第二十章 夜、蒼い月の下で
夜。
《蒼い月》の看板が、薄い光を帯びて揺れていた。
外は雪。風は冷たいが、扉の内側はやわらかい灯で満ちている。
「……あら、帰ってきたわね、ろくでなし」
カウンターの奥、レミィがグラスを磨いていた。
その手つきは相変わらず静かで、言葉より先に“見透かす”ような目をしている。
「帰る場所がここしかねぇからな」
「他に帰る場所がある人のほうが珍しいわよ。……で、また飲むの?」
「生きてるうちはな」
レミィは苦笑し、棚から酒瓶を取り出す。
琥珀の光がゆっくりとグラスに注がれていく。
液面が揺れるたびに、月の灯がわずかに歪んだ。
「ギルドで何か言われたでしょう」
「“現実を柔らかくするな”って言われた」
「どうせ柔らかくしたんでしょう」
「当然。硬い現実なんか、噛んでも味しねぇ」
レミィは肩をすくめ、
ナナシの前にグラスを置いた。
「乾杯の理由は?」
「理由を探す時点で飲む資格がねぇんだよ」
二人のグラスが軽く触れ合う。
氷が鳴る。
その音が、この街でいちばん正直な鐘の音だった。
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「そういえば――」
レミィが声を落とす。
「また誰か、新しい転生者が来たそうよ。ギルドで話題になってた」
「へぇ。で、もう燃えたか?」
「まだよ」
「なら、明日燃えるな」
「縁起でもないこと言わないの」
「いや、あいつら燃えるために来るんだろ」
「そう思ってるのはあなただけ」
レミィの声は冷たいけれど、責める色はなかった。
その沈黙を埋めるように、ナナシは酒をあおる。
喉を通る感覚が、やけに優しかった。
「……お前さ」
「なに?」
「なんで、こんな時間までこの店やってんだ」
「人が帰ってくるのは、いつも遅い時間だからよ」
「なるほど。俺が来るのも計算のうちか」
「ええ、客の中でいちばん手間がかかるもの」
ナナシは笑った。
だがその笑いの奥には、どこか空洞のような影があった。
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「なぁ、レミィ」
「なに」
「俺が死んだら、この店に俺のツケ帳置いとけ」
「いやです」
「誰かが見て、“ああ、こいつバカだな”って笑うだろ」
「笑ったあとで払う人がいないでしょ」
「じゃあ“伝説の未払い”として残せ」
「不名誉な伝説ね」
レミィはグラスを洗いながら、
背中越しに小さく言った。
「……でもね、バカを笑える街って、悪くないのよ」
「俺が笑われてるってことか」
「そう。それが平和ってこと」
ナナシはしばらく黙っていた。
やがて、酒を一口。
息と一緒に、言葉がこぼれた。
「……火のない夜は、静かすぎるな」
「灰が残ってるから、静かでいいのよ」
「なるほど。じゃあ俺も、もう少し残ってみるか」
「いいわね。残りカスみたいに」
「そうそう。腐っても、火を知った灰だ」
ふたりの笑い声が、氷の音に溶けた。
外の雪はやみ、風が止む。
《蒼い月》の灯だけが、静かに揺れている。
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ナナシは外に出て、
白く染まった石畳を見上げた。
空は低く、街は眠り、遠くで犬が一度だけ鳴いた。
「……なんだかんだ、生きてるな」
そう言って煙草に火をつける。
細い炎が、わずかに手元を照らした。
「灰が歩くには、ちょうどいい夜だ」
彼はひとつ息を吐いて、
蒼い月の下をふらつくように歩き出した。
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