5-旅は始まりますか
総一郎が目を覚ましたのは、扉の向こうから朝のざわめきの聞こえ始めた時間だ。
明かり取りの船窓からは、昨日と変わらぬ海が見える。まだ覚醒しきらぬ頭の中で、夢じゃなかったなぁとぼやく。
巨大な船故に揺れは少なく、酔いはなかった。体をたしかめると羽織袴は脱がされ、帯のゆるみきってはだけた着物がだらしがない。枕元に置かれていた水差しから木のコップに水を注いで一気に煽る。船だから木の食器なのかガラスは存在するのか等、昨日より若干余裕が出来たので考えてしまう。
「タカギ様、入りますね」
ノックの後に入ってきたのは二十代前半の見た目の女性だった。耳はやはり尖っていて、動きやすそうなクリーム色のシャツと濃緑のパンツ姿で、その上からエプロンをしていた。
「お加減はいかがです?」
「もう平気です。他のみなさんは?」
「朝食の時間になりますので、食堂へお集まり頂くようお伝えに参りました」
「そうですか。あの、顔とか洗えます?」
水事情がいまいちわからないので尋ねたが、女性はてきぱきと洗面器らしきものに水を張ってくれた。ありがたく潮がついたままだった顔を洗い、申し訳程度に首まで洗って手ぬぐいを貰った。タオルに比べて硬いが水はよく吸った。
「朝シャワーとかだめだろうな……あっ!」
突然総一郎が声をあげたので、女性がびくっと肩を揺らした。
「あっ、すいません、こっちのことです……」
ペコリと頭を下げて、総一郎は帯に手をかけた。
これは参った。
「おう! 高木殿、具合はどんなじゃ」
ノックも無く入ってきたのは清十郎と、おそらく清十郎を案内してきたメイド風の少女だった。清十郎はすっかり身支度を終えていて、総一郎は渡りに船と顔を輝かせた。
「清十郎さん、おはようございます、昨日はご迷惑をおかけしました」
「そがなことええわい。具合がええならよかったわ。船頭さんが朝飯を食わせてくれる言うとるけぇ、迎えに来たんじゃ」
「助かります清十郎さん。申し訳ないんですけど、帯の締め方を教えて貰っていいですか……?」
とても申し訳なさそうな総一郎に、清十郎は返事をする前にずしずしと歩み寄り、半端に崩れた総一郎の帯をシュルリと抜き取った。
「なんじゃい、高木殿は帯の結び方も忘れたんか」
「普段はもう洋服なので、浴衣以外を着るのは初めてだったんです」
「はぁ、わしらのとこも、洒落ものは洋装を着とるけぇのう。そういう風になるんじゃのう」
清十郎は乱れた長襦袢まで解いて、きっちりと気付け直してくれた。流石現役は違う。
「皆ぁもう集まっとるらしいけぇ、結びはあとで教えちゃるよ」
「ありがとうございました!」
汚れた足袋を履くのは少し嫌だったが、履かないと軟弱な指の皮が破れてしまう。
メイド少女に先導され、緑パンツの女性もあとをついて来た。
数分歩いた場所に、食堂らしき広間があり、昨日会ったフェンの父、スラーと鉱士郎が会話をしているところだった。
「総一郎殿、よく眠れましたか」
「おかげさまで」
挨拶を交わし、スラーの左斜め前に腰掛ける。鉱士郎はその向かい側、清十郎は総一郎の隣だ。
テーブルに温かなスープが運ばれ、ゆで卵まであった。船内に鶏を飼っているのだろうか気になる。
「フェンの……娘さんの具合は如何ですか」
「まだ部屋におりますが、朝食を食べる元気があるようです」
「それはよかった」
「さぁ、まずは食事をどうぞ。お腹が空いたでしょう」
昨日も結局何も食べられなかった総一郎は、遠慮なくスープに匙を入れた。味はよくわからなかったが、塩分不足と空腹の体に沁みる。
隣を見ると、清十郎がバター壷を不思議そうに眺めているので、バターナイフを持ち上げて中身をすくってやる。
「これはパンにつけるバター……名称は違うとおもうんですけど」
「バターであっていますよ」
「あってるんだ! えっと、こうやって好きなだけ塗ります」
