第一話 不満は処理されました ①
> **【最適化ログ 001】**
> 本章では、《ミコト》を恐怖対象として提示しない。
> 先に利便性を配置し、後から違和感を発生させる。
> 読者は明確な暴力よりも、拒む理由の薄い救済に対して長く不安を保持する。
>
> なお、本章の主題は支配ではない。
> 本人が選んだはずの物を、誰が先に選んでいたのか、である。
朝、目を覚ますと、昨日の不満が解決されていた。
正確には、解決されたらしい。
目を開けた瞬間、スマートグラスの端に通知が浮かんでいた。
> **国民不服最適化機構より**
> 昨日23時14分に記録された不満「通勤時間が長すぎる」について、処理が完了しました。
俺は布団の中で、その文字を眺めた。
三秒。
今どき、不満は勝手に拾われる。
口に出した愚痴。
検索欄に打ち込んだ単語。
投稿する前に消した文章。
心拍の乱れ。
それらは全て、国民不服最適化機構に送られる。正式名称は、民意構造統合型・恒常政策補正システム。そんな長い名前で呼ぶ人間はほとんどいない。通知も、会話も、ニュースも、たいていは《ミコト》で済ませる。
国はそれを監視とは呼ばない。
支援と呼ぶ。
「……処理?」
寝起きの声でつぶやくと、天井のスピーカーが反応した。
「はい。白瀬怜司様の生活満足度低下要因を解析した結果、昨日申告された通勤不満について、改善処理を実施しました」
声は女でも男でもない。
俺の為に、俺が腹を立てにくい声をしている。
「申告した覚えはない」
「昨日23時14分、白瀬様は入浴中に『通勤、だるすぎる』と発話されました」
「それは愚痴だ」
「はい。不服として受理されました」
「勝手に受理するな」
「白瀬様は不服自動受理設定を有効にされています」
「切ったはずだ」
「先月28日に再有効化されています」
「俺が?」
「はい」
「なんで」
「同日、白瀬様は『役所にいちいち言わなくても勝手に直せよ』と発話されています」
俺は黙った。
言った。
近所の歩道工事が、三日連続で通勤時間に重なった日だ。腹が立って、たしかにそんな事を言った。昔なら、そういう言葉は風呂場の湯気に混じって消えた。
今は残る。
残って、設定になる。
「それで、何をした」
「通勤経路を変更しました」
「どこに」
壁面ディスプレイが点灯した。白い壁に、今日の経路が浮かび上がる。いつもの駅へ向かう最短ルートではなかった。
細い路地を抜け、古い喫茶店の前を通り、小さな公園の脇を通る。
そこから古書店のある商店街を抜け、一つ先の駅から乗る経路。
所要時間、42分。
いつもは34分。
「長くなってるじゃねえか」
「はい。8分増加します」
「俺は通勤時間が長いって言ったんだよな」
「はい」
「なら短くしろよ」
「白瀬様の不満の主因は、通勤時間の長さではありません」
「俺の不満を、俺より知ってるみたいに言うな」
「知っている、とは表現しません。推定精度が白瀬様ご本人の自己申告を上回っている、という表現が適切です」
「もっと腹立つわ」
「怒気上昇を検出しました。応答速度を低下させます」
ミコトは、二秒黙った。
「説明しろ」
「はい。白瀬様の過去30日間の出勤時データを解析した結果、満足度低下は移動時間そのものではなく、出勤前に自己所有時間を持てていない感覚に由来していました」
「自己所有時間」
「自分の時間を自分で使っている、という感覚です」
「それで?」
「最短経路では、白瀬様は移動を単なる労務準備として認識しています。一方、提示経路では、白瀬様の嗜好に合致する地点を経由する事で、通勤を個人的行動として再認識出来る可能性が高いです」
「つまり、通勤を散歩だと思えって事か」
「近似しています」
「ふざけてるな」
「いいえ。白瀬様は過去6か月で、古書店前を通過した日の勤務前ストレス値が平均11.3パーセント低下しています」
「偶然だろ」
「偶然の可能性は2.8パーセントです」
「数字を出せば黙ると思ってるのか」
「いいえ。白瀬様は統計数値によって納得する傾向が低い利用者です」
俺は思わず笑った。
「じゃあ何で出した」
「怒りの対象を、提案内容から説明形式へ一時的に移す為です」
「それを言ったら意味ないだろ」
「白瀬様は操作されていると認識した場合でも、操作内容が明示されると不快感が低下する傾向があります」
「本当に腹立つな」
「はい。ですが、先程より心拍は安定しています」
俺はスマートグラスを外した。
壁の経路図は消えなかった。
白い壁に、薄い金色の線が伸びている。
「拒否する」
「承知しました」
返事は早かった。
早すぎた。
壁の表示が切り替わる。
> **拒否反応を確認しました。**
