灰の混じった雪が、音もなく降っていた。

 王都アーレンの冬は、白くならない。

 屋根も街路も、灰と煤の層に覆われて、まるで世界そのものが息を止めているようだった。


 ナナシは、戦没者慰霊碑の前に腰を下ろしていた。

 黒い石の表面には、百を超える名前が刻まれている。

 だがその中に、彼が探している名は一つもない。

 灰になった者の名は、もう誰にも書けない。


 瓶の口に雪が落ち、酒と一緒に溶けていく。

 口をつけるたびに、冷たさが増していく。

 酔うためでも、慰めるためでもない。

 ただ――寒さのほうが現実だと、確かめているだけだった。


「……あの世で飲む酒のほうが、まだぬるいな。」


 独り言は雪に吸われ、跡も残さない。

 それでもナナシは、もう一口、喉を湿らせた。

 背後の石畳で、雪を踏む重い音がした。

 その響きは、鎧の軋みを連れてくる。

 風の向こうから、声。


「――墓は背にしたんじゃなかったか?」


 ナナシは瓶を置き、面倒くさそうに肩を回した。

 振り返らずとも、その声の主はわかる。

 紅の影。炭の騎士。

 レクス・ヴァルド。

 あの夜、鍛冶街で火花を交わした戦友――そして、未だ燻り続ける男。


「……あんたもまだ、夜を歩いてたか。」


「夜は終わっちゃいない。昼のふりをしてるだけだ。」


 レクスの声は、雪に押し潰されたように低かった。

 彼の鎧は煤け、肩には紅の紋章がかすかに残っている。

 その瞳の奥には、十年前から変わらぬ“燃え残り”の光。


「紅蓮装具を覚えているか。」


「忘れるかよ。夢でも煙たい。」


「十年前、あれは封じられた。魂を燃料にする兵器――灰の剣の模倣だ。

 だが今、王国はまた火をつけた。

 北工区の地下で、紅い光が上がっている。」


「……まだ燃やすのか。あの戦争から何も学ばなかったな。」


「学んださ。“火を手放した国は、寒さで死ぬ”。

 王はそう言った。兵も民も、それを信じるしかない。」


「信じて焼かれるのは、いつも下だ。」


「だからこそ、上を変えねばならない。

 俺たち《残火》はそのために動いている。

 火を正しく使うために、火を奪う。――お前の力が要る。」


 ナナシは立ち上がり、雪を払った。

 石碑に刻まれた文字を指先でなぞる。

 指に残るのは灰。名ではなく、感触だけだ。


「……理想を叶えるのは、火じゃねぇ。」


「何だと?」


 ナナシは慰霊碑の裏手に目を向けた。

 そこには、誰かが置いていった小さな灯があった。

 灰の中で、いまだに消えない“灰光”。

 風に揺れ、雪を透かしながら、静かに息をしている。


「理想を叶えるのは、熱であり、灯だ。

 火は燃やすだけで終わる。だが、熱は残る。

 それが人を生かす。」


 レクスの瞳が、わずかに揺れた。

 その奥で紅の残光が軋む。


「……それでも火を絶やせば、何も動かない。」


「動かねぇほうがマシなこともある。」


 雪が風に舞い、二人のあいだを分ける。

 沈黙は、言葉よりも重かった。


 レクスが剣の柄に手をかけかけて、やめた。

 息をひとつ吐き、背を向ける。


「……やはり、お前は灰のままだな。」


「お前はまだ燃え残ってる。

 だから、お互い生き延びてる。」


 レクスは返事をしない。

 足跡だけが雪の上に伸び、やがて消える。

 残ったのは、風と、灯と、空の瓶。


 ナナシは再び腰を下ろし、瓶を拾い上げる。

 最後の一滴を舌に転がし、空を仰ぐ。


「……火はもういらねぇ。

 燃え尽きたもんは、灰のままでいい。」


 彼の目には、遠くの灯が小さく映っていた。

 それは火ではない。燃やすことも、照らすこともできない。

 けれど、確かに“生きている”光だった。



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