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第3話 本物の叙事詩、表現の夜明け

 差し押さえた真鍮の星と赤黒い護符を両手に抱え、青年は重い足取りで親方の屋敷へと引き返していた。

 胸の中にあるのは、ノルマを達成した安堵ではなく、鉛を飲み込んだような吐き気だった。


 路地を抜ける途中、荷車を押す老人が段差につまずき、積んでいた古い木箱をひっくり返した。

 ガタガタと乾いた音を立てて散らばったのは、長者番付の競争などとうに捨て去られた、埃まみれの古道具たちだ。

 青年は足を止め、散らばった荷物を拾い集めるのを手伝った。そのとき、泥の中に半分埋もれていた一冊の羊皮紙が、ふと指に触れた。


 表紙の金箔は剥げ落ち、どこにも真鍮の星など飾られていない。

 煽情的な絵も、露悪的な惹句もない。

 ただ、古風で実直な文字で、ひとつの題名だけが刻まれていた。


 青年は何気なく、その煤けた頁を開いた。


 ――息が止まった。


 そこに広がっていたのは、安っぽい復讐の快楽でも、都合のいい愛欲の妄想でもなかった。

 理不尽な天災に抗い、理を尽くして生きようともがき、それでも運命の歯車に押しつぶされていく人間の、途方もない気高さと哀切。

 張り巡らされた伏線は川の流れのように必然の結末へと収斂し、無駄のない一文一文が、青年の乾ききった胸の奥底を激しく揺さぶった。


 気がつけば、道端に膝をついたまま、頁を繰る指が震えていた。

 頬を熱いものが伝い落ち、泥の上に小さな染みを作った。


「……これだ」


 喉の奥から、掠れた声が漏れた。

 この国の誰もが忘れ去ってしまったもの。

 かつて先人たちが、己の知性と魂を削り、暗闇の中に灯火を掲げるようにして遺した、本物の言葉の力。

 それは、他人の顔色を窺って数秒で配る星など足元にも及ばない、読む者の人生を不可逆につくり変えてしまうほどの、圧倒的な熱量だった。


 顔を上げると、相変わらず頭上には下劣な看板がチカチカと下品な光を放ち、遠くからは住民たちが真鍮の破片を打ち鳴らす「カチ、カチ」という虚ろな金属音が響いている。

 だが、青年の目には、もうその狂騒が何の意味も持たない幻影にしか見えなかった。


 青年は立ち上がり、腰の袋から親方に納めるはずだった真鍮の星と護符を取り出した。

 そして、ためらうことなく、それらを路傍の汚水溝の中へと投げ捨てた。

 チャポン、と濁った水音がして、空虚な数字の塊はヘドロの中へと沈んでいった。


 もう、誰かの箱を覗き込んで値踏みする必要はない。

 夜明け前に血眼になって他人の足跡を削り取る、浅ましい労働に戻ることもない。

 番付の順位が何十万番であろうと、下劣な看板がどれほど視界を埋め尽くそうと、そんなものはこの羊皮紙の一行の重みに比べれば、ただのゴミクズに過ぎないのだ。


「私も、書くのだ」


 誰に見せるためでもない。数字の威信にひれ伏すためでもない。

 あの袋小路の主のように、ただ己が世界と対峙し、魂を震わせる美しい構造を、自らの手で組み上げるために。

 表現することの真の歓喜は、あの歪んだ市場の外側にこそ、最初から静かに息づいていた。


 青年は古い羊皮紙をしっかりと胸に抱きしめ、親方の屋敷とは正反対の方向へ――自分だけの机が待つ、静かな部屋へと歩き出した。


                     了


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