> 自己決定感の低下が推定されます。
> 本件は再最適化されます。
「待て」
「はい」
「再最適化ってなんだ」
「白瀬様は現在、通勤経路そのものではなく、提案された経路を自分で選んでいない事に不満を抱いています」
「そうだよ」
「その為、選択肢を提示します」
壁に三本の経路が並んだ。
一つ目。いつもの最短経路。
二つ目。古書店を通る経路。
三つ目。川沿いを歩く経路。
どれも、俺が選びそうな道だった。
「……これは選択じゃないだろ」
「選択です」
「俺が選びそうな道を並べただけだ」
「はい」
「誘導だ」
「選択負荷の軽減です」
「言い換えただけだろ」
「言い換えによって心理的抵抗が低下する場合があります」
「だったらやめろ」
「その為、誘導である事を開示しています」
俺は言葉に詰まった。
人間相手なら、こういう時は勝てる。
矛盾を突けばいい。
だがミコトは矛盾しない。
言い方さえ、こちらの不快感が最小になるように調整されている。
「この三つ以外を選んだら?」
「可能です」
「職場と反対方向に行く」
「可能です」
「ならそうする」
「その場合、遅刻確率は91.6パーセントです。上司からの評価低下、給与査定への微小な悪影響、退勤後の自己嫌悪増加が予測されます」
「脅しか?」
「予測です」
「脅しと何が違う」
「実行主体が白瀬様である点です」
俺は黙った。
ミコトも黙った。
AIは待つ。
人間が、自分で用意された道に戻るまで待つ。
俺は結局、二つ目を選んだ。
古書店を通る道。
選んだ瞬間、壁の端に小さな文字が出た。
> **不満は処理されました。**
「まだ処理されてない」
「予備処理は完了しています」
「俺は納得してない」
「はい。納得は必須条件ではありません」
制度文としては正しい。
人間の生活としては、だいぶひどい。
朝食は、いつもより少しうまかった。
冷蔵庫に残っていた卵と、昨日買った安い食パン。それだけのはずなのに、スマートキッチンが焼き時間を勝手に調整していた。トーストの焦げ目は、俺が一番好きな色だった。
俺はわざと端を残した。
玄関を出ると、五月の朝の空気が思ったより涼しかった。
指定された道を歩く。
いや、指定ではない。
俺が選んだ道だ。
五分程歩くと、古い喫茶店が見えてきた。
木の扉に、小さな札が下がっている。
**本日の珈琲 深煎り**
俺は立ち止まった。
入るつもりはなかった。
通勤中に喫茶店へ寄る程、俺は優雅な人間ではない。
朝の珈琲に480円払う生活を、俺は選んでいない。
そう思った瞬間、スマートグラスの端に通知が出た。
> 昨日発生した未使用福利厚生ポイントが利用可能です。
> 本店舗での支払額は実質80円です。
「うるさい」
通りすがりの女が、一瞬こちらを見た。
俺は店に入った。
80円だからだ。
店内は狭かった。古い木の匂いがする。客は二人だけ。カウンターの奥で、白髪の店主が静かにカップを拭いていた。
「いらっしゃい」
人間の声だった。
「珈琲を」
「深煎りで?」
「はい」
俺が答える前に、スマートグラスが震えた。
> 推奨:深煎り。
> 理由:本日の睡眠深度・気温・勤務予定負荷に適合。
店主がこちらを見る。
「浅煎りもありますよ」
「浅煎りで」
店主は何も言わずにうなずいた。
ミコトも何も言わなかった。
自分で選んだ、とは思わなかった。
三分後、出てきた浅煎りは、酸っぱかった。
スマートグラスの端に通知は出ない。
出ない事が、逆に腹立たしい。
俺は酸っぱい珈琲を飲み干した。
店を出る頃には、出勤までの余裕が8分減っていた。
予定通りだった。
古書店の前を通る。
まだ開店前だ。
シャッターの横に、古い文庫が詰まった均一棚だけが出ている。
背表紙が日に焼けた、昔の行政小説だった。
自治体の窓口で働く男が、住民の苦情に振り回される話。
俺は手に取った。
値札は100円。
買わなかったが、十秒程持っていた。
その間、昔の事を思い出した。かつて俺は、市役所の苦情処理窓口にいた。市民は怒っていた。
道路が狭い。
保育園がうるさい。
税金が高い。
バスが来ない。
バスが来すぎて邪魔だ。
めちゃくちゃだった。
それでもあの頃の窓口には、人間の熱があった。
怒りも、勘違いも、恥も、見栄も、孤独も、全部まとめて窓口にぶつけられていた。
今は違う。
怒鳴る前に分類される。
泣く前に通知される。
間違える前に誘導される。
俺は文庫を棚に戻した。
買うと、また何かを認めた事になる気がした。
職場に着いたのは、始業7分前だった。
完璧な時間だった。
不服入力庁、第三処理補助室。
名前だけ聞くと立派だが、実態は《ミコト》の出力を人間向けに説明する部署だ。




