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第十九章 昼、紙と現実のあいだで

 昼。

 王都アーレン南街区――冒険者ギルド。

 暖炉の火がぱちぱちと鳴り、紙の匂いと炭の匂いが混ざっている。

 そこに、一人だけ“空気の濁り”を連れてきた男がいた。


「おう、いるか」


 ナナシが肩で扉を押し開けた瞬間、

 書類を抱えていた受付嬢がピタリと動きを止めた。


「……また飲んでる」


「いや、飲んでた。今は飲まれてる途中だ」


「変化してませんよそれ」


 受付嬢は眉をへにょりと下げ、

 カウンターの奥の棚から一枚の札を引っ張り出した。


「ほら、昨日の修繕依頼。まだ報告が出てません。

 “やった気がする”じゃ済みませんからね」


「いや、“やった気がする”ってのは立派な報告だ。

 気がするってことは、たぶんやった」


「その理屈で書類出されたら、世界が燃えますよ」


「世界はもう一回燃えたほうがいい」


「はい、もう黙って座ってください」


 半ば呆れ顔の受付嬢が、

 湯気の立つ茶をテーブルに置いた。

 ほんのりとした香草の匂い。

 だがナナシは――。


 腰を下ろすや否や、懐から琥珀色の小瓶を取り出した。

 おもむろに、茶に注ぐ。


「……何してるんですか」

「調整だ。味の均衡を取ってる」

「アルコールで均衡取る人初めて見ました」


「いや、火の通った液体同士、相性は悪くねぇんだ」

「理屈にするのやめてください」


 ナナシは一口飲んで、ふう、と息を吐く。

 湯気と一緒に、微妙に場の空気が酒臭くなる。


「……ああ、現実が柔らかくなる」

「現実はそうやって柔らかくするものじゃありません!」

「硬いままだと歯が立たねぇんだよ」


 彼は机に肘をつき、

 カウンターの向こうの掲示板を指で叩いた。

 依頼札がいくつも貼られている。


「これだけ札があっても、結局みんな同じこと書いてる。

 “火を止めろ”“壊れたもんを直せ”“誰かを守れ”。

 俺がやったところで、明日また燃えるんだ」


 受付嬢は手を止めた。

 目だけが静かに彼を見ている。


「……それでも、誰かが札を貼るんです。

 明日また燃えるって分かってても」


「だからこそ、俺は飲む」

「そこに繋がるのやめてください!」


「だって、燃えるたびに酒がうまくなる」

「じゃあ一生美味しいんでしょうね」


 その言葉に、ナナシは思わず笑った。

 静かに、少しだけ嬉しそうに。


「……お前、俺のこと嫌いだろ」

「ええ、たぶん好きでもないです」

「だろうな。けど、それくらいがちょうどいい」


 受付嬢はため息をひとつ。

 それから、カップを取り上げて指先で軽く回した。

 琥珀色の茶が、ほんの少し残っている。


「……それ、飲みます?」

「もったいねぇ。飲む。酒は残さねぇ主義だ」

「茶です」

「それでもだ」


 ナナシは最後の一口を飲み干した。

 苦味と、どこか懐かしい温度。

 彼は空のカップを見つめて、ぽつりと呟いた。


「……悪くねぇ。酒の味がする」

「してたでしょうね」


 受付嬢は微笑み、書類に判を押した。

「“今日も生きて帰った”で提出しときます」

「それで十分だ」


 ナナシは立ち上がり、外套を翻した。

 ドアの外から吹き込む風が、紙の端をめくる。

 受付嬢は静かに手を振った。


「また明日も、生きて帰ってきてくださいね」

「約束はしねぇけど、努力はしとく」


 そう言って、彼は昼の光の中へ消えていった。



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