034:給仕アイリスと【給仕アイリスの矜持 〜形なき最後の隠し味〜】前編
034:給仕アイリスと【給仕アイリスの矜持 〜形なき最後の隠し味〜】前編
回廊を横切り、衝立を一枚隔てた先。
そこは、先ほどまでの「ちょっと不思議だけど温かい空間」が嘘のような、泥沼の罵り合いが支配する異界だった。
「そうだ、このパーティーを去る前に、この場で土下座して謝ってもらいましょうか。無能でごめんなさいって!不快にさせて申し訳ございませんって!!」
ミラの放つ汚物のような言葉が、丹精込めて作られた料理の香りを汚していく。
アイリスの脳裏に、厨房で魂を削ってスープを仕上げていたマッシュやボルグの顔が浮かんだ。
忘年会の焼肉の時、1秒単位で文句を言ってくるワカメみたいな髪質の副料理長のボルガと、少女に異常な執着を見せる変態職人マッシュと、その他大勢のスペシャリスト(変人)たち。
変態だらけの料理人たちだが、彼らがコンロの前で見せるその横顔だけは、聖職者のように真摯で、気高くあった。
そんな彼らが命を削り、一滴の濁りも許さず磨き上げた結晶のような料理たちに、今、他人を貶める汚物のような言葉が混じっていく。
給仕にとって、ホールの空気こそが料理の味を完成させる「最後の隠し味」だ。
罵声や憎悪といった猛毒を調味料代わりに振りかけられた料理を、お客様たちに食べさせるわけにはいかない。
それは給仕として、死よりも恐ろしい冒涜だ。
「……私の聖域で、これ以上好き勝手はさせないわ」
アイリスの中で、一人のプロとしての静かな怒りが、熱い血液にのって全身を駆けめぐる。
彼女は背筋を正し、氷のような、それでいて完璧に整った営業スマイルを張り付かせて、泥沼のテーブルへと踏み込んだ。
「お客様。誠に恐縮ながら、他のお客様の御迷惑となります。どうぞ、お声を控えめにお願いいただけますでしょうか」
凛とした声が響く。
だが、逆上したミラにとって、それは火に油を注ぐ行為でしかなかった。
「はあぁ!? 給仕係風情が生意気よ! あんた、私が誰だか分かって言ってるの? オーナーを呼びなさい! パパに言って、あなたも、明日からコイツと一緒に無職にしてやるわ!?」
ミラの金切り声に合わせるように、ヴァルガスも椅子の背もたれにふんぞり返り、腰に下げた『ブルーライセンス』のギルド証をこれ見よがしに指で弾いた。
「おいおい、少し高い店だからって調子こいてんじゃねーぞ? 世の中にはな、ルールより先に『格』ってのがあんだよ。分からねえなら、ブルーライセンスの俺自ら、その身体に教育してやろうか?」
ヴァルガスが下卑た笑みを浮かべ、アイリスの肩に手を伸ばそうとした、その時。
「ヴァルガスさん、止めてください!!」
今まで一方的に殴られ、罵られていたカインが、悲鳴のような声を上げて二人の間に割り込んだ。
その顔は、ヴァルガスの怒りに対する恐怖ではなく、もっと根源的な、死そのものを前にしたような絶望に染まっている。
「さっきから……見られているんです! 衝立の向こうから、あの方たちに見られている! ヴァルガスさん、その女性に手を出したら、あなた……本当に死んでしまいますよ!!」
カインの視線は、背後の衝立を貫き、その向こう側に座る『魔王』の眼光を捉えていた。
自分たちに向けられているのが、ただの不快感ではなく、ゴミを排除しようとする冷徹な「意志」であることを、彼のギフトである【天耳】の能力が察知していたのだ。
「あァ? オイオイオイ、いつからお前は俺に命令できるくらい偉くなったんだぁ?」
ヴァルガスの額に青筋が浮かぶ。
格下のカインに指図されたことが、彼の尊大なプライドの逆鱗に触れた。
「おやめください、お客様。店内での問題行為は、当店の規約により――」
「いいよヴァルガス、やっちゃいなよ!」
ミラの残酷な声が重なる。
「給仕係の一人や二人、パパはここの常連なのよ! 事故の一つや二つ、私が上手く取りなしてあげる!」
ホールの他のお客様たちが、異変を察知して壁際へと避難し、苦々しい顔で恐る恐るこちらを伺っている。
その視線すらも追い風に感じたのか、頭に血が上りきったヴァルガスはニヤリと唇を歪めた。
「教育の時間だ、ネーチャン」
乾いた破裂音が、静まり返ったホールに残酷に響き渡った。
ブルーライセンス。
それは、並の兵士を凌駕する超人の証だ。
