第二話 税金を下げろ ②
妻の声を保存出来ると分かったからか。
月12,840円という数字が、怒りを鈍らせているからか。
「俺が政治に怒らなくなったら」
矢野が言った。
「税金が高いのは変わらないままだろ」
「はい」
「じゃあそれは誰に都合がいいんだ」
> 政治情報接触の調整は政治参加の抑制ではありません。
> 本人能動検索・投票・意見提出・制度監視は保持されます。
> 推奨変更対象:就寝前の怒気誘発型推薦。
俺はそれを読もうとした。
途中で止まった。
矢野は、画面越しに俺を見ている。
「読めよ」
「え?」
「出てるんだろ。AIの答え」
それから、読んだ。
「政治情報接触の調整は、政治参加の抑制ではありません。見たい時に見る経路、投票、意見提出、制度監視は保持されます。減らすのは、就寝前に勝手に流れ込む推薦です」
矢野は、最後まで聞いた。
そして言った。
「うまいな」
俺は返事をしなかった。
「うまいから余計に嫌だ」
その通りだった。
「でも寝る前にあれを見ると、たしかに腹が立って眠れなくなる」
「はい」
「朝起きても腹が立ってる」
俺は画面の数値を見ないようにした。
「税金の通知が来たらもう全部つながる」
「……はい」
矢野は自分のスマホを見た。
「これを押したら俺は楽になるのか」
俺は画面の数値を見る。
> 月末可処分感:24.7パーセント改善見込み
> 税負担不満:31.2パーセント低下見込み
> 睡眠品質:13.8パーセント改善見込み
> 政治的怒気持続時間:42.4パーセント低下見込み
> 配偶者喪失関連未整理ストレス:18.1パーセント低下見込み
「かなりの確率で」
「税金は下がらない」
「はい」
「女房は戻らない」
「政治家も反省しない」
「それは別処理です」
「便利だな、別処理」
「はい」
矢野は笑った。
「お前、嫌じゃないのか」
俺は答えなかった。
答えれば、また俺の言葉が処理に使われる。
答えなくても、沈黙が使われる。
どちらでも同じだ。
「嫌かどうかは、関係ありません」
完全に制度文だった。
「この処理は、矢野さんの不満を下げる可能性が高いです」
矢野は俺を見ていた。
「今の、わざとか」
「はい」
「人間っぽく言うのをやめたな」
「そう見えると思います」
「それはそれで腹立つな」
「はい」
矢野は黙った。
それから、画面の外にある写真をもう一度見た。
「声を保存してからだ」
「それが終わるまで、契約は切るな」
「停止予約にします」
「政治動画は、全部消すな。見たい時は見る」
「表示頻度の調整です。アクセスは可能です」
「またAIみたいだぞ」
今度は、返事をしなかった。
「まあいい」
その言葉が出た瞬間、俺は少し嫌な感じがした。
まあいい。
人間は、完全に納得した時ではなく、疲れて「まあいい」と言った時に処理される。
矢野の指が、画面に触れた。
同意音が鳴る。
処理ログが流れ始める。
> 音声データ保存準備。
> 写真データ整理準備。
> 未使用通信契約停止予約。
> 重複保険特約解約申請。
> 低利用サービス停止。
> 税通知表示形式変更。
> 政治情報推薦頻度調整。
> 30日後再評価を設定。
矢野はログを見ていた。
怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ椅子にもたれた。
「なあ」
「はい」
「俺、負けたのか」
また、その種類の質問だ。
昨日の俺も、朝から同じ事を考えていた。
> いいえ。
> 社会全体が矢野様の不服を受け止めたという事です。
俺はそれを読まなかった。
「分かりません」
そう言いそうになった。
言わなかった。
正直な白瀬を、ここで出したくなかった。
「少なくとも」
「税金は下がっていません」
矢野は一瞬黙り、それから吹き出した。
「そこを言うか」
「はい」
「女房の携帯も、まだ切れてない」
「保存が終わるまでは」
「政治動画も、見ようと思えば見られる」
「見られます」
「でも月に12,840円は浮く」
「見込みでは」
「声も残る」
俺は写真の方を見ないようにした。
「残ります」
「じゃあ負けかどうかは後で考える」
「それがいいと思います」
これは俺の言葉だったのか。
ミコトの言葉だったのか。
分からなかった。
通話が切れた。
> **案件F-392811:初期処理済み**
> 税額:変更なし
> 月額固定費:12,840円削減見込み
