第二話
その気になれば2人だけで逃げ出すことも可能ではある。
無論、財力にあかせ、手段を択ばず、猛守は翼を追いつめるであろう。
そうしないのは、まだ話が通じると…籠女に進言を頼む形ではあるが、説得できるだろうと、一花も翼も考えていたからだ。
特に翼は、優しい頃の母を忘れられなかったのである。
その頃の優しさがまだ残っているはずだと、翼が信じていたからこそ、一花も信じた。
だが、籠女は2人の言葉を無視した。そして猛守に加担した。
先刻翼にかけた言葉が、母から娘への、数か月ぶりの言葉であった。
「……………お別れですか?」
翼にもたれかかった一花の瞳から、一筋の涙が流れた。
最後の説得。説き伏せられなければ、翼は両親によって次の社長の花嫁になる。
今からでも2人で逃げられないか。一花は言外にそう問いかけるが。
「……ごめんなさい、一花」
「わふ…」
ただ謝罪する翼の言葉に、一花は理解した。
彼女は父の跡を継ぐ心づもりなのだ。
猛守はもう長くない。今年で74歳になる。
これまでに離婚と再婚を繰り返し、跡継ぎの男児を残そうとはしたらしいが、みな流産か死産、事故、病気などで亡くなった。
そして60代間近になって生まれたのが、望みもしない娘…翼だ。
己が育てた会社が、今際のきわとなってどこの馬の骨ともわからぬ者の手に渡れば、死んでも死に切れぬであろう。
しかし男児ではなく女児が生まれ、しかも家庭の環境故に塞ぎがちな性情になり、日に日に猛守の落胆は深まった。
同時にこの息苦しい家庭で育ったが故、そんな父の焦りを翼は感じ取っていた。
ならばせめて、己の意思では将来がどうにもならぬと悟った時、跡を継ごうと考えていたのである。
一花はそれを聞かされ、思いとどまるようにと何度も進言したが、それでも翼は意思を曲げなかった。
否、己の意思を通すことができなかった。
竜崎の家で苦しみ続けた末、己の心を押しつぶすことに慣れてしまったが故の選択だ。
父に嫌われたくないからという――悪く言えば、親に媚びを売る行為である。
翼も自覚はあるというが、それでも家族への愛情ゆえということも、一花には理解できた。
だからこそ、翼の意向に沿ったのだが。
「行きましょうか」
翼はチョコの体にハーネスとリードを取り付け、抱きかかえたまま部屋を出た。
一花も自分の荷物を持ち、翼とチョコについて行って、竜崎家を出た。
一花は何げなく、壁にかかった時計を見上げた。
4月3日、午後5時10分。
広い庭を横切り、門扉を出て、2人とチョコで高級住宅街を歩く。
翼の黒いロングヘアに、水面の如く夕日のオレンジ色が揺れる。
一花のさっぱりと切り揃えたボブカットも同様だ。
身長150cmほどの一花に対し、翼は頭半分ほど背が高い。
2人揃って細身、かつ顔立ちも整っている。
並ぶと絵になると、高校の生徒たちからは評判であった。
寄り添って歩く2人は無言で、チョコは何も知らないのか、それとも敢えて黙っているのか、てふてふと前を向いて歩くだけだった。
うつむく一花に対し、翼は虚ろな表情で空を見上げていた。
もうすぐ日が沈む――愛無き家族のために自らの愛情を捨てようとする翼は、夕映えを見上げながらつぶやいた。
「……ねえ、一花」
「はい…」
どこまでも虚ろな翼の表情に、一花の胸が痛んだ。
「………このままどこか遠くに行けたら、良いのにね…」
――その言葉が翼の本心を現わしていた。
まだ高校生である今、2人だけで暮らすことはできない。息苦しい家に帰らなければならない。
しかし安らぎは一花かチョコとのふれあいくらいしか存在しない。
どこか遠くへ…誰の手も届かないどこか遠くへ。
愛する一花とチョコと共に逃げることができたら良いのに、と…
「そうですね…」
一花はそっと寄り添い、翼の手を握った。
一花の考えも翼と同じだった。誰にも縛られぬ、どこか遠くへ行けたら。
2人で、そしてチョコも交えて、小さな家で自分達だけで生きていければ…
翼は竜崎家に固執してしまっている。
解放するには完全に切り離すか、翼自身の意思で捨てるしかない。
それを言い出せないのは自分の弱さだと、一花は思っていた。
翼を護ると胸に決めているとはいえ、彼女自身も一介の女子高生である。
だれかの家族のことにまで踏み込めるほど、図々しくもなければ、それをあえて貫き通す強さも無い。