その規格外の筋力から放たれた一撃は、一般人であるアイリスにとって、もはや「平手打ち」などという言葉で形容できるものではなかった。
空気を切り裂く轟音と共に叩きつけられたのは、骨すら砕きかねない質量を伴った、純粋な『破壊』。
無防備な頬を襲った衝撃が、彼女の華奢な身体を木の葉のように宙へと弾き飛ばす。
なすすべもなく弾き飛ばされたアイリスは、そのまま糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちた。ぐったりと目を瞑り、意識を手放した彼女の白い頬は、衝撃によって瞬く間に痛々しく腫れ上がっていった。
「あぁ……なんてことを!!」
カインの絶叫が、血の気が引いたホールの空気を震わせた。
プロとして、聖域を守るために立ちふさがった給仕係。
その誇り高き仮面は、卑劣な暴力によって無残にも砕かれ、その場の空気は決定的な「一線」を越えてしまったように引き締まっていく。
「早く、治療を!!」
いち早く動いたのはカインだった。
力なく横たわるアイリスに向かって駆け寄ろうとしたその時、ニヤニヤと嗜虐的な笑みを浮かべて、女せんしガルダがカインの前に立ちはだかる。
「大袈裟だぞ、カイン。ちょっと腕がぶつかっただけじゃねーか。」
「どいてくださいガルダさん!頭を打ってるかもしれないんです!早く治療を!」
「それじゃ、私を倒してからいけよ、知ってるぞ、お前何か力を隠してるんだろ?いまココで出してみろ、早くしないと手遅れになるかもな?」
「ガルダさん!あなたって人は!!」
カインが苦々しく奥歯を噛み締めて拳を握りしめたその時!
「止めてっ!!」
その暴力の旋風を切り裂いて、一人の少女が、二人の間に弾丸のような速さで割り込んだ。
「どうしてこんなことするの!? ここは、美味しいご飯を食べて、みんなが幸せになるところだよ!?」
赤髪の少女だった。
真っ直ぐな、一点の曇りもない正論。
その純粋すぎる瞳に射抜かれ、ヴァルガスは一瞬、金縛りにあったように動きを止めた。
「……田舎者のお嬢ちゃん、引っ込んでくれるかしら? これは大人の問題なの」
アンの必死の制止を、ミラは冷え切った一瞥で切り捨てた。
ヴァルガスもたじろいだのは一瞬。背後にミラの権力があると思い出し、再び醜悪な余裕を取り戻す。
「おい、ミラ。流石に貴族の娘を相手にするのは、マズいんじゃねえか?」
「大丈夫よ、ヴァルガス。私はこれでも、この領の有力な貴族はだいたい把握しているの、こんな赤髪の貴族の子供なんてこの領どころか、近隣の国にも居なかったわ。」
ミラはアンの前に歩み寄ると、値踏みするように彼女を上から下まで眺めた。
その瞳にあるのは、自分より「下」の存在を見つけた時の、どろりとした優越感だ。
「ほら……見てみなさいよ。この古臭いデザインのドレス。それに、口や手をソースで汚して……野蛮人もいいところだわ。一生懸命、都会で馬鹿にされないようにおめかししてきたつもり? 笑わせないで、このお上りさん」
「……違うよ。これは、おじちゃんが……」
「黙りなさい。特にこれ、見てよ。こんな大きなガラス玉、逆に恥ずかしいわ!」
ミラの視線が、アンの細い首にかかったペンダントに固定された。
そこには、深紅の輝きを放つ大きな石がはめ込まれている。
ミラにとっては、あまりに大きすぎて「本物の宝石」の範疇を超えた、悪趣味な玩具にしか見えなかった。
「返して、それはおじちゃんが作ってくれた……っ!」
赤髪の少女が首元を押さえるが、ミラは迷わずその手を振り払い、強引に銀の鎖を引きちぎった。
「あらら、ごめんなさい!今度はおじちゃんにもう少しマシな物を作ってもらいなさいねぇ」
ミラは千切ったネックレスを高く掲げて、赤髪の少女が届かないところまで、そのネックレスを持ち上げた。
「ミラさん!!もう、これ以上は駄目だ!早く返して!謝るんだ!!」
止めに入ろうとしたカインの腹を、ガルダの重い靴底が容赦なく蹴り飛ばす。
床を転がるカインの横で、ミラは手に入れた「ガラス玉」を光にかざし、嘲笑した。
「ふふ、せいぜい泣き叫びなさい。こんなゴミ、どこに捨てに……」
ミラの言葉が、唐突に途切れた。
というより、その場のすべての「音」が、真空に吸い込まれたかのように消失したのだ。
誰も、瞬きすらしていなかったはずだ。
だが、彼はそこに「いた」。
※今回の小話は次回へストックされました。




