↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私だけに優しい、殺人鬼  作者: 白波 灯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/20

第2話『誰かの見た夢の跡』

 神倉月(かぐらつき)の胸の中には、静かな高揚が残っている。

 自宅に戻る足取りは、いつもより軽かった。

 帰宅してシャワーを浴び、カーテンを閉め、ベッドに入る。眠りはすぐに訪れた。寝付きの悪い彼女には、珍しいことだった。


 しかし目が覚めた時、それらすべては消えていた。

 胸の中が空っぽで、自分がどこにいるのか分からない。

 シミのある白い天井が見える。室内は薄暗い。目だけを動かすと、遮光カーテンから漏れる光。波の音がかすかに聞こえる。

 数秒遅れて思い出す。ここは自宅マンションだ。シーサイドパレス東雲(しののめ)。バブル期に建てられた、分譲リゾートマンションの十四階の角部屋だ。棟内に住人はほとんどおらず、天然温泉の大浴場やプール、ラウンジといった共用施設は閉鎖されて久しい。それでも所有しているだけで管理費と修繕積立金が毎月六万円以上、さらに毎年の固定資産税がかかる。月はこのマンションを十万円で購入した。元の持ち主にとっては、さっさと手放したいお荷物物件だったのだろう。誰かの夢の残骸の、廃墟のようなマンションで一人暮らしを始めてから、かれこれ五年以上の月日が流れた。

 カーテンの隙間から射し込む光は、橙色の夕陽だった。

 枕元のスマートフォンを見る。十六時十一分。冬が来る。日没は近い。


「……」


 月はベッドから起き上がることができなかった。身体が鉛のように重く、頭の中にも泥が詰まっているかのようだ。何故こんなことになったのかは理解している。悪夢を見たからではない。現実こそが悪夢だと思い出したからだ。


 昨夜、患者を殺した。そのときは良かった。最高の気分だった。世界は鮮やかで、身体は軽く、何でもできるような気がした。

 しかしそんな万能感は決して長くは続かない。いつもそうだ。時間が経つと、必ず落ちる。深く、暗い場所へ。何故、こんなことをしてしまったのだろう。佐伯の最期がまざまざと脳裏によみがえり、私が殺した、その事実だけが絶対的な真実となって月を圧倒する。許されないことをした。人の生死を個人の一存で決めていいはずがない。未来がない、苦しんでいた、それはただの言い訳だ。


『お前はマトモな人間じゃない』


 胸が痛い。呼吸が苦しい。後悔の波が押し寄せる。

 母は、いつも不機嫌だった。幼い頃はただ、母の機嫌を損ねないよう、言われるままに生きてきた。しかし母は娘の月を親戚やママ友にマウントを取るための道具としか思っていない──親戚に自慢したいから、フィギュアスケートの選手になれ。やりたいことがある? ダメだ。お母さんが自慢できないような進路なんて認めない──月は次第にそんな母に反発を覚えるようになった。しかしあるとき知ってしまった。自分は望まれない子供だったことを。自分を妊娠したせいで、母も祖父母も傷ついたことを。自分が生まれてきたせいで、母の人生が狂ってしまったことを。


 ──中絶してくれれば良かった。


 夕飯の準備をする母の背を眺めながら、当時高校生だった月は他人事のように思った。

 あのときの思いは今、確信に変わっている。

 私は生まれてくるべきではなかった。私が生まれてこなければ、母は毎日あんなに苛立つことはなかっただろう。佐伯も他の患者も殺されることはなく、この世との別れの時間を最後まで過ごせたはずなのに。


『お前はマトモな人間じゃない』


 脳裏で母が怒鳴っている。

 しかし今は、今だけは、それは違うと断言できる。

 私はマトモな人間だ。何故なら、人を殺したことを後悔しているからだ。人を殺してはいけないと分かっているからだ。もしもマトモな人間じゃないなら、こうして苦しむことも、後悔することもないだろう。だからお母さんは間違っている。私をマトモな人間じゃないと言ったお母さんは間違っている!

