035:給仕アイリスと【給仕アイリスの矜持 〜形なき最後の隠し味〜】後編
035:給仕アイリスと【給仕アイリスの矜持 〜形なき最後の隠し味〜】後編
いつの間にか、アンの背後に漆黒の執事服を纏った美丈夫が立っていた。
彼は、震えるアンの肩を羽毛のように優しく抱き寄せると、その場にいる全員が「物理的な死」を直感するほどの冷徹な視線で、ヴァルガス達を刺し貫いた。
「……その汚い手で、我が至宝に触れたな?」
静かな、あまりにも静かな声。
しかしそれは、ヴァルガス、ミラ、そしてガルダの肺から酸素を奪い去るには十分すぎる圧力を持っていた。
ブルーライセンスの冒険者であるヴァルガスの身体が、本能的な恐怖で石のように硬直する。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴る音だけが、死の静寂の中に響いた。
美丈夫は、怯える少女の頭を優しく撫でながら、慈愛に満ちた声で囁いた。
「……すまなかったな、アン。怖い思いをさせてしまった」
「おじちゃん……。ううん、大丈夫だよ。ちょっと、びっくりしただけ」
「そうか。……ならば、よい。正直、ここに来た時からこのゴミどもの羽音が耳障りだったのだ」
美丈夫が、再びヴァルガス達に視線を向ける。
その瞬間、ヴァルガス達は見えない巨大な手で首を締め上げられているかのような錯覚に陥り、実際、それ以降、体が呼吸という行為を忘れ、ハクハクと陸に上げられた魚のように空気を求めて痙攣を始めた。
「……美食を愛でる聖域だ。 貴様らの不浄な血で、この場を汚さぬよう、塵一つ、飛沫一つ残さず、その存在ごと消し去ってやろう」
美丈夫が、ゆっくりと、しかし確実な死を告げるように腕を振り上げる。
その指先には何も無かった。
だが、その場の誰もが、その腕が振り下ろされた時、ヴァルガス達は本当に跡形もなく消し飛ばされるであろうという確信を感じていた。
「「――待ってください!!」」
悲鳴に近い叫びと共に、死の宣告者と、処刑を待つ罪人たちの間に、二人の人物が飛び込んできた。
先ほどの一撃で意識を失いかけていたはずのアイリスとカインのふたりだった。
彼女は、乱れた髪を振り乱し、腫れ上がった頬をそのままに、おぼつかない足取りで、しかし確固たる意志を持って両手を広げる。
彼女の背中を追うように、カインもまた、ガタガタと震える脚でその隣に並び立つ。
ブルーライセンスの冒険者ですら蛇に睨まれた蛙のように動けぬ中で、一介の給仕と、顔を真っ青にした荷物持ちが、人外の魔王を相手に『肉の盾』となって立ちはだかったのだ。
アイリスの瞳には、死への恐怖と、それ以上に燃え盛る「プロとしての強い意志」が宿っていた。
美丈夫が振り降ろそうとした腕が、わずかに止まる。
漆黒の美丈夫は、目の前を震えながら遮るる2人に羽虫のように脆く、けれど山脈のように揺るぎない「人間の矜持」を感じたのだった。
「……どけてくれないかな。手先が狂ったら、あなたも消し飛ばしてしまうかもしれない」
美丈夫の声は、どこまでも穏やかで、だからこそ逆らえない絶対的な宣告としてホールに響いた。
「……どきません。死んでもどきません!」
アイリスの声は震えていた。しかし、その瞳には、美丈夫の魔力にも負けない強い光が宿っている。
「どんな方であっても、当店の敷居を跨がれた時点でお客様なのです! 汚物だろうがゴミだろうが、この店で椅子に座り、料理を待っている間は、私が守るべき『お客様』なんです!!」
美丈夫の眉が、わずかに動いた。
「たとえ、あなたを傷つけた相手だとしてもか?」
「……はい! 殴られた痛みは、後でたっぷり慰謝料と治療費として請求します! でも、給仕としての私の誇りは、お客様がこの店で理不尽な死を迎えることを許しません! どんなお客様でも気持ちよく、安全にお食事を楽しんでいただく……それこそが、私達の矜持であり、この店が積み上げてきた歴史なんです!!」
