十 綻び(1)
「敏町長!」
今朝、一人の女の悲鳴で宁麗文と唐秀英は布団から勢いよく起き上がる。二人は顔を見合わせて外に出て、そのまま敏の家へ向かった。民家の前には住民全員が心配そうに集まっていて、宁麗文と唐秀英は分け目を通って中に入る。昨夜からちょうど滞在していた医師が敏の腕の脈を測っていて、唐秀英を見るやいなや首を横に振った。
「ご愁傷さまです」
「……そうか……」
唐秀英は顔を顰めながら俯いた。宁麗文も心の中にぽっかりと穴が空いたような喪失感を抱いてしまい、その場で瞼を伏せることしかできなかった。
その日は仕事を一切やらずに簡単な葬式をした。白い服を着た敏を桂城唐氏が持ってきた棺桶の中に入れ、住民たちの要望である近くの町の外れの墓地に埋葬する。白だけに包まれた住民たちは涙を流していて、同じく白をまとった宁麗文と唐秀英は口を閉ざしたまま僧侶の念仏を聞き入れていた。
その後、空から涙を流したかのような雨が降る。この自然の恵みにより畑の実は喜びを示すだろうが、宁麗文たちは憂いを示していた。
「……紅花さんに、伝えましょう」
唐秀英は空を見上げながら宁麗文に言葉を投げる。彼も同じく空を見上げ、そして頷いた。
紅花だけが住んでいる民家へお邪魔し、三人で卓を囲む。紅花の目の下は赤く腫れており、相当泣いてしまっていたのだろう。少しうたた寝をしながら話をしていたもので、宁麗文と唐秀英は彼女を寝かすことしかできなかった。
雨が止んで雲は晴れないままの頃に紅花の家から出ようと戸に手を掛けたところ、先に外から開けられ可馨の顔が見えた。
「可馨さん」
「宁公子? それに、唐公子も。何か紅花にご用だったんですか?」
可馨の言葉に唐秀英が首を横に振る。
「いえ、大した用は。今は寝ていますので、何かありましたら起きてからの方がいいかと」
可馨は微笑んでから頭を振り、「大丈夫です」とだけ答える。
「ちょっと、紅花といたいだけなんです」
宁麗文と唐秀英は可馨の顔をよく見た。彼女もまた目を腫らしており、頬には泣き跡が残っている。涙を流しすぎて乾燥してしまっているのか、何度も瞬きを繰り返していた。
「そうなんですね。それじゃ、私たちはここで」
「はい。おやすみなさい」
可馨は紅花の家の中に、宁麗文と唐秀英は家の外へと向かった。
次の日になればまた日常は来て、宁麗文は治りかけてはいるがまた腰を痛めないようにと甘草と芍薬の煎じた茶を飲んでから大通りへ向かう。その日は紅花がいて、可馨は畑へ向かったようだ。
「昨日はごめんなさい。あたし、相当泣いちゃってたみたいで、まともに話ができてませんでした」
紅花はボロボロになった布を片付けながら眉を下げる。二人は使えなくなった布を回収してまとめて火に焚べるために籠に入れていた。宁麗文は頭を振って「こちらこそ、押しかけたりしてすみません」と返した。
「それで、なんのお話でしたっけ?」
「あと数日ほどでこの町から出ようかと。誘拐された方たちがいる町の特定が終わりましたので、そちらへ受け渡しに参るつもりです」
紅花はその言葉に目を見開き、そして目尻に涙を溜めた。口から「よかった」と声を漏らしてボロボロの布を抱き締める。
「やっと会えるんですね。長かった……」
「はい。本当によかったです」
紅花の指が目尻を拭って拳を作る。希望が見えたところでやる気が出たのだろう。布をかき集めて不要な籠に敷き詰めていった。宁麗文は急なその速さに着いていけず、思わず「紅花さん、速すぎます!」と根を上げた。