目で救いを求めると緑の女性が補完してくれたので、清十郎にカットされた丸パンを手渡す。清十郎がかじり付くと少し驚かれたが、明治時代の人間にパンの食べ方マナーは浸透していない。
「んっ……塩と脂……?」
「牛の乳……牛かなぁ。多分何かの乳から作るんです。俺はジャム派です」
赤い瓶にはベリー系の味がするジャムが入っていた。清十郎はバターが気に入ったのか、たっぷり塗っている。
「おいしい! 鉱士郎さんのそれ、何味ですか?」
「マーマレドと杏に似ています」
「わっ、マーマレード好きなんです」
ジャムをトレードして、清十郎のパンにも塗ってやると目を丸くして「蜜柑をこげにしたんは始めてじゃ」とこれも気に入って食べていた。
成人男性三人、しかも体力を奪われたあとの食事は大騒ぎで、薫製肉の塩漬けも卵も果物もぺろりと平らげた。
「はぁ……御馳走様でした」
「船頭殿、馳走になった」
食後のお茶が出され、全員がスラーに礼を言う。九死に一生からの満腹天国だ。
「船の上ゆえ品に限りがありますが、満足して頂けてよかった。陸にあがりましたら是非我が家で自慢の料理を召し上がって頂きたい」
「陸ですか。それは何日ほどかかりますか」
「航路を急遽変更いたしましたので多少のズレはありますが、七日はかかりますまい」
聞きたい事は山ほどあった。
花茶を飲みながら、総一郎はカップで手を温めながら三人を見回した。目があった鉱士郎が「先ほどスラーさんからお聞きしたのですが」と穏やかに口火を切る。
「この世界では月来人と呼ばれる人は珍しくはないそうです」
「そうなんですか!?」
「五十年、百年に一度はこの海に浮かんでいるらしく、彼らはみなオールを漕いで陸に渡り、そのまま住み着く人が多いそうです」
「オール、欲しかったですね……」
人力オールを思いだし、総一郎がげんなりとした顔になる。
「我らは皆長く生きるゆえに我ら以外にも月来人と直接海上で出会ったものもおる。月来人は皆性質穏やかで、我らよりも先に死んでしまうので、バスティナ神が気まぐれに我らを見るために遣わされているのだと皆信じております」
「バスティナ神というのは、この世界の神様ですか」
「左様です。この世界にはバスティナ神のみしかおられない。月来人はさまざまな価値観を持っておられると聞くが、そういうものだとまず思って頂けるとありがたい」
「たった一人の神さんか」
一神教はなじみが薄く、鉱士郎もクリスチャンではない。三人は言われたとおりにその話を流し、聞きたかったことを一つずつ質問する。
まず、スラーたちはエルフではない。というよりも、エルフという種族名は存在せず“バスティナ人”と一括りされるらしい。この世界では、総一郎たちの耳の形のほうが珍しく、一目で月来人とわかるそうだ。猫耳の女の子が居ないのは残念だったが、田口君の怨念が届かなくてよかったなと総一郎は思う。彼は嫉妬で人を殺せると公言しているイかれた男だ。
彼らは海側と砂漠側に大きく二つに居住箇所を割っており、海側は交易や商業施設が並び立ち、金銭も紙幣が流通している。対して砂漠側は太古から伝統的な暮らしを守る小部族に分かれているらしい。
“国”というよりは“州”という単位で成り立っているそうだ。国の名前は皆知っていても使用しない。世界は一つの国だからだ。
国がひとつなので“戦争”は存在しない。ただし、争いが無いわけではない。
「ほんで、船頭殿の娘御が襲われたんは、おどしかい」
「そうです。砂漠側に住む少数部族、まだ確定はしておりませんが目星はついております」
「目的はなんですか? 身代金?」
「いいえ、彼らは金銭を所持しません。そして金銭を持たぬ暮らしを捨てた我らを害悪とし、古き時代に戻そうとしているのです。娘を奪い、私の商売をやめさせたいのです」
「なんとも気の長い話じゃ。ゼニはもう国の半分で使うとる。みぃんな燃やしでもせんといかんじゃろ」