 こうして母に反論するために、神倉月は病院で殺人を繰り返している。


 月はベッドから起き上がり、裸足のままリビングに出る。

 2LDKのマンションは、私物を買わない彼女が一人で住むには広すぎた。

 窓の向こうに海が見える。陽はすでに沈んでいた。夕暮れの海は鉛色で、ベランダの向こうに広がる海岸線にも人影はない。

 誰もいない、静かな場所。このマンションを買った理由の半分はそれだった。

 誰もいない。誰も来ない。煩わしい近所付き合いもなく、エレベーターで住人に会うことも滅多にない、理想的な住居だった。

 なのに、今日はその静けさが辛い。


 惰性で冷蔵庫を開く。中を見回してから、何も食べる気がしないことに気づいた。ペットボトルを取り出し、水をガラスのコップに注ぐ。

 そのとき、テーブルの上でスマートフォンが震えた。

 水を飲みながら確認すると、見慣れない番号からの着信だった。

 勧誘か詐欺だろう。ため息をつきながら、スマホをテーブルに放置する。

 しばらくすると着信は途切れた。間を置かず、再び同じ番号からの着信。

 月は少し迷ってから、電話に出た。


「……はい」

『神倉さん?』


 スマホから聞こえてきたのは、若い男の声だった。

 聞き覚えはあるが、すぐには名前が出てこない。

 数秒遅れて思い出す。


 九条零(くじょうれい)。今朝の医師だ。


「九条先生?」

『よかった。出てくれて』


 電話の向こうで九条が笑う気配がした。

 月は困惑する。何故、医師が、私用の携帯に電話をかけてくるのだろう。九条に連絡先を教えたことはない。となると、病院内の緊急連絡網を見て、電話番号を知ったのだろう。医師である彼には、閲覧権限がある。しかし彼の声色に切迫した様子はない。


「何かありましたか?」

『特には』


 特には──月には理解しがたかった。

 彼の返答を言葉通りに受け取ると、九条は緊急連絡網で月の電話番号を調べ、私用電話をかけてきた、ということになる。何故、何のメリットがあって、そんなことをするのだろう。自分のテリトリーをさりげなく侵害されたような気分になる。

 月の内心をよそに、九条は言葉を続ける。


『今、仕事終わったんだ。日勤』

「そうですか」

『神倉さんは寝てた?』


 あてどなく彷徨(さまよ)っていた月の指先が止まった。


「……どうしてですか?」

『夜勤明けだったから、寝てたのかなって』


 九条の答えは、正しかった。疑問に対する正しい答え。正しいが、どこか引っ掛かる。しかし何がおかしいのか、月にはよく分からない。会話が途切れる。冷蔵庫のうめく音が、やけに大きく聞こえる。

 電話を切りたい。そう思ったとき、九条が沈黙を破った。


『今の君を一人にしたくないと思ってね』


 心臓が止まりそうになった。

 九条に何を言われたのか、月にはよく分からなかった。

 窓の外を見る。暗い海。陽の落ちた空。誰もいない浜辺。


『──だから電話した』


 九条の声は穏やかだった。優しかった。異様なくらい。


「どうして……」

『ん?』

「どうして、そんなこと」


 言いかけてやめる。自分でも分からない。何を聞きたいのか。どうして私を一人にしてはいけないと思ったのか。どうして今なのか。どうしてそんな言葉をかけるのか。

 知りたいけれど、聞きたくない。


『観覧車に乗らない?』


 九条が言った。あまりにも唐突だった。


「……観覧車?」

『そう。クリスマス仕様になってるらしい』


 電話の向こうで車のドアの閉まる音がした。


『夜景も綺麗だって』


 月には返事ができなかった。

 代わりに窓の外を見る。海に面した窓ではない。市街方面を臨む窓。

 遠くの道路とスーパーの駐車場が見える。今朝、仕事帰りに立ち寄った商業施設では、クリスマスソングが流れていた。まだ十一月なのに、街はもうクリスマスの準備を始めている。暗く沈む心を置き去りにしたままで。


『どう? 今から』


 断るべきだと思った。相手は知らない男だ。同じ病院に勤務する医師。それだけの間柄でしかない。なのに、冷え切っていた胸の奥に──『今の君を一人にしたくない』──その言葉だけが残っている。……余計なお世話だ。一人になりたいからこのマンションを選んだ。人を殺さずにいられない私の気持ちなんて分かるはずがないし、理解されるべきものでもない。自分の存在が誰にとっても異物でしかないことは分かっている。だから放っておいてほしい。それが正直な気持ちだった。

 でも、どうしてだろう。断ろうとすると──『今の君を一人にしたくない』──泣きそうになる。


「……少しだけなら」


 気付けばそう答えていた。

 電話の向こうで九条が笑う。


『じゃあ決まり。シーサイドパレス東雲だったね。車で迎えに行くから』

「え……?」

『別件で職員名簿を見ていたとき、たまたま目に入ってね。ずっと覚えていたんだ。二十代半ばで分譲マンションに住んでるのは珍しいから』

「叩き売りのリゾートマンションです」


 月はふっと笑った。


『やっと笑ってくれたね』

「今朝も笑ってましたよ」

『覚えてるよ。……近くに着いたら電話するから』


 電話が切れて初めて、月は違和感の正体に気づいた。

 九条は月が落ち込んでいることを知っていた。

 しかし今朝、エレベーターホール付近ですれ違ったとき、九条は月にこう言った。『何か良いことでもあった?』『今日は随分と機嫌が良さそうに見えたから』──彼はいったい何を根拠に、その機嫌の良さが続かなかったことを看破したのだろうか。


 窓の外をふと見ると、誰もいないはずの浜辺に黒い人影が立っていた。

 月にはその人影が、こちらを見上げているように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。