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第31話 さよなら!また会おう

 令和4年3月20日、桜のつぼみが膨らみ始めた卒業式の日。

 校舎から出てきた時、アヤメの心は満ち溢れんばかりの感情で震え、卒業証書を握りしめた手が汗ばんでいた。これで本当に高校生活が終わる、そして来週には、東京へ…


「アヤメ!」友人の麗香が走り寄ってきた。

「信じられない!本当にプロのダンサーになるのね!」

「東京のアックス事務所でしょ?すごいよ!」友人の健司も興奮している。

 アヤメは照れながら笑った。でも、胸の奥では寂しさがじわりと広がっていく。大阪を離れること、友達と別れること、そして...


「アヤメ!」振り返ると、アヤメの父、流山健三が立っていた。

 この一年で随分と変わった健三。家業を継がせる為の厳しい躾、習い事、勉強を強いるやり方に反発して家を飛び出したアヤメを、理解できずにいた父。でも今は、アヤメの夢を応援してくれている。

「おめでとう!」父の声が震えている。

「久美子も、きっと誇らしく思っているだろう…お母さんとそっくりだからな」父が続けた。「一途なところが。信念を貫き通すところが…」

 そう、私の母、流山久美子は、ピアニストになる夢を最後まで諦めなかった。でも…最後のオーディションに向かう途中で...事故に遭った。アヤメは胸が締め付けられるのを感じていた。…母さんも、夢を追いかけていたんだ。私と同じように…目が熱くなった。母さん!


 その時だ。

 ブゥウゥゥゥン!

 エンジン音が響いた。

 ブゥウゥゥゥン!ブゥウゥゥゥン!

 居場所を知らせる様に響く。

 ブゥウゥゥゥン!ブゥウゥゥゥン!ブゥウゥゥゥ〜ン!

 まるで誰かを呼んでいるように、何度もエンジンを吹かす。

 何か、聞き慣れた音…私の心臓が跳ね上がった。

 まさか...カワサキゼファーの、あの懐かしい音だ!


「慶ちゃん...!」

 アヤメは音の方向に走り出していた。制服のスカートが風でなびく。心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動している。学校の門のところで、アヤメは立ち止まった。