アイリスの叫びは、ホールにいた他のお客様や、物陰で震えていたオーナーたちの心をも震わせた。
美丈夫は、二人を見つめたまま、一度ゆっくりと瞬きをした。
そして、振り上げていた手をゆっくりと降ろす。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
「なるほど……。今日は、実に多くのことを学ばせてもらったな。」
黒衣の男は、アイリスの腫れた頬を悲しげに見つめると、再びゆっくりと瞬きを行う。
次の瞬間、ヴァルガスたちの五体を圧殺していた不可視の重圧が、霧散するように消失した。
「――ガハッ、ヒュー、ヒューッ!!」
死の宣告という名の呪縛から解き放たれた三人は、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちる。
彼らは無様に這いつくばり、脂汗を垂らしながら、まるで今しがた深海から引き揚げられたかのように必死に酸素を貪り始めた。
「あなたのその輝きが、他者の為に尽くす者のプライドというものなのだろう……素晴らしいな。その高潔な魂に免じて、今日のところはこれ以上のゴミ掃除は控えよう」
彼はそう言うと、テーブルの上に一つ、自身の瞳と同じ色をした、小粒だが深みがある紫の宝石を置いた。
「これは、迷惑料と楽しい食事を提供してくれたお礼だ。……アイリス、と言ったかな。君のような給仕に出会えたことを、光栄に思う」
その言葉を合図にするように、いつの間にかアイリスの左右に、黒髪と銀髪の少女が並んでいた。
「……残りのお料理も食べたかったですけれど、仕方ありませんね。また、機会があれば続きをお願いしますね」
黒髪の少女が名残惜しそうに、しかし完璧な礼をして微笑む。
「…………これ。最強のおじちゃん、あげる。……なんと、口が動く」
銀髪少女が、アイリスの足元に銀色に輝く蜘蛛の彫刻をそっと置いた。
「あ……」
アイリスが声を漏らした瞬間、赤毛の少女が少し申し訳なさそうな顔をして、元気よく手を振った。
「お姉さん、バイバイ! 次に来る時は、フォークちゃんと使えるようになってるからね!」
三人姉妹がそろったのを確認すると、美丈夫が指をパチンと鳴らす。
刹那、光が弾けることも、音がすることもなく。
そこにいたはずの四人は、まるで最初から存在しなかったかのように、虚空へと消え去った。
後に残されたのは、静まり返ったホールと、呆然と立ち尽くすアイリス。
そして、テーブルの上で妖しく輝く紫の宝石と、足元でカチカチと口を動かす、銀色の蜘蛛だけだった。
◇それからしばらくの話
あの一件の後、『ル・ドラゴニア』はかつてないパニックに陥った。
発端は、ミラの手の中にのこっていた、少女のネックレスだった。
「――バ、バカな……。ワシは夢でもみてるのか?!」
悲鳴を上げたのは、あの日たまたま店に居合わせた宝石商協会の会長だった。
彼は、騒動で残されたたその「赤い石」を一目見るなり、顔を土気色に変えて震えだした。
「会長、どうされたんですか? 玩具でしょう?そんな大きなガラス玉……」
「黙れ! 貴様、節穴か!! これはガラスなどではない……神竜様ですらお持ちでないかもしれない、伝説の『深淵紅玉』だぞ! どこかの国の王家の秘宝か、あるいはそれに準ずる高位貴族の家宝に違いない……わッ!!」
その言葉を皮切りに、事態は国家規模の外交問題へと発展した。
お忍びでやってきた他国の貴族の姫に、一介の冒険者が無礼をはたらき、あろう事かその首から王家の秘宝クラスの首飾りを引き千切り奪い取ったのだ。
本来なら国の外交官達が泣きながら土下座して許しを乞う案件なのだが、最悪な事に謝罪する相手はまさに煙のように消えたと言う。
国としては、持ち主不明、威力不明の遠隔起動爆弾をいつ爆発するかわからないまま泣きながら握りしめ続けるしかない状況だ。
