最終話 さくら、そして君へ
五年後の春 2028年3月31日 金曜日
東京・代々木のダンススタジオから出てきたアヤメは、桜の花びらが舞い散る夜道を歩いていた。街灯の光に照らされた花びらが、まるで雪のように舞い踊る。
「流山さん、お疲れ様でした!」後輩のダンサーたちが追いかけてくる。
「明日のMV撮影、頑張りましょうね!」
「はい。みなさんもお疲れ様!」アヤメは振り返って微笑んだ。
五年前、18歳で東京に出てきた時とは別人のようだった。洗練された動きと表現力で、今や業界でも注目される存在になっていた。雑誌のインタビューでも「感情を体で表現する天才」と評されるまでになった。
しかし、アヤメの心の奥で、あの約束を一度も忘れたことはなかった。
2028年3月31日、午後7時、御津公園
スマートフォンを取り出すと、時刻は午後5時30分。新大阪駅に向かえば、十分間に合う時間だった。
「行こうかな...」アヤメは小さく呟いた。
この五年間、何度も迷った。慶一の連絡先を調べようと思ったことも、大阪に足を向けそうになったことも数えきれない。でも、あの時の約束を守ってきた。お互いに自分の道を歩み、五年後に...
「でも、本当に来るかしら…」
有名になったアヤメとは対照的に、慶一の消息は全く分からなかった。きっと誰か素敵な人と結婚して、幸せな家庭を築いているに違いない…
それでも、確かめるように、足は新大阪駅へ向かっていた。
****
京都山科養護学校で残業を終えた慶一は、職員室で最後の書類を片付けていた。
「二条先生、今日もお疲れ様でした」
同僚の田中先生が声をかける。
「田中先生もお疲れ様でした!」
慶一は24歳になっていた。大学を卒業後、社会福祉士と教員免許を取得し、この養護学校に就職して2年。子どもたちからも同僚からも信頼される教師になっていた。
自分自身の複雑な家庭環境を経験していたからこそ、様々な困難を抱える子どもたちの心に寄り添うことができた。
「先生、また残業ですか?」
顔を覗かせたのは、中学部3年の健太だ。父親の暴力から逃れてこの施設にやってきた少年で、最初は心を閉ざしていたが、慶一と出会って少しずつ変わっている。
「健太も、まだ残ってたのか?」
「先生こそ。今日は早く帰って休んでくださいよ!」
慶一と健太は、互いに微笑みあった。健太の成長した姿を見て、この仕事に就いて本当によかった、と心から思えた。
そして、自家用車に乗って家路につく途中、慶一の頭に浮かんだのは、今日の日付だ。
2028年3月31日 金曜日 …あの約束の日。
「まさか...」慶一は首を振った。
アヤメが来るわけない…もう有名人だしな。
テレビで彼女の姿を見るたび、胸が締め付けられた。美しく成長し、プロのダンサーとして輝いている姿。まさに夢を掴んだ彼女に、もう自分の入る隙間はないだろう。
それでも、確かめたい。
家に立ち寄ってゼファーに乗り換える。エンジン音を聞くと、あの頃の記憶が蘇ってきた。
「バカみたいだな、俺も」スロットルを全開にし、急加速で高速に乗り大阪方面に向かった。
あの、御津公園へと…アヤメのあどけない顔、忘れていた愛を想い出しながら…
****
「慶ちゃん、来るかな...」
午後6時45分。御津公園のベンチに、アヤメは座っていた。
懐かしい…いつもの場所。いつもの約束時間午後7時より15分早く着いた。
桜が満開だ。時折、風が吹くたびに花びらが舞い散る。美しい夜。
「綺麗…」うっとり浸る余裕が無い。心臓の鼓動が聞こえそうなほど緊張していた。
5分後、10分後...時計の針が7時を指そうとしていた時、公園の向こうに救急車が止まっているのが見えた。
何かあったのかな…
気になりながらも、アヤメは約束の時刻を待った。
慶一は、御津公園に約束の15分前に到着していたが、未だゼファーにまたがって周辺を彷徨いていた。なかなか公園に足を向けることができずに。
「本当に行くのか?」
自問自答を繰り返して、Uターンしてアクセルを吹かした瞬間、花見帰りの酔っ払いが道路にふらつきながら出てきた。
「危ない!」ギーーーーッツ!!