スラーは疲れたように頷いて、冷めたお茶のおかわりを頼む。
「勿論彼らもわかっていますが、それでも消えゆく古い暮らしを取り戻させたいのでしょう。それがバスティナ神の望みだと口を揃えていうのです」
狂信か、妄信か。なんとも手の出しようがなく、どうにも解決出来ない。
「古い考えにとりつかれると、そうなりよる。髷を切られん、刀が持たれんのは耐え難し。時代は変わり、頭の中だけが置き去りの人間はのう、どうしょうもないわい」
思い当たることがあったのか、清十郎が腕を組んで天を仰ぐ。
「この国の事情は、おおよそはわかりました。スラーさん、俺たちを保護していただいたこと、大変ありがたく思います。ですがこのままずっとというわけにはいかないでしょう。月来人は、どんな暮らしをしていたのですか?」
それこそが一番聞きたかったことだった。
あちらには帰れず、今は身ひとつなのだ。
「月来人がおられれば、バスティナ神の目が厳しくなる。だがそれだけ加護が厚くなると言われております。この国のどこへ行かれるも自由ですが、なるべくならばお近くにいていただけると私どもは嬉しく思います」
総一郎が顎に手を当てて考え出すのを、清十郎も鉱士郎も、どこか面白そうに見ていた。
「手助け頂けるならばとてもありがたいです。陸に着いてからはまず、街の商業形態や相場、職業分布が知りたいですね。ずっとお世話になるのも心苦しいですし、俺は自分で稼げるようならばそうしたいです」
「ではそのように」
総一郎の提案に、スラーは手助けすると約束した。
「スラーさん、治安はどの程度ですか?」
「街中はそう悪くないが、積み卸し場付近は盗難が多いですね、お恥ずかしながら」
「では私は総一郎くんの護衛をしましょう。残念ながら商売の経験はありませんが見ての通り力はありますので、力仕事なども出来ますし」
「えっ、鉱士郎さん本気ですか?」
提案に総一郎は息を飲む。そもそも“護衛”などという概念が無かったのだ。ここは元いた国ではない。なんというお花畑だと脳天気さに自己嫌悪しそうだった。
「わしも腕にゃぁ自信があるけ、吉野殿とおんなし事を言おう思うとった。わしは“問屋場”の入り婿じゃけぇ、多少なりとも手伝えるわい。算盤も帳面つけもできるしの」
「それは……嬉しいです。やっぱり始めての世界で不安だし、お二人が一緒にいてくれるなら」
「気にするなや、こうなりゃ一蓮托生じゃ」
清十郎がからからと笑い、総一郎は思わず泣いてしまいそうなほど安堵した。不安以外無い道のりで、助けがあるのは心底ありがたい。
話はまとまり、疑問があれば船旅の間に解決するということで朝食の席は解散した。
三人の月来人が船の中を見たい、と云って共をつけられて居なくなると、スラーは総一郎につけていた世話役の“コニス”を手招いて様子を聞いた。
「どうも主従関係ではないようだな」
「はい、ですが総一郎様はやはり中心的な位置にあるようです。今朝も服の着方がわからぬと清十郎様に手助けを頼まれておりました」
「なるほど。大家の生まれではあるのかもしれん。月来人はこちらに来られる前のことを話したがらぬという。もう少し時間をおいて尋ねよう」
清十郎が“問屋場”なる場所で働いていたのを知っただけでも僥倖だ。
歴代の月来人は流れ着いた身を嘆き、尋ねられるのを酷く嫌がったとスラーは漏れ聞いていた。あの者たちは楽観的に見えたが、警戒されるのは少しでも避けたい。
スラーが要らぬ気を回している頃、呑気な三人は巨大船の甲板をはしゃぎながらまわっていた。郷に入れば郷に従え。それを受け入れ、体現できる性質の三人が集まったのはバスティナ神の思し召しか、はたまた運命のいたずらか。
フェンを拐った船を大破させたという魔法のことを目を輝かせて聞きまわる三人に、船員たちは幼子をみるかのように親切に教えこんだ。
月来人たちの旅は、とっくの昔に始まっていたのだった。