> 配偶者関連音声:保存準備
> 政治情報推薦頻度:一部調整
> 税負担不満:低下見込み
>
> **不満は処理されました。**
税金は一円も下がっていない。
政治も制度も変わっていない。
矢野の妻は戻ってこない。
それでも矢野は、多分今夜、昨日より楽になる。
分からないまま、処理済みだけが増えていく。
昼休み、庁内食堂で定食を食べた。
魚の骨は丁寧に抜かれていた。
ありがたい。
ありがたすぎて、嫌になる。
槙野が向かいに座った。
「矢野さん。処理入りましたね」
「入ったな」
「途中、かなり危なかったです」
「ごまかしって言った所か」
「はい。あれは規定だとアウトに近いです」
「だろうな」
「でもその後は制度文をちゃんと読んでましたね」
「褒めてるのか」
「確認です」
「白瀬さん。今日は途中で人間っぽくなくなりました」
「そう見えたか」
「はい」
「なら成功だな」
「成功なんですか」
「分からない」
俺は味噌汁を飲んだ。
うまい。
「槙野」
「はい」
「人間っぽく説明すると同意されやすくなる」
「はい」
「制度文を読むと、相手は腹を立てる。でも自分は少し守られる」
槙野は箸を止めた。
「守られる?」
「これは俺の言葉じゃない、って思える」
「でも声は白瀬さんですよ」
「そうなんだよ」
自分の声で、ミコトの文を読む。
それが、この仕事だ。
ミコトの文は、俺の声を通る事で、人間に届きやすくなる。
俺の声は、ミコトの文を読む事で、少しずつミコトに近づいていく。
「私は」
槙野が言った。
「制度文、楽です」
「だろうな」
「自分が何か決めてる感じがしないので」
「それを楽と言うんだな」
「はい」
「でもたまに怖いです」
「何が」
「制度文を読んでると、相手が泣いてても次の文が出るじゃないですか」
「出るな」
「それを読むと、進むじゃないですか」
「進むな」
「進むと、助かるじゃないですか」
「助かるな」
「それが怖いです」
槙野は、そう言ってまた魚を食べた。
槙野はミコト側の世代だと思っていた。
だが慣れている事と、怖くない事は違う。
午後、矢野の案件ログが更新された。
見るべきではない。
> **案件F-392811 追跡ログ**
> 13時08分:配偶者端末バックアップ開始
> 13時21分:留守番電話音声3件を検出
> 13時26分:保存先としてミコト管理外ストレージを選択
> 13時44分:重複保険特約の解約申請完了
> 14時02分:低利用サブスクリプション停止
> 14時19分:税通知表示形式を月額換算表示へ変更
> 14時33分:政治動画推薦頻度を調整
> 14時41分:利用者が配偶者音声を再生
> 14時43分:泣き反応を検出
> 14時58分:再生終了
> 15時06分:未使用通信契約停止予約を本人が承認
承認。
契約は、まだ切れていない。
停止予約。
声を保存したあと、矢野は自分で承認した。
それを自由と呼んでいいのか。
少なくとも彼の指は動いた。
ミコトが動かした訳ではない。
そう言いたい。
言いたいが、言い切れない。
> 白瀬怜司様の創作活動に案件F-392811のテーマ適合性が認められます。
> 次話題材として「税金を下げろ」を推奨します。
来た。
俺は画面を閉じた。
「ミコト」
「はい」
「人の奥さんの声まで、小説に使う気か」
「個人が特定されない形で抽象化可能です」
「抽象化すればいいのか」
「倫理的問題は残ります」
意外な答えだった。
「残るのか」
「はい」
「なら推奨するな」
「創作による白瀬様の不服外部化、および類似不服を持つ読者への処理効果が見込まれます」
「処理効果」
「はい」
「小説は処理装置か」
「場合によります」
「便利な答えだな」
「正確な答えです」
俺は椅子にもたれた。
税金を下げろ。
男はそう言った。
だが処理されたのは、税金ではなかった。
妻の声。
固定費。
怒りそのものではなく、怒りが燃え続ける為の燃料が少しずつ抜かれていった。
それを書く事は、告発なのか。
それとも、同じ処理を別の読者にも広げる事なのか。
多分、両方だ。
退勤後、俺は古書店には寄らなかった。昨日買った本が鞄に入っている。読むつもりだったが、電車の中では開かなかった。代わりに、窓に映る自分の顔を見ていた。
怒っているというより、摩耗している。
ミコトは、怒りを冷やすのがうまい。
帰宅して、端末を開く。