慶一は急ブレーキをかけて避けようとしたが、バイクがバランスを崩して転倒してしまった。
ガシャーーン!!
「だ、大丈夫ですか!!」
酔っ払いの男性は顔面蒼白になり、慶一に駆け寄った。
「すみません!すみません!大丈夫ですか?救急車を呼びます!」
「いえ、大丈夫です」慶一は立ち上がろうとしたが、足に軽い痛みを感じた。
「ジッとしてて下さい!私のせいで怪我をさせてしまった!すいません!」
男性は既に救急車を呼んでいた。
午後6時55分。救急車のサイレンが響いた。
「本当に大丈夫なので、約束があるので…」慶一は断ろうとしたが、男性は聞かない。
「お願いします。私の責任です。きちんと病院で診てもらってください!」
慶一の脳裏に浮かんだ考え。
有名になったアヤメが、まさか5年前の約束なんて覚えているはずがないだろ。こんなところに来るわけがない…そうだ。そうだよな…
約束の時刻まで残り1分。
「…分かりました!病院に行きます」
救急車に乗り込みながら、慶一は公園の方向を見つめた。
サイレンを鳴らしながら、救急車は公園から離れていく。
車中から外を眺めながら、慶一は心の中で何度もつぶやいた。得心するように…
これで良かったんだ…そう、これで良かったんだよ。
俺達は、新しい現実に向かって歩んでいる。
もう、過去には戻れない。俺も、アヤメも…
午後7時ちょうど。
アヤメは公園のベンチに座り、周りを見回していた。慶一の姿はない。
「やっぱり...」
心のどこかで分かっていた。5年も経てば、人は変わる。慶一にも新しい人生があるだろう。
7時15分。若い男性がアヤメに気づいて近づいてきた。
「あの...もしかして、流山アヤメさんですか?」
「はい」アヤメは微笑んで答えた。
「大ファンです!サイン書いてもらえませんか?」
「もちろん」
アヤメは快くサインを書いた。こんな夜に、ファンが声をかけてくれることが嬉しかったが、慶一ではない。
7時30分、8時... 慶一は現れなかった。
午後8時を過ぎた頃、アヤメは立ち上がった。桜の花びらが頬に触れる。
「慶ちゃん!」
アヤメは夜空を見上げて、心の中で話しかけた。
5年前の約束を思って来たけれど、そんなわけないよね。きっと素敵な人と出会って、幸せな家庭を築いているのよね…涙は流れなかった。代わりに、温かい気持ちが胸に広がった。
慶ちゃん、ありがとう!あの時、私の背中を押してくれたから、今の私があるの。
これで良かったよね!今日会えなくて。慶ちゃん幸せになってね。さようなら!
桜の花びらが舞い散る中、アヤメは歩き始めた。
その顔には、清々しい笑顔が浮かんでいた。
病院で検査を受けた慶一は、打撲程度の軽傷で済んだ。心配してくれた男性にお礼を言って、午後9時に病院を出た。
路肩に寄せていたゼファーを取りに、タクシーで御津公園に戻った。
「もう遅いよな…」
もう誰もいなかった。
無事だったゼファーのエンジンをかける。懐かしい音が夜に響く。
慶一は夜桜を見上げながら、心の中でアヤメに語りかけた。
アヤメ、君のお陰で俺は自分の道を歩んでいる!
ありがとう!アヤメ!いつまでもキミの幸せを想ってる!
今後こそ、本当に…さようなら!
****
その後、二人が再び出会うことはなかった。
あの日の約束は果たされなかった…
しかし、それぞれが歩んだ道は、きっと正しい道だったのだろう。
桜の季節が巡るたび、二人はきっと思い出す。あの美しい約束と、それぞれが選んだ未来のことを。
― 完 ―
挿入歌
さくら、そして君へ / 環 弦
https://www.youtube.com/channel/UCSnLNDaddLOfarhCcwP2sgA