たまったもんじゃない。
ヴァルガス一行は、その場で憲兵団に身柄を確保された。
ミラの実家が懸命に事件の沈静化をはかっているようだが、火に油を注ぐ事態になっているらしい。
数日間、王都の新聞は「消えた四人の謎の貴人」の話題で持ちきりとなった。
八方に手を尽くしても、あの四人が何者で、どこへ消えたのか、誰も知る由がなかったのだ。
その混乱に終止符を打ったのは、一件から一週間後。
この領の領主であらせられるエヴァ・アマルガムが、執事長を連れてお食事にいらした時のことだった。
「……ふむ。これね?」
エヴァ様は、アイリスが差し出したネックレスを手に取り、興味深そうに目を細める。
その隣で、非の打ち所のない完璧な姿勢で控えていた執事長の伊勢馬場が、宝石のネックレスでは無く、銀髪少女が置いていった八本の足だけでなく口まで動く銀の蜘蛛の彫像を視界にとらえて、ポンと手を打って合点がいった顔する。
「……おや。この事件の犯人が分かっちゃったでありますぞ!」
伊勢馬場は、まるで旧友に再会したかのような、穏やかな笑みを浮かべ、嬉しそうに微笑んだ。
「伊勢馬場、心当たりがあるのかしら?」
「ええ。この繊細でありながら力強いこの勇姿!!ほぼ間違いなく彼でございますな!どうやら、私の方からお返ししておいたほうが良さそうですな。」
伊勢馬場は、アイリスから恭しくネックレスを預かる。
アイリスは、彼が「四人の正体」を知っていることを確信し、
そして、この騒動がようやく幕を閉じるのだという安堵とともに、どうしても伝えたい言葉を口にした。
「……あの、伊勢馬場様。差し出がましいこととは存じますが……その首飾りをお返しする際に、一言だけ、お伝え願えませんでしょうか」
「ほう。何と?」
「――『またのご来店を、心よりお待ちしております』……と」
アイリスの言葉に、伊勢馬場様は一度だけ驚いたように目を見開いた。
伊勢馬場様は、超一流の、そしてこの上なく深い敬意を込めたお辞儀でそれに応える。
「……かしこまりました。きっとその言葉は、この高価な首飾りよりも喜んでもらえますぞ。……アイリス殿、貴女は実に、良き給仕だ」
その言葉を残し、領主一行は店を後にした。
アイリスは、嵐が去った後の清々しい朝のような気持ちで、彼らを見送ったのだった。
◇あの日、四人組が消えた数時間後。
場所は変わり、事件があったアマルガム領の隣、ヘマタイト領の活気溢れる地方都市の一角。
「ねえ、おじちゃん! あの店、なんか良さそうだよ!」
アンが指差したのは、庶民的ながらも清潔感のある、
一軒のパン屋だった。
四人の服装は一新されている。
町の子どもたちに紛れても浮かないような、シンプルだが質の良いデザイン。
トロワの胸には、モフモフとした毛におおわれた蜘蛛のぬいぐるみが抱かれていた。
いや、よく見たらそれは本物の小型犬くらいの黒い蜘蛛だった。
「……そうだな。さっきの店では、あまり食べられなかったからな……もしかしたら、我々には、いきなりレストランはハードルが高かったかもしれない……。よし、まずはあのパン屋から攻略していこう!『千尋の大巣も、最初の一掛から』と、言うしな。」
そんな蜘蛛がおもむろに三姉妹に向かって語りかける。
「オッケーおじちゃん!ドゥ、トロワ。準備はいい? お金っていう物も用意したし、今度は『人間さんの作法』、完璧にするんだから!」
その蜘蛛の言葉に、赤髪の少女アンは、その髪と同じくらい熱い闘志を瞳に宿らせる。
「……えぇ。支払いは任せて!脳内でシミュレーションは完璧です!」
ソレに応えるように、黒い髪の少女ドゥは、両手を握り強くうなずき返す。
「…………トロワ。お腹すいた。……今なら、嫌いなパセリも食べられる!」
銀髪の少女トロワに至っては、口の端にかすかにヨダレを輝かせ、どんなご飯が来ても返り討ちにする気満々だ。
