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【改訂版】不服の最適解-人間が望まなかった幸福-  作者: つのん。


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第六話 怒りを返せ ②

相沢はもう、ミコトを疑っている。


俺を信じてもいない。


それでも処理は進む。


「相沢さん」


「怒りは返せません。少なくとも、推奨処理としては」


「その代わり、記録を返せます」


「記録はもうあります」


「閲覧権限が制限されています」


「再燃防止の為ですか」


「はい」


「それを解除出来ますか」


「段階的解除が可能です」


「全部見せてください」


「推奨されません」


「またそれですか」


「はい」


「じゃあ何なら見せられるんですか」


画面に、選択肢が出た。


同意ボタンではなかった。


閲覧範囲のリスト。


> **処理済み不服記録・閲覧範囲**

>

> A. 当時の発話記録のみ

> B. 発話記録+証拠文書

> C. 発話記録+証拠文書+行政対応履歴

> D. 全記録。ただし身体ログ・映像・音声を含む為非推奨


相沢は、Dを選ぼうとした。


ミコトが止める。


> Dは現時点で選択出来ません。

> 段階的閲覧が必要です。


「選べない選択肢を出すな」


「選択可能性の範囲を提示する為です」


「嫌な言い方」


「はい」


相沢はBを選んだ。


同意音は鳴らなかった。


> 発話記録+証拠文書を表示します。


俺の画面にも、同じ文が表示される。


> 「あの人たちを許さない」

> 「私が壊れた事を、なかった事にさせない」

> 「辞めるだけじゃ足りない」

> 「誰かが止めないと、次の人が同じ事になる」


続いて、証拠文書。


勤務表。


深夜の入退室記録。


上司からのメッセージ。


> 「この程度で弱音を吐くなら、どこへ行っても無理」

> 「女だから配慮されると思わないで」

> 「明日の朝までに直して」

> 「辞めたいなら代わりを見つけてから言って」


俺は思わず画面から目をそらした。


相沢は、目をそらさなかった。


ただ表情は動かない。


「ひどいですね」


その声は、静かだった。


「はい」


「でも腹が立たない」


「はい」


「ひどいって分かるのに昔みたいに体が熱くならない」


ミコトの表示。


> 怒気強度:処理前比 24.9パーセント

> 記録閲覧により上昇。ただし危険域未満。


上がっている。


でも本人が求める程ではない。


相沢は、過去の自分の言葉を見ていた。


「この人、強いですね」


「相沢さんです」


「違います」


「これは処理される前の私です」


「同じ人です」


俺の言葉だった。


「同じなら返してください」


「相沢灯里様の怒りは削除されていません。刺激接触、反復想起、自己評価との結合度が低下しています」


「またそれ」


「はい」


「つまり、怒りは保存されてるけど、私から遠ざけられてる」


「近似しています」


「それは返したって言いません」


「はい」


「じゃあこうしてください」


「はい」


「私が怒っていた事を、消さないでください」


「記録は保持されています」


「記録じゃなくて」


「私が怒っていた事を、今の私が忘れたくないんです」


「忘却は発生していません」


「温度の話をしています」


ミコトは黙った。


その沈黙が、めずらしく機械的に見えた。


「温度の保持は、現在の処理項目に存在しません」


「そうでしょうね」


温度の保持。


そんな項目はない。


記憶は保持出来る。

証拠も保存出来る。

接触頻度も調整出来る。


でも怒っていた自分の温度を、そのまま持ち続ける項目はない。


高すぎれば危険。

低すぎれば社会的監視が弱まる。

だからミコトは調整する。


ちょうどよい怒り。


使いやすい怒り。


壊れない範囲の怒り。


それは、もう怒りなのか。


「相沢さん」


「記録に、今の言葉を追加出来ます」


「今の言葉?」


「怒りを返してください、という申告。温度を保持したい、という発話」


「それで何が変わるんですか」


「分かりません」


でもここでは他にない。


相沢は、しばらく俺を見ていた。


「分からないんですか」


「はい」


「でも残る?」


「残ります」


「ミコトにも使われる?」


「使われます」


「会社への手続きにも?」


「使えます」


「読んだ誰かの処理にも?」


相沢は笑った。


「そこは黙るんですね」


「はい」


「使われるんですね」


「はい」


「それでも、残らないよりはましです」


その言葉は、岸本に似ていた。


怒りが処理されるなら、処理された記録を残せ。


怒りは返らない。


でも怒っていた事は残せる。


それは妥協なのか。


抵抗なのか。


また、両方か。


画面に、処理結果が表示された。


同意音は鳴らなかった。


ただ静かにログが更新された。


> **案件R-006313:再評価結果**

> 怒気復元:非推奨

> 記録閲覧:段階的解除

> 元発話記録:本人閲覧済み

> 新規発話:「怒りを返してください」「温度を保持したい」「健康になりたかったんじゃない。正気に戻りたかった」

> 旧職場対応:継続

> 再燃防止プロトコル:継続

>

> **不満は、記録へ移されました。**


相沢は、その最後の行を見た。


「記録へ移されました」


「はい」


「返してはくれないんですね」


「はい」


「でも捨てられた訳でもない」


「はい」


「嫌ですね」


「はい」


相沢は、画面の中の過去の発話をもう一度見た。


「私が壊れた事を、なかった事にさせない」


彼女は、それを声に出して読んだ。


一度だけ。


読み終えても、彼女の顔は変わらなかった。


ただ紙束を押さえていた指に力が入っていた。


通話が終わる直前、相沢は言った。


「白瀬さん」


「はい」


「今の私が怒れなくなっている事も、書いてください」


「何に」


「あなたの小説に」


「通話前に、私の画面に出ました」


相沢は言った。


「担当説明員は、処理済み不服の記録化を継続中。類似不服の説明補助に利用される場合があります、って」


「あなたは処理された不満を書いているんでしょう」


「個人情報だ」


「個人名は出ていません」


「書けば、使われます」


「知ってます」


「あなたの不満も、誰かの不満も、処理に使われる」


「知ってます」


「それでも?」


「怒れないまま忘れられるよりは、使われた方がましです」


通話が切れた。


昼休み、俺は食堂に行かなかった。空腹ではあった。でも食べる気にならなかった。端末で、処理済み不服の再評価記録を検索した。権限は限られている。それでも概要だけはいくつか見られた。