 そこに、慶一がいた。

 慶一が、ゼファーにまたがってアヤメを見つめていた。ヘルメットを脇に抱えて、あの優しい眼差しで。

「慶ちゃん!」

 アヤメは声を上げて駆け寄った。八ヶ月ぶり。あの夜、御津公園で別れてから八ヶ月。毎日毎日、会いたくて会いたくてたまらなかった。

「アヤメ!」

 慶一がバイクから降りる。


 アヤメはもう我慢できなくて、慶一の胸に飛び込んだ。

「慶ちゃん!慶ちゃん!」

 アヤメはもう泣いていた。嬉し涙が頬を伝って流れ落ちる。慶一の腕が私を包み込む。温かくて、懐かしくて、安心できる腕。

「会いたかった!」アヤメは嗚咽混じりに言った。「ずっと、ずっと会いたかった!」

「俺もだ!」慶一の声も震えている。「毎日、アヤメのことを考えていた!」

「嫌いになったって言ったじゃない!」

「ごめん!ああするしか無かったんだ…」

 しばらく二人は抱き合ったまま動かなかった。周りの人たちの視線なんてどうでもよかった。今この瞬間が、すべてだった。


「卒業、おめでとう」慶一がアヤメの髪を撫でながら言った。

「ありがとう…」慶一の胸で答えた。「東京のこと、メッセージで報告したよ」

「すごく嬉しかった!アヤメの夢が叶って」アヤメは顔を上げて慶一を見つめた。目が赤くなっている。

「家まで送っていこうか?」慶一が提案した。

「うん!」私は満面の笑みで頷いた。「久しぶりのタンデム!」

 ゼファーにまたがり、慶一の背中にしっかりと抱きついた。この感覚も、懐かしくて愛おしい。


「覚えてる?」エンジンをかけながら慶一が言った。

「初めてアヤメをゼファーに乗せた時のこと」

「覚えてるよ!」私は大声で答えた。「グリ下から、実家まで。あの時は怖かったけど、でもすごく安心してたよ」

 バイクが走り出す。風が髪をなびかせ、頬を撫でていく。懐かしい街を駆け抜けていく。


 慶一の背中に顔を寄せながら話す。

「あの薬漬けの日々、お父さんの束縛から逃げていた日々…瞳ちゃんと一緒にいた共同アパートも、全部が今につながってるのね…」

「辛いこともあったけど、全部意味があったんだ」慶一が答える。

「そうね。あの時の私は、ただ逃げることしか考えてなかった。でも…慶ちゃんが、夢に向き合うことを教えてくれた」


 慶一は、山科のスナック二条に立ち寄った。母、二条のり子がアヤメを見て、涙ぐんでいる。

「アヤメちゃん!東京行くんだってね!あの…何かに怯えていたアヤメちゃんが、本当に立派になって!」

 外村も感激の面持ちで。「東京でプロダンサー!本当に凄いなぁ!」

「皆さんのおかげです!」アヤメは深くお辞儀をする。

「特に慶ちゃんが、私の背中を押してくれたから」

 のり子が自撮りの様に4人で写真を撮ってくれた。きっと、この写真は一生の宝物になる。

「くれぐれも気をつけて!いつでも遊びにおいで!」


 再びゼファーにまたがり、二人は琵琶湖を見渡せる山道を走った。夕日が湖面に反射して、キラキラと輝いている。

「きれい...」アヤメは思わずつぶやいた。

「アヤメが東京に行っても、この景色は変わらずここにある」慶一が言った。「故郷は、いつでも君を待ってる」

 胸がじんとした。滋賀。大阪。そして、慶一。


 流山家に着くと、父、健三が庭で待っていた。慶一を見て、複雑な表情を浮かべる。

「慶一君…か?」

 慶一が丁寧にお辞儀をする。父も、少し表情を和らげた。

「大学に通ってるって聞いたが?調子はどうだ?」父が言った。

「はい、社会福祉学を学んでいます。児童養護施設での実習も続けていて、とても充実しています」

 健三の目に興味深そうな光が宿った。「社会福祉か。私には縁の無い分野だから、あまり分からないが…人を助ける仕事は尊い。素晴らしい道を選んだね。」

「ありがとうございます」慶一が謙遜して答える。

「アヤメさんが東京でダンサーとして頑張っているように、僕も自分の夢に向かって歩んでいます」

 深く頷いた。健三の表情が穏やかになっていく。「そうか、以前は、君のことを誤解していたかもしれない。しかし今、君がアヤメの背中を押してくれたからこそ、彼女が自分の夢を掴めたのだと分かった」

慶一が驚いたような顔をする。「そんな...」

「いや、本当だ。アヤメが薬に溺れ、道を見失っていた時、君が彼女を支えてくれた。そして、アヤメの夢のために、恋愛に溺れずに、別々の道を歩んで、互いを高め合えって、ここまで来たんだな。若いのに大したものだ!これが本当の愛なのかもしれないな。父親として、心から感謝している」健三が微笑んだ。

 しばらく三人で庭を歩きながら話した後、健三は気を利かせて家の中に入っていった。


 残されたアヤメと慶一。桜のつぼみに囲まれて、二人きりになった。

「いよいよ、お別れね」アヤメが小さく言う。

 慶一は黙っている。表情が苦しそうだ。

「慶ちゃん?」

 二人は庭のベンチに腰かけた。でも、立ち上がろうとしない。別れの言葉を口にしようとしない。時計の針が進んでいく。午後6時が6時半になった。


「そろそろ...」慶一が言いかけて、止まった。

「うん...」アヤメも答えかけて、声が出ない。

 夕暮れが深くなっていく。庭に影が長く伸びて、桜のつぼみがシルエットになった。

「お父さん、心配してるかも」アヤメが呟いた。

「そうだね」慶一が答える。でも、どちらも動こうとしない。


 午後7時。街灯が点き始めた。

 2人は手を繋いでいた。慶一の手は温かくて、離したくなかった。この手を離してしまったら、本当にお別れになってしまう。

「東京の住所、教えて」慶一が言った。

「でも、連絡は取らないって決めたでしょ?」

「...そうだった」

 また沈黙。虫の声が聞こえてくる。


 午後7時半。完全に暗くなった。

 2人はゆっくりと立ち上がった。でも、手は繋いだまま。玄関まで歩く。一歩一歩が重い。まるで足に鉛がついているみたい。慶一は黙っている。表情が苦しそうだ。


「本当に、これで最後?」アヤメが震え声で聞いた。

「最後じゃない!」慶一が私の手を強く握る。

「そうなの?どうして…最後じゃないの?」私も握り返す。

「慶ちゃん…?」

「…そうだ、これでどうだ!アヤメ!聞いてくれ」

 慶一が私の手を取った。アヤメの胸が高鳴る。


「五年後だ」慶一が言った。

「五年後、もし俺たちがまだ独身で、まだ誰とも付き合ってい無かったなら...」

 アヤメは息を呑んだ。

「2028年3月31日。金曜日。午後7時。御津公園で会わないか?」

 アヤメの目から涙が溢れた。桜が満開の季節。私たちがいつも待ち合わせしていた場所。いつもの曜日、いつもの時間だ。

「慶ちゃん...!」

「俺は君を愛してる。でも、今はお互い歩む道、夢が一番大切だ。だから、待つ。五年待つ。君が東京で頑張っている間、俺も自分の道を歩む。そして五年後...もしも」

 アヤメはもう声にならず、ただただ泣いていた。

「もし、その時、まだ…」

 アヤメは激しく頷いた。「うん!うん!約束する!」

 慶一がアヤメを抱きしめる。泣きながら抱き合った。周りの桜のつぼみが、2人の約束を見守ってくれているように。


「愛してる」慶一がささやく。

「私も。ずっと愛してる」

 時間が止まったように2人は抱き合った。やがて、慶一がゆっくりと私を離した。

「もう、行かなくちゃ」

「うん」

「五年なんて、あっという間よ!」アヤメが無理に明るく言う。

「そうだな。俺も社会福祉士の資格を取って、立派になって待ってる」

「私も、一流のダンサーになって帰ってくる」

「アヤメなら絶対に大丈夫。アヤメは強いから」 慶一がアヤメの頬に手を当てた。


「慶ちゃんがいてくれたから、強くなれたの」

 最後のキス。優しくて、愛に満ちたキス。


「さよなら、アヤメ!また会おう!」

「さよなら、慶ちゃん。でも、また会うのよ!絶対に」


 慶一がヘルメットをかぶる。ゼファーのエンジンがかかる。

「2028年3月31日!」アヤメが叫んだ。

「御津公園で!」慶一が叫び返す。


 ゼファーが走り去っていく。

 エンジン音がだんだん小さくなって、やがて聞こえなくなった。

 アヤメは一人、桜のつぼみの下に立っていた。涙は止まり、胸の奥で温かい何かが灯っている。

 それは、希望。愛。そして、約束。


 空を見上げると、夜空に星が瞬いている。

 風が吹いて、桜のつぼみが揺れた。まるで、応援してくれているみたいに。


 挿入歌 追いかけた夏の終わりに/ 環 弦 Ver https://www.youtube.com/watch?v=FiXnUFxsC10

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