二十八 駆け落ち(1)
肖子涵と汪仔空は互いに剣を納めて、そのまま肖子涵が宁麗文から身を離す。三人は改めて拱手をして戸惑いながら腕を下ろした。汪仔空は眉を顰めながら顔の下半分を覆っている紗を整える。
「……その」
肖子涵はおそるおそる彼──いや、彼女に声を掛ける。
色は白く、大きく焦げた茶色の目を少し細い瞼で覆っている。眉は少し太いが柔らかい雰囲気を出していて、顔の下半分を覆っている白い紗で鼻と口元は分からない。黒い髪を上に、細く一つにまとめていてそれを銀色の髪飾りで留めている。体躯は宁麗文たちよりも華奢であり、男と言うには幾分か低く、青を基調とした服装でその細さを誤魔化しているように見える。それが汪仔空という人物で、世長会でもこちらに目をくれることも話すこともなく、次期宗主の中で一番素性が分かりづらい。
汪仔空は気まずい顔をしながら俯いていた。
「君たちは、どうしてここにいるんだ……」
宁麗文が扇子を懐に仕舞いながら「これから北武に向かうところだよ」と話す。彼女は顔を上げて目を微かに見開いた。
「なんのために?」
「肖寧が珍しい薬を欲しがってるんだって」
汪仔空が首を傾げる。
他世家の人間の言う珍しい薬というのは、北武汪氏にとっては普通のことなのだから、その価値観が違うのだろう。もちろん宁麗文も肖子涵もそれを承知しているし、特に肖子涵は何の薬なのかも言わない。
汪仔空は腕を組んでから溜息をついた。
「まあ、なんでもいい。北武に行くならとっとと行け。私は忙しいんだ」
「何かあったのか? 怨詛浄化の依頼でも?」
汪仔空は目元を引き攣らせて「なんでもいいだろ」と突き放すように言う。宁麗文は「何もそこまで……」と一瞬悲しくなったが、彼女に着いていっても依頼の邪魔になるだろうと思い直した。
「分かった。ここの道をまっすぐ歩けば着くんだよな?」
「ああ。だからさっさと行け。邪魔だ」
「そんな酷いこと言うなよ……」
宁麗文は猫背になりながらしょんぼりとした面持ちで汪仔空の脇を通る。その時に彼の目先にまっすぐと矢が飛んでいき、そのまま隣の木の幹に刺さった。宁麗文は驚き、次に顔を青ざめながらぎこちなく横を向く。そこにはまた別の男が立っていた。
顔を青ざめている宁麗文より少し濃い茶髪を丸くまとめて上に高く結い上げられており、やや日焼けている顔、それもこめかみに青筋が立っている。臙脂と白をまとったその表情、つり目の中の焦げ茶は二人を睨んでおり、機嫌が悪いように見える。
汪仔空も振り返って愕然とした表情を見せる。
「湯一鳴!」
肖子涵も横に向いて宁麗文に矢を向けた男を見た。二人の見たことのない姿で、首を傾げて「誰だ?」と問う。
「湯一鳴。神呉湯氏の次男だ」
「次男なんていたのか!?」
宁麗文は驚愕して、湯一鳴はそれを見て呆れたように頭を振って息を吐いた。
「お前は?」
彼が宁麗文に顎で指すと代わりに肖子涵が彼を庇うように前に出る。
「彼は江陵宁氏の宁麗文。俺は洛陽の肖子涵だ」
急に前を遮られた宁麗文は驚きながら彼の後ろ姿を見ていた。湯一鳴は腕を組んで片足で地面を叩きながら頬をぴくぴくと動かす。それに汪仔空は眉を顰め下唇を噛んでから「行こう」と彼に言った。
「宁麗文、肖子涵。君たちは北武へ行け。私たちは別のところへ行く」
肖子涵から顔を覗かせた宁麗文は首を傾げる。
「別に言われなくても北武には行くけど。君たちはどこに行くんだ?」
「聞くな。鬱陶しい」
湯一鳴はぶっきらぼうに放って汪仔空の手首を掴んで木々の間を抜けて去っていった。またさめざめとした気持ちになった宁麗文は肖子涵の背中にしがみつきながら「なんでそこまで言われなきゃいけないんだよお……」と嘆いた。
また一日と野宿をしてから歩き、北武の門をくぐり抜けて中に入る。この世家は薬師が多く存在していて、所々に漢方薬局が並んでいる。空気の中に薬の匂いが漂っていて宁麗文はある日の苦い薬の味を思い出して顔を嫌そうに歪めた。肖子涵はその顔を見て「どうした?」と声を掛ける。
「いや、なんでもない。普通に昔のことを思い出しただけ」
「何かあったのか」
「散々なことがあったんだ。ほら、私って昔は身体が弱かっただろ。だからいろんな薬を飲まされたんだけど……その中でも死ぬほど苦かった薬があってさ。飲んだ時に吐いちゃって大変だったんだ」
