六 出発(2)
しばらく四人は春と話をしてから別れ、宁家の邸宅へ向かった。唐秀英は阿瑾の手を引きながら歩いていたが、阿瑾はそれを嫌がることはしなかった。その光景を見ている宁麗文と青鈴は自然と顔を綻ばせていて、かつての自分たちを思い出していた。
邸宅の目の前に到着して宁麗文が門を開ける。四人は門の中へ入って宁浩然のいる書室へ向かった。そこで阿瑾が眉を下げた。
「なあ、ここっておれみたいな物乞いも入ってよかったのか?」
その問いに青鈴が答える。
「いいに決まってるわ。だってあたしも元は物乞いだったんだもの。今更そんなこと言われても遅いわよ」
阿瑾は口をぽかんと開け、「姉ちゃんも物乞いだったの?」と聞き、青鈴も「そうよ」と答えた。阿瑾は唐秀英の手から離れて青鈴の手を取って頬を擦り寄せる。どうやら親近感を得たらしい。宁麗文と唐秀英は互いに顔を見合わせて少し微笑んだ。
「ここが父の書室です。……父上、私です」
扉に軽く手の甲で叩けば中から「入りなさい」と返ってきた。宁麗文は戸を開けて唐秀英と青鈴に引っついている阿瑾を招き入れる。宁浩然は巻物を片付けている最中であり、顔を上げては目を丸くした。
「君は唐宗主の息子ではないか」
「はい。宁宗主、ご無沙汰しております」
唐秀英は宁浩然の前で拱手をして頭を下げる。宁浩然も立ち上がって拱手をした。双方は手を下げて唐秀英が頭を上げ、宁浩然は宁麗文よりも頭ふたつ分も小さい阿瑾に気付いて青鈴を見た。
「その子は?」
「この子は唐公子のお付き人です。まだ子供でこういった場所に慣れておりませんので、後ほどあたしの部屋へ通すつもりです」
「そうか」
宁浩然は阿瑾の顔を見て少しだけ微笑んで二人を書室から出るように言付ける。青鈴は拱手をし、阿瑾を連れて書室から去った。今この場にいるのは宁浩然と宁麗文、そして唐秀英の三人だ。宁浩然はまた座って卓に腕を置く。唐秀英を見て「君一人で来るのは初めてだな。道に迷わなかったのか?」と聞いた。
「ええ、大丈夫です。羅針盤と通りに住んでいる住民の方々を頼りにして来ました」
「君は本当に賢いな。勘で行くのではなく、方角を示す羅針盤と近くに住む者の案内で辿り着くとは。流石桂城唐氏の息子だ」
「とんでもない。恐縮です」
手を横に振って唐秀英は謙遜する。宁麗文は彼に感激し「私も見習おう」と心の中で呟いた。宁浩然は続けて口を開く。
「それで……なぜこちらへ来たんだ? 見たところただの観光のようには思えないが」
その問いに宁麗文が口を開いた。
「実は唐宗主から私に桂城へ来てほしいとのことで。今は何も予定がないので、彼と共に参ろうとここに来ました」
宁浩然は一瞬だけ面を食らった顔をしたが、すぐに「唐宗主らしい……」と呆れた。世長会での彼の態度からして自分に伝えずにわざわざ息子に伝えるのは当然だろうと納得したのだろう。
「確かに今は何も予定はない。しかし、そう急ぐことはないだろう? もう少しここにいてはどうだ」
「いやだから、もう出発するんですって」
宁麗文は微かに眉間に皺を寄せながら前へ出る。確かに早急となれば準備不足もあるだろうし、何より遥々遠方から来た唐秀英からしては休みが欲しいという懸念もあるだろう。だが、彼は別に何ともないといった表情を浮かべていた。宁浩然は片手で顔を覆いながらも首を横に振り、頑なにそれを譲らない。宁麗文は一刻も早く江陵から出る旅へ行きたかった。
「ね、唐公子もそう思うでしょう? もし君が休みたいと思うのなら休めばいいし、体力があるなら私を連れていってほしい。最終的に決めるのは君です」
唐秀英はぽかんと口を少し開けるが、すぐに微笑みに変わった。
「大丈夫。もう充分休ませていただきました」
その答えに宁浩然は酷く長い溜息をつき、顔を覆った手をひらひらと力なく振りながら「なら行きなさい。必ず準備はしっかりして、帰る時は伝達術を使うように」と宁麗文に命じた。宁麗文は頷いて拱手をし、唐秀英と共に部屋を出る。彼を客室に通して無名へ戻り、必要最低限の荷物を持って祓邪を片手に持った。無名を出た頃には客室に阿瑾もいた。