2人、そろって自分自身の弱さに項垂れながらあるく。
確かに愛し合った日々が、虚しく終わりを告げるこの日。
共にいられる最後の時間――の筈だった。
「わふ!」
突然チョコが吠え、走り出した。リードに引かれて翼が駆け足になり、一花も慌ててついていく。
「ちょ、チョコ!? どうしたの!」
「何かから逃げてるみたいです…」
一花が推測を口にしようとしたその直後、甲高い音が迫ってきた。
音のする方は右側から。住宅街の広くない道路を、トラックが異様な速度で走ってきた。
チョコはこれに勘付き、2人を導いたのだ。
幸いにも道路を渡り切った。衝突は避けたと、安堵する2人。
だが、そこで予想外のことが起こった。
トラックが突如ハンドルを切り、車線を越え、歩道に立つ2人の方に向かってきたのである。
運転手の男の恐怖する顔が見えた。必死にハンドルを戻そうとしている…一花の目には、その姿がはっきりと見えた。
運転手にも予想外の出来事だったのだろう。
彼は一花たちの姿を認めると、あきらめたかの如く顔をそむけた。
「わふ!!」
衝撃と轟音が、2人とチョコを襲った。
痛みさえ感じず、肉体がひしゃげる感覚に、一花は絶望する。
車体の金属がねじ曲がり、ガラスが砕け、電信柱が折れる。
やっと全身に広がる激痛。だが、一花の精神は痛がるほどに正常な状態ではない。
大質量の鉄塊の衝突。顔面も歪み、つぶれていく。
(翼さん――)
一花は必死に手を伸ばそうとした。
翼は答えない。既に死んでいるのか。状況に気付かないのか。視線だけは一花に向けられていた。
確かにどこか遠くに行きたいと願った。だが、こんな形ではない。
2人で自由に生きていたかった。それだけなのだ。
死にたいとか、この世から消え去りたいとか、そんなことは思ってもいないのに。
突然訪れた残酷すぎる運命は、2人が生きることさえも許さないのか。
一花は必死に手を伸ばした。無論、折れてねじ曲がった腕は動かない。
翼もやっと状況に気付いたらしく、半ばつぶれた顔面で、眼球が動いた。
残された左目が一花を見つめる。一花の無事を確かめようと、ゆっくりと動いて。
チョコは――いない。難を逃れたのか、それともトラックの真下にでもいるのか。
(翼さん―― 翼さん、翼さん…!!)
薄れていきそうな思考の中、一花は翼を求め、手を伸ばそうとした。
理不尽な死が迫る中でも、せめて愛しい人と手をつなごうと、一花は手を伸ばそうとした。
その時。突如、一花の眼前の光景が、真下へとズレていった。
視界そのものは至って鮮明。だが、明らかに異常な現象に、一花は混乱する。
目の前のねじ曲がったトラックや、ひしゃげた自分達の全身だけではない。
見回せば、周囲全体が瞬く間に沈んで行っている――
ふと思い直し、一花は下を向いた。折れてねじ曲がった自分達、激突したトラックが、真下にあった。
それらも全てが沈んでいく。
否。一花自身が空へと上昇しているのだ。
よく見ると体が透き通り、半透明の虚像のようになっている。
つぶれた肉体と別に、自分自身の姿があり、天へと吸い寄せられるように昇っている。
(一花!!)
ふいに真上から聞こえた声に、一花は空を振り仰いだ。
翼の姿があった。一花に向けて必死に手を伸ばすも、一花よりも高く、速く天へと上昇していく。
一花も必死に手を伸ばした。だがみるみるうちに翼は空へと吸い寄せられていく。
必死に伸ばした手は空しく空を切り、2人の距離はますます遠ざかっていく。
(一花、一花っ!)
(翼さんっ!! 手を、手を伸ばして――)
届くはずもない手を必死に伸ばし、2人は手を取り合おうとする。
その努力もむなしく、2人は天に吸い寄せられ、瞬く間に翼の姿が小さくなっていく…
と思っていた一花の目が、驚きに見開かれた。
翼の背後、徐々に暗くなっていく空に、突然巨大な光源が発生したのだ。
よく見ると、絡み合った蔦や豪奢な門扉を思わせる、様々な線を複雑に組み合わせた美しい紋章だった――巨大ではあるが。
翼もその巨大な光の紋章に気付き、上空を振り仰いだ。途端、翼自身がその紋章に触れ、向こう側へとすり抜け…
そして、消えてしまった。
(――翼さんっ!!!)
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