宁麗文はまた懐から扇子を取り出して口元を隠しながら歩く。肖子涵は可哀想な子供を見るような目をしていて、彼に気付かれてはすぐに真顔に戻して前を向いた。
「できればあんな薬はもう二度と飲みたくないんだけど。けど、何の薬だったっけな……うちに来たあの医者って江陵でもないしここでもない出身だから、多分誰も分からないんじゃないかな」
「江陵でもここでもないのに宁氏の医師を?」
宁麗文は頷きながら顔を扇ぐ。
「まあ、ヤブ医者だったよ。結局苦いものは飲めなくて全部吐いちゃったし、母上がすごく怒って追い出したんだ。あの人、まだ生きてるのかな」
肖子涵は一度立ち止まってまた彼を見る。
「あなたは死んでいてほしいと思っているのか?」
宁麗文は瞬いて立ち止まる。まさか、肖子涵から「死んでいてほしい」という言葉が出るとは思わなかったのだ。
「いやいやいや、なんでそうなる? まあ、あの時は死んでくれとは思ったけどさ。今はもうどうでもいいんだ。別に私と関係ないし、もう薬なんていらない。今はそう思うことなんてないよ」
肖子涵は瞼を伏せて「そうか」とだけ返す。宁麗文は怪訝な顔をして、更に瞼を閉じる。口元を隠していた扇子を閉じて何も思わずに歩き始めた。
肖子涵の行く先に着いていく間、宁麗文は彼が自分に抱いている感情について考えていた。最初から親しみを込めていて、どういうわけか自分を敬わなくていい名を呼ばせた。つまり、二人はお互いを敬わない呼び方になっている。宁麗文はそれが礼儀の作法の一つなのかと思って彼に倣って自分の名を呼ばせたが、本来なら字で呼ばなければならないことを、親や敵が呼ぶ形で呼んでいるので、どうして彼にそう呼ばせたのかが不思議でならなかった。
宁麗文は再び開いた扇子で暑くて流れた汗を乾かし視線をあちらこちらと動かしながら考え続ける。
肖子涵は宁麗文と会ってから、彼をよく贔屓にしている。青天郷での宁麗文の好物の甘いものを率先と買って与えたり、埜湖森で彼に御剣のやり方を家族の誰よりも先に教えてくれた。そして凶鶏のいた洞窟ではすぐに守霊術を掛けて彼を守った。それから三年のも間に閉関をして、再び会った。宁麗文はそこまで考えてから少し嫌な顔をした。
(でも、久しぶりに会ったときは避けられたんだよな。次に会ったのは琳玩だったし……騙したつもりが返り討ちにあったし。連絡してくれなかったことに謝ってはくれたけど、また何かされたら次こそ根に持ってやるからな……)
じとっと睨んでいる宁麗文の視線に気付いた肖子涵は彼の顔を見て「どうした」と声を掛ける。
「別に。なんでもないよ」
宁麗文はぷいと彼から顔を背けた。肖子涵は不思議な顔をしてから前を向いて、少し歩いて立ち止まった。
「ここだ」
見上げれば古びた漢方薬局が立っていた。壁にはいくつもの色褪せや日焼け跡が見える。そして入口の支えている柱には小さく穴が空いていて、おそらくだが虫食いに遭ったのだろう。その上に無理やり木くずを詰め込んだ形跡があって、とてもだが見栄えがいいとは言えないものになっている。しかし中を覗けば広く見えており、そこに人の影が見えた。
「ここか。他の漢方薬局よりも古いな」
「商品が他のところよりも多いから、北武の中でも一番人気だと聞いた」
「へえ」
宁麗文は扇子を閉じて肖子涵に続いて中に入る。空気中に薬の匂いがより混じりあって、宁麗文は昔の薬に関する思い出が蘇ってずっと苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。肖子涵はすぐに会計へ向かうでもなく、棚の中の瓶をそれぞれ吟味する。彼の様子を見て、邪魔をしてはいけないと考えた宁麗文は他の棚の商品を軽く見ながら店内をうろうろとまわることにした。店内には繁盛している証拠に多くの客がいて、全員が常連客なのだろう、彼らは決まった薬をすぐに会計に出していた。一度も来たことのない肖子涵はゆっくりと調べ、時々ちらりと彼を見ながらまわる宁麗文はゆっくりと歩いていた。
一炷香より少し早い頃に肖子涵は複数の瓶を取って会計に出す。宁麗文も彼を見て一緒に会計の卓へ向かった。財嚢を取り出して銀貨を三個置いて、購入したものを製薬してもらう。その時間は半時辰ほど掛かると言われたので、他の店を見てまわろうと二人で話して店を出た。