四人は顔を見合わせ、今度こそ「普通の食事」を楽しむべく、レストランへ向かってあるきはじめた。
「よし! では、入るぞ!!」
「「「おー!!」」」
元気な声を上げ、新しい扉を開く四人の後ろ姿。
彼女たちの美食(と、時々ハプニング)の旅は、まだまだ始まったばかりである。
【給仕アイリスの矜持 〜形なき最後の隠し味〜】
評価:判定不能(形なき最高の調味料)
かつて、一人の少女が「最高の一皿」を求めて『ル・ドラゴニア』の門を叩いた。
彼女の名はアイリス。
誰よりも料理を愛し、至高の技を磨くことに全てを捧げようとした若き料理人の卵だった。
しかし、その研鑽の日々の中で、彼女はある真理に辿り着く。
最高の料理とは、高価な食材や複雑な技法の中にではなく、それを口にした瞬間に「あぁ、幸せだ」とお客様が心から微笑む、その一瞬の中にこそ宿るのだと。
ここ『ル・ドラゴニア』は、一人一人のお客様に人生最高の幸福を感じてもらうための聖域。
厨房の変態的な情熱も、ホールの静謐な空気も、すべてはその一瞬のために捧げられていたのだ。
アイリスはその心意気に、震えるほどの感銘を受けた。
そして彼女は、自らの意思で包丁を置く。
「作る側」から、その結晶を「届ける側」へ。お客様がその一口を味わう瞬間の『幸福』を完璧なものにするために、彼女は「最後の料理人」である給仕の道を選んだのだ。
あの日、圧倒的な死をもたらす「深淵の主」の前にアイリスが命を賭して立ちふさがったのは、正義感ゆえではない。
たとえ相手がどのような存在であろうとも、椅子に座り、料理を待つ「お客様」であるならば、そのひと時を暴力や悲劇で汚させるわけにはいかない。
それが、彼女が自らに課した「最後の一工程」だったからだ。
今もなお、彼女はホールという名の厨房で、目に見えない「幸せ」というスパイスを振りかけ続けている。
己の誇りを賭けて、お客様に最高のひと時を届けるその強い意志。
それこそが、ル・ドラゴニアを最高たらしめる、形なき「最後の隠し味」なのである。
【ル・ドラゴニアの忘年会 〜在庫処分と言う名の狂宴〜】
評価:★★★★★(全美食家が嫉妬する、世界一不遜で幸福な「まかない」)
その年の最終営業日、王都の至宝『ル・ドラゴニア』の扉は、選ばれし者以外には固く閉ざされる。名目は「倉庫の在庫処分を兼ねた従業員用忘年会」。
しかし、その実態は一年の激務を耐え抜いた一流シェフたちが、己の欲求を爆発させる「食の聖戦」である。
この日だけは「原価」も「効率」も「メニュー」も存在しない。
ホールには幾つもの特設調理台が並び、普段は統率されたチームとして動くシェフたちが、各々のグループで「今、自分が一番食べたい物、作りたい物」を追求する。
伝説の怪獣や凶悪な超獣の希少部位、熟成が極まり使いどころに困っていた禁断のスパイス……それらが一流の絶技によって、一夜限りの絶品料理へと変貌を遂げていくのだ。
副料理長ボルグは毎年「焼肉」を用意する。
超高級牛『マッサッカーバイソン』を焼く彼は、この時ばかりは焼肉奉行を超えた『焼肉皇帝』として君臨する。
肉が最高潮に達した刹那に放たれる「今だ!」という宣告に対し、一秒でも遅れて箸を動かそうものなら、たとえ貴族であってもトングで排除される。
この狂宴に同席できる「部外者」は、年間来店者の中から毎月一名、厳正な抽選で選ばれるわずか十二名のみ。
彼らには「完全無礼講」という過酷な義務が与えられる。
どれほど高貴な身分であろうと、この場ではシェフからの罵声や蹴りが飛ぶこともあるが、文句を言った瞬間に『ル・ドラゴニア』永久追放が確定する。
一流の職人が、仲間のために、そして己のプライドのために全力を尽くす「最高のご褒美」。
この場に流れるのは、料理を心から愛する者たちだけの熱気と、それを享受できる者だけが味わえる至福の余韻である。
これに参加できたという事実は、美食家にとって一生の勲章となるだろう。