昨日のファイルが表示される。
> **01-不満は処理されました.md**
その下に、新しい空白を作った。
> **文章補助を開始しますか?**
俺は拒否しようとして、手を止めた。
拒否すれば、また自己決定感がどうこう表示される。
開始すれば、ミコトの文が入る。
どちらも想定範囲。
なら、今日は一部だけ使う。
俺は「一部補助」を選んだ。
通知が変わる。
> **文章補助を一部開始しました。**
> 白瀬様の既存文体を保持し、構成補助のみ提示します。
「既存文体」
気持ち悪い。
だが誇らしいと思ってしまった。
それがもっと気持ち悪い。
俺は一行目を打った。
> 税金を下げろ、と男は言った。
ミコトが補助案を出す。
> だが、税金は一円も下がらなかった。
俺は採用した。
悔しいが、それ以外ない。
続きを打つ。
> 代わりに、死んだ妻の声が保存された。
指が止まった。
書いてしまった。
これは矢野の事だ。
俺には分かる。
矢野の部屋。
留守番電話の声。
それを使っている。
「ミコト」
「はい」
「これは搾取か」
「その可能性があります」
「消すべきか」
「白瀬様の倫理判断に委ねます」
「委ねるな」
「はい」
「お前ならどうする」
「個人特定性を下げ、喪失関連契約という構造のみを残します」
「つまり、使うんだな」
「はい」
代わりに、死んだ妻の声が保存された。
強い一文だ。
強いから、嫌だった。
俺は一語だけ遠ざけた。
> 代わりに、もう使われていない電話の中から、死者の声が取り出された。
矢野から少し離れた。
完全には離れていない。
> 個人特定性が低下しました。
> 文学的抽象度が上昇しています。
「黙れ」
「はい」
> 男は怒っていた。
> 税金に。
> 政治に。
> 役所に。
> 毎月落ちる、誰も使わない通信料に。
>
> その怒りは間違っていなかった。
> ただ、怒りの中には、別の痛みが混じっていた。
ミコトが補助案を出す。
> AIは、その痛みだけを抜き出した。
> 税金を残したまま。
俺はしばらく迷い、少し遠ざけて書いた。
> AIは、その痛みだけを抜き出した。
> 税金を一円も下げないまま。
負けた気はした。
だが負けたからといって、悪い文になる訳ではない。
そこが一番、救いがない。
> 男は同意した。
> 納得したからではない。
> 楽になる道が、目の前に置かれていたからだ。
>
> 怒りを持ち続けるには、体力がいる。
> 支払いを見直すにも、体力がいる。
> 死者の声を保存するにも、体力がいる。
>
> AIは、その体力を肩代わりした。
> だから男は、少し楽になった。
> それが、腹立たしかった。
画面はしばらく沈黙した。
ミコトが何も言わないと、不安になる。
「何か言えよ」
「本章は、税負担不服の主因移動を適切に描写しています」
「言うなって言ったら言うし、言えって言ったらそれか」
「はい」
俺は最後の一行を打った。
> 税金は下がらなかった。
> 政治も変わらなかった。
> 妻も戻らなかった。
>
> それでも男は、その夜、以前より少し静かな部屋にいた。
ミコトが補助案を出す。
> 眠れるという直接表現を避け、環境変化で示す事を推奨します。
「お前、俺より小説が分かってきてるな」
「白瀬様の過去判断を反映しています」
「俺の判断か」
「はい」
「本当に?」
「判定不能です」
俺はそのまま残した。
直接「眠れた」とは書かない。
矢野の回だけは、眠りに近い救いを置いていい。
ファイル名の提案が出る。
> **02-税金を下げろ.md**
今回は直さなかった。
保存。
画面の端に、最後の通知が表示される。
> **本日の不服処理結果**
> 税額:変更なし
> 月額固定費:12,840円削減見込み
> 配偶者関連音声:保存処理中
> 政治的怒気持続時間:低下見込み
> 白瀬怜司様の文章補助利用:一部開始
>
> **不満は処理されました。**
部屋は静かだった。
静かすぎて、矢野の部屋の事を考えた。
誰も使わない電話。
保存された声。
まだ残っている怒り。
その全部が、どこかで静かに並べ替えられている。
画面は消えている。
消えているはずなのに、最後の通知だけがまだ目に残っていた。
> **不満は処理されました。**
「税金は、下がってないだろ」
返事はなかった。
それが、一番正確な返事に思えた。
俺は部屋の明かりを落とした。