その後は何事もなかったかのように皆は働き、手伝いをしなくてもいいと言われた少女二人は阿晴と三人で鬼ごっこやかくれんぼといった、外で充分に遊べることをしていた。この日に採れる野菜は全て採って、空いたところにまた種を入れて水をやる。昨日の敏の死から立ち直れてはいないが、それでも自分たちの生きるためならと脚で力強く踏み出した。宁麗文は彼女たちの生き様を見守るだけだったが、それでもまだ希望は失われていないと確信していた。
宁麗文は改めて敏という男の生き様を知ろうと思った。だが葬式をしたばかりなのに不謹慎なことを聞いては失礼だとも思った。可馨や紅花に聞いてもいいがそれも失礼だし、美朱や芽衣に聞こうともしたが、それもやめた。では一体誰から聞けばいいんだ……と思い悩んでいると、ずっと顰めっ面だったのか、それを心配した苑が宁麗文に声を掛けた。
「どうされたのですか?」
「あ、苑さん。いや、あの……ちょっと気になっていたことがあって」
「気になっていたこと?」
苑は瞬きをして宁麗文の言葉を繰り返す。宁麗文はもごもごと口の中を動かして視線をあちこちと巡らせてから小さい声を出すしかなかった。
「あの、敏さんの、ことを……」
「ああ、町長のこと?」
意外にも苑は平然とした態度で答える。宁麗文は目を丸くして少し拍子抜けした。二人はそのまま民家の近くの石段に座った。
「町長はずっと昔から、おそらく二十年近くほど前にこの町に越してきたのです」
「越してきた? 彼は元からここの住民ではないんですか?」
苑は頷く。
「最初の町長は奥さんと仲がよくて、私たちにも優しかったんです。……だけど、何年前かしら……そこまで覚えてはいないんだけど、奥さんを病気で亡くしてから変わってしまったんです。そんなに違いは分からないんだけれど、どこか、怖いような……」
宁麗文は最初に会った敏の姿を思い起こす。苑の言っているような態度ではなく、むしろ優しいと思った。
「確か紅花さんの父親は彼の補佐をしていたんですよね? 敏さんと紅花さんの父親との関係はどうだったんですか?」
「……それがね、よくなかったみたい。もちろん最初は以心伝心しているように感じられました。だけど、奥さんを亡くしてからは、町長は彼に強く当たるようになったみたいで……紅花ちゃんが何度もうちを訪ねることもあったし、可馨ちゃんと寝る日も多かったみたいです」
「そうですか……」
宁麗文は聞いてはいけなかったのかもしれないと公開する。話している苑の顔に陰りが見えて、今にも辛さに押し潰されてしまいそうな表情を浮かべていたのだ。
「お辛いことを言わせてごめんなさい」
謝罪をする宁麗文に苑は驚いて首を横に振る。
「いいんですよ。宁公子も唐公子もこの町にとてもよくしていただきました。この話は他の人には内緒にしてくださいますか。もちろん唐公子には伝えても構いません」
宁麗文は眉を下げながら「分かりました」と少し頬を引き攣らせて笑った。
とっぷりと暮れて唐秀英も寝静まった夜に宁麗文は外に出てみた。日中は青天だったからか、空には細かい砂のような星が散らばっていた。少し頭を回して見ると三日月より太い月が彼を見下ろしている。宁麗文はあの日、肖子涵と埜湖森の前で見上げた空を思い出した。
(こんなに綺麗な空を見ただけで、また肖寧のことを思い出しちゃった)
彼は今、どうしているだろう。同じ空を見ているだろうか。飯は食べているか、自分のことを思い出してはくれているだろうか。宁麗文は彼が考えてもいなさそうなことまでも考えてしまい、顔を俯かせながら落ち込む。
(私にとっての最初の友人は肖寧だけど、肖寧にとっての最初の友人は私じゃないだろうし、私より仲のいい友人だっているだろうな。あんまり自惚れちゃダメだ)
宁麗文は頭を振って胸元を拳で叩く。小さく溜息をついてまた空を見上げた。
「綺麗だ」
それだけ呟いて、空に向かって笑いかけた。