「阿瑾? なんで君がここにいるんだ?」
阿瑾は唐秀英の袖を引っ張りながら彼に引っついていた。
「秀英兄ちゃんがいなかったら、おれはどうやって生きればいいんだよ。だから着いてくのさ」
何となく想像はしていたが、「青鈴も止めただろうに……」と宁麗文は心の中で困った。しかし唐秀英がいなければ金もなく手に入る食料もなく住む場所もない。となればたった数日間で仲を深めた人といれば何かと安心だろう。
「うん、分かった。じゃあ行こうか」
阿瑾は眉と口角を上げながら頷き、唐秀英の袖を引っ張りながら門へ目指す。「そんなに慌てるなよ」と唐秀英は返すが、そのまま彼に着いていった。宁麗文も少しだけ後ろを振り返り、そして前を向いて歩いて行く。
江陵を出て埜湖森とは違う道を進む。そこは雑木林と獣道が長々と続いていたが、決して通れない道ではなかった。三人は散歩をしているかのように歩き、歩調は阿瑾に合わせる。もし阿瑾が疲れてしまったらそこで休憩を取ってまた歩く……を繰り返していた。宁麗文と唐秀英は金丹があるので、そこまで休みを持つ必要がなかった。
「そういえば、桂城はどういう場所なんですか?」
宁麗文は他の世家の事情に疎い。世長会で軽くは接してはいるものの、具体的な内容までは理解できていないのだ。唐秀英は阿瑾を手を繋ぎながら宁麗文に顔を向ける。
「うちは農業が盛んなのです。過去に父がやったことは覚えていますよね? 実はあの場所は田の水はけがよく、そして気候にも恵まれています。昔は飢饉に遭ったのですが、それは害虫が大量発生していてまともに駆除ができていなかっただけで、決して雨や日照りが続いていなかったわけではなかったんです」
「どうして害虫の駆除ができなかったんです? それをするのは唐氏の役割ですよね?」
唐秀英はその言葉に歩む足を止める。一歩先を進んでいた阿瑾と宁麗文も足を止めた。唐秀英の顔には少し陰が掛かっていた。
「父が宗主になる前の……前宗主は細かい所まで見ていなかったのです。唯一見たものと言えば、賑やかな町の道の整備や繁盛していない店の援助ぐらいでして。初めて全区域に目を向けたのは父だけでした。だから害虫の駆除を徹底的にこなしてもち米粥をあげた……父は自由奔放で面倒臭がりですが、ああ見えて自分の見た、乏しき点をなくす能力があるんです。僕は……」
最後の言葉に唐秀英は顔を赤くしながら俯いた。宁麗文はその後に続く言葉を何となく想像した。
──僕は父に憧れているんです。
親の功績は子には受け継がれることはないしそれを自分の手柄だと思って周りに自慢する必要もない。それは宗主の子供である宁麗文たちは重々承知している。だからこそ、親を目標に、そして理想として生きているのだ。
「唐宗主は素晴らしい人です」
宁麗文の言葉に唐秀英が顔を上げる。赤くした顔のままはにかんで「先を急ぎましょう」とだけ言った。
それから一炷香したところで阿瑾が根を上げた。いくら休憩を挟んでも何刻も歩いていれば足が棒のようになるのは何ら不思議なことではない。しかも阿瑾のような子供であれば尚更だ。
唐秀英は阿瑾を抱き上げておぶろうとするが、彼はそれを拒絶した。
「いくらおれが子供だからって、おんぶされるほどじゃないよ。自分の足でちゃんと歩く」
「でももう限界なんだろ? だったら少しの間だけでもおぶられればいいじゃないか」
「おれの面目が丸潰れになるってこと!」
面目が丸潰れ、という言葉をどこで覚えたのだろうと宁麗文は心の中で考えるが、そういえば彼は物乞いだったと思い出した。物乞いであればどこもかしこも歩き続けるわけで、その度にいろんな言葉を覚えたのだろう。それは青鈴も例にもれなく、彼女は気を緩ませる相手以外では猫を被っていた。
「仕方ないな。どこか寝泊まりできる場所を探そう」
「そうですね。直に日も暮れます。一刻も早く見つけましょう」
宁麗文と唐秀英は互いに顔を見合わせて頷いて、足早と道を進んで行く。阿瑾は結局、唐秀英におぶられていく羽目になった。