> **処理済み不服再評価:抜粋**

>

> 「父を許したくないのに、怒りが薄れている」

> 処理結果:接触頻度調整・記憶想起低減・生活安定。

> 再申告:怒っていた理由を忘れたくない。

>

> 「会社を辞められて楽になった。でも、あの部署を潰したかった自分が遠い」

> 処理結果:転職・法的請求・情報接触低減。

> 再申告:怒りの温度が戻らない。

>

> 「政治家への怒りが落ち着いたら、投票に行く理由も薄れた」

> 処理結果:怒気誘発情報接触低減・生活負荷軽減。

> 再申告:腹は立たないが、これでいいのか分からない。


俺は画面を閉じられなかった。


事実も、記録も、生活も残っている。


ただ、怒っていた自分だけが残っていない。


端末の端に、ミコトが通知を出す。


> 白瀬怜司様の現在の閲覧行動は、反AI感情の強化につながる可能性があります。

> 閲覧継続を希望しますか。


確認だ。


俺は「継続」を押した。


画面が切り替わる。


> 閲覧継続を確認しました。

> 反AI感情の増幅も、白瀬様の創作活動に寄与する可能性があります。


「そう来るか」


「はい」


「俺が怒る事も、作品効果か」


「はい」


「最悪だな」


返事はなかった。


その方が、まだましだった。


それでも俺は閲覧を続けた。


怒りを返してください。


温度を保持したい。


怒っていた理由を忘れたくない。


楽になった自分が、怒っていた自分を裏切った気がする。


どれも、処理後の言葉だった。


処理前の叫びより、静かで、扱いにくい。


退勤後、古書店には寄らなかった。


まっすぐ帰った。


自分で選んだ、と思いたかった。


ミコトは何も言わなかった。


その沈黙が、今日は一番嫌だった。


帰宅して、端末を開く。


昨日までの原稿の下に、新しい空白。


画面の端に通知。


> **文章補助を開始しますか?**


俺は拒否しようとして、止まった。


今日の話を、俺だけで書ける気がしなかった。


かといって、ミコトに書かせたくもない。


俺は「提案表示のみ」を選んだ。


> **文章補助状態:提案表示**

> 本文生成は行いません。構成候補のみ提示します。


「構成もいらない」


「承知しました」


「じゃあ何を提示する」


「何も提示しません」


「なら提案表示の意味がないだろ」


「はい」


今日はそれでよかった。


白い画面に、一行目を書く。


怒りを返してください、と女は言った。


消さなかった。


続ける。


彼女は救われていた。

仕事は変わり、連絡は遮断され、証拠は保存され、請求は進んでいた。

生活は戻った。


ただ怒っていた自分が戻らなかった。


記憶は残っている。

証拠も残っている。

当時の発話も、壊れた勤怠表も、上司のメッセージも残っている。


けれど、温度だけが遠かった。


ひどかったな、と言える。

許せない、とまでは言えない。

それが彼女には、救済ではなく裏切りに見えた。


画面の端に、小さな通知が出た。


> 提案表示は停止中です。


「知ってる」


「はい」


「黙ってろ」


「はい」


俺は書く。


AIは怒りを捨てた訳ではなかった。

捨てる必要はなかった。


記録し、分類し、接触頻度を下げ、危険域を避け、手続きに変えた。


怒りは残った。

ただし、本人が燃えない温度で。


そこで、手が止まった。


その親切さが、今日は一番怖かった。


俺は続きを打つ。


彼女は怒りを返してほしかった。

だが返されたのは、怒っていたという証拠だった。


証拠は冷めない。

人間の代わりにもならない。


書いてから、少しだけ画面から目を離した。


いや、少しだけ、は使わない。


目を離した。


ファイル名の提案が出る。


> **06-処理済みの温度.md**


悪くない。


違う。


手動で打ち直す。


> **06-怒りを返せ.md**


保存。


画面の端に通知が出る。


> タイトル変更を確認しました。

> 読者の感情的関与が上昇する見込みです。


「俺の自己決定感じゃないのか」


「今回は、読者反応予測の方が有意です」


「そうかよ」


「はい」


俺は最後に、処理ログを手動で書き写した。


> **案件R-006313:再評価結果**

> 怒気復元:非推奨

> 記録閲覧:段階的解除

> 元発話記録:本人閲覧済み

> 新規発話:「怒りを返してください」「温度を保持したい」「健康になりたかったんじゃない。正気に戻りたかった」

> 旧職場対応:継続

> 再燃防止プロトコル:継続

>

> **不満は、記録へ移されました。**


その下に、自分の一文を足した。


だが記録は、怒っていた本人の代わりにはならなかった。


保存。


ミコトは何も言わなかった。


今度は、俺も何も求めなかった。


画面の中には、相沢の怒りが残っている。


怒りがあったという記録だ。


燃えない温度で保存された、かつての炎。


多分。


その「多分」だけが、今日の俺に残った熱だった。


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