九 柔らかい橙(3)
日が昇って起きた時に戸が叩かれる。宁麗文は眠たい目を擦って着崩れた服を整えてから戸を開けると、そこには紅花が立っていた。
「紅花さん? おはようございます」
「おはようございます、宁公子。ちょうどよかった、朝餉の準備を手伝ってもらえませんか?」
宁麗文は瞬きをして返事をし、後から厨房へ行くことにした。唐秀英はまだ寝ているようで起こしてしまっては申し訳がない。静かに手早く準備をして戸を静かに閉めた。
厨房は埃ひとつもなく綺麗な状態になっている。紅花は既に採った野菜を切っているところだった。
「紅花さん。お待たせしました」
紅花は包丁を置いて振り返り、「来てくれてありがとうございます」と返す。宁麗文は手を丁寧に洗ってから紅花からの指示を待つ。彼女は一通り野菜を切り終えてから宁麗文に鍋を出すよう指示をして、彼はその通りに動いた。
「今日は何を作るんですか?」
「今日は野菜の汁物を。せっかく採れたので、皆で頂こうかと思いまして」
「なるほど」
宁麗文は鍋をかまどに置いて水を入れる。その場でしゃがんで薪を入れてそこに持ってきた点火符で火をつけた。紅花はその様子を見て「すごいですね」と口を出す。宁麗文は彼女に振り返って首を傾げる。
「修士様っていろんなことができるんですね。……そういえば、何で剣を佩いてないんですか?」
紅花の疑問に宁麗文は立ち上がって火の加減を見ながら水を木の玉杓子で軽く混ぜる。
「あなたたちを怖がらせないためですよ。最初に来た時にいきなり剣を持った男たちが現れたら恐ろしいでしょう。だから持ってこなかったんです」
「そうだったんですね。でも、今は持ってきてもいいのに。どこにあるんですか?」
宁麗文は水面を掻き混ぜてぼやける自分を見ながら苦笑する。
「今は桂城唐氏の邸宅に預けてもらっています。唐公子が連絡してくれないと持ってきてくれないし、彼も今はいらないと思っていますよ」
「え、なんでですか?」
「今は使う時ではないので」
かまどの火で温まり始めたからか、鍋の中の水が端でふつふつと沸き始める。宁麗文は紅花の切った野菜をまな板ごと持って野菜だけを鍋の中に落とした。それから軽く掻き混ぜながら鍋の中の様子を見る。紅花は宁麗文の手際のよさに呆然としていた。何も言わず、動かない彼女に宁麗文は不思議に思って彼女を見る。
「どうかされました?」
「いや……料理作るの、上手なんですね」
宁麗文は瞬きをして首を傾げた。
彼は以前から青鈴の手伝いをしていて、そのうち自分から料理を振る舞うこともあった。しかし、ほとんどは青鈴始め家僕の担当であって宁麗文が厨房に入れるのは彼女だけがいる時だけだった。彼の手料理を食べたことがあるのは宁雲嵐と青鈴だけで、宁浩然と深緑、そして他の家僕は食べたことがない。彼曰く「もし下手くそなものを食べさせてしまったらって思って」とのことで、つまるところ仲のよい二人にしか振る舞いたくないと遠回しに言っているのだ。
初めてここに訪れて唐秀英ともち米粥を作ったことはあったが、あれは唐秀英がほとんど作っていて宁麗文はあまり手を出さないようにしていた。厨房がやや狭いこともあって、迂闊に手を出すとせっかくのもち米が台無しにしてしまうと恐れていたのだ。
「そうですかね? これでもまだまだですよ。紅花さんの方がお上手です」
「そんなこと言わないでください。上手って言ってくれるのはありがたいですけど、宁公子もとてもお上手ですよ」
慌て始める紅花に宁麗文は思わず噴き出してしまった。紅花は急に笑いだした宁麗文にぽかんと口を開けていたが、それもすぐに笑いに変わる。おかしくなってしまったのか、二人は互いに小さく笑っていた。
紅花が様々な調味料を持ってきて胃に優しいものを選ぶ。朝餉とはいえ、あまり重いものだと胃もたれをしてしまう者がいるかもしれない。だからあえて優しい調味料を選んでいるのだ。
宁麗文はそれをもらって目分量で入れていく。箸を突っ込んで野菜が柔らかくなったかを確認する。柔らかく茹でられていたのを確認しながら近くにあった小さな器に玉杓子で掬った汁を入れて味見をする。
「うん、美味しい。完成です」
宁麗文は紅花に向けて微笑むと、彼女もにっこりと口角を上げて人数分の器を準備し始めた。
少し時間が経って厨房に一人、二人と住民が入ってくる。彼女たちは厨房の前から漂う汁物の匂いに首を傾げながら入ると、既に宁麗文が汁物を用意していて、紅花が彼からもらった玉杓子で器に入れているところだった。
「あっ、おはよう。来たところ悪いんだけどこれ持ってってくれない? まだ全然終わらなくて」
「いいけど、紅花。あんた、宁公子に作らせたの?」
頬にそばかすを乗せている美朱は呆れたように腰に拳を当てる。その隣にいる、彼女より背が高く眉の垂れ下がっている芽衣もうんうんと同意している。その二人の態度に宁麗文は頬を掻きながら微笑むしかなかった。
「すみません、私が自分で勝手に作っただけなんです」
彼の言葉に二人は驚き、思わず声を漏らす。
ま、まさかこの公子様自らが!? この厨房で!? 料理を作った!?
美朱と芽衣はあまりにも驚きすぎて、しばらくその場から固まったように動けなかった。呆れる紅花の隣の宁麗文は困ったように眉を下げながら、ただただ口角を上げることしかできなかった。
四人がかりで住民全員の朝餉を食堂へ持っていく。既にちらほらと集まっており、中には欠伸をしている者や机に突っ伏してまた寝ている者もいた。唐秀英は宁麗文を探していたようで、食堂の入口で複数の汁物の入っている器を器用に持っている彼を見つけて目を見開いた。宁麗文はそれを手前から置いていき、順番に並べていく。唐秀英の近くまで来た時に眉と口角を上げたままで彼を見ると、唐秀英は「な、なんで朝餉の準備をしているんですか?」と驚いたまま聞く。
「紅花さんに手伝ってほしいと言われたんです。結局私が作ったんですが、お口に合うと嬉しいです」
唐秀英はまた驚いた。先程の美朱と芽衣のようだと宁麗文は苦笑するしかなくて、全員の配膳が終わって食べた後もずっと全員に驚かれていた。
(私って……そんなに不器用に見られてるのかな……)
宁麗文は湯匙で汁物を啜りながら心の中で泣いていた。
朝餉を摂った宁麗文と唐秀英たちは仕事に精を出す。もう粗方復興が終わっているがこれからの生活はどうなるかは分からない。だからこそ今でもこの生活を絶やさないようにと彼らは必死に動いていた。
半年の間、宁麗文は様々な景色を見た。
荒れた地。餓死寸前の住民たち。炊き出しの温かいもち米粥。
乾いた土から生まれた芽吹き。それはやがて蔓を出して葉を生み出し、花を咲かす。
その小さな命の流れのように時間は進み、住民たちの絶望の顔が次第に希望へと満ちる。
子供の無邪気な声。空に増えた行く鳥。潤い始めた畑。
宁麗文は外を出て、たくさんの経験を得る。それがいいことでも、悪いことでも、そのどちらも両手に抱えていくのだろう。
ふと江陵宁氏の家訓を思い出した。
(民にも、天にも優しくあれ。これが、そういうことなんだろうな)
宁麗文はまた空を見上げる。もうずっと、雨は降っていない。これからは晴れが続くだろう。暑くもなっていくのだから、暑さに負けないような冷たいものを作って皆で食べよう。
つま先の向く方から声が聞こえた。前を向けば泥だらけになっている阿晴が宁麗文に向かって走っていた。また足元に抱き着いて彼を見上げる。その顔には誰もが見ても愛おしいと感じるような笑顔が浮かんでいた。宁麗文も口角をにっこりと上げて阿晴を抱える。
「麗兄ちゃん、今日は遊べる?」
阿晴は宁麗文の首に手を回して顔を近付ける。宁麗文は彼の頬についている泥を優しく指で拭った。
「うん、遊べるよ。何して遊ぶ?」
宁麗文は阿晴を抱えながら歩き出す。広場に行けば珍しく可馨と紅花が談話しながら薬草を選別していた。宁麗文が来たのを感じた二人は彼に顔を向けて眉を上げる。
「阿晴、また宁公子のところに行ってたの?」
可馨が立ち上がって宁麗文の元へ行く。阿晴の頬を指で突きながら優しく言った。阿晴は大きく頷いて宁麗文の頬に自分の頬をつける。宁麗文は彼から感じる温もりが好きで、押しつけるようにもっとくっつけた。
可馨は彼らの幸せそうな顔に微笑んで「じゃあ、宁公子と薬草を選ぼうか」と言った。
「私も? いいんですか?」
「いいですよ。一人より二人、二人より三人。人が増えれば増えた方が選びやすいんです。教えますので、宁公子も来てください」
宁麗文は瞬きをして優しく笑った。可馨も微笑んで踵を返し、宁麗文も彼女に続く。
宁麗文は刻一刻と迫る日の中で畑仕事と再建仕事を交互に進める。時には唐秀英の手伝いもし、彼も自分の仕事を手伝う。住民たちでできないことがあれば彼ら二人が率先して手をつける。少しの雨が降ってもすぐ晴れてまた動き始める。二人は住民たちが寝静まった頃に静かに巡回して餓蝗がいないかを確認し、寝る直前まで情報を整理する。
それを二、三日ほど繰り返した翌朝に町全体に衝撃が走った。




