第72話 それが、俺の生きている価値だからだ
「誰が殺せっつったよ?」
突如として現れた女はそう言うと、先刻蹴り倒した男に向かって鋭い視線を向ける。
一方の男は、苦笑しながら弁明するかのようにして言った。
「ハハ、でもだってコイツ、すっげームカついたんスよ」
「……いや、そうじゃねーだろ」
女は低い声でそう言うと、男の肩目がけて勢いよく足を振り下ろした。
男が小さく声を上げるのも構わず、その女はまるで地面を這いずる虫でも踏みつけるかのように、容赦なくギリギリと体重をかけていく。
「お前さぁ、まず言うことあんだろ」
「すっ、すんませんって、ひかるさん……」
「声が小せぇんだけど?」
「すんません! すんませんって! いたっ、ちょっ、ちょっと痛い、痛いっスよ!」
「……チッ」
それから何度か男の背中を蹴りつけた後、女は深いため息を一つ。
一方刈り上げ頭の男の方は、度重なる蹴りによってすっかり薄汚れてしまった黒いTシャツを見ながら、悲しげな声で「これ、俺のお気に入りなのに……」とこぼしていた。
(こいつ……)
俺は女の姿を捉えるや否や、そいつから目を離すことができずにいた。
鎖骨のあたりまで真っ直ぐに伸びた茶色の髪の毛。
グレーのズボン、黒いパーカー。
そして――彼女の目は、男と同じ冷たい目をしていた。
それはまるで、この世の全てのものを悲観しているかのような目だった。
それはまるで、自分以外の全てを敵とみなしているかのような、哀しくて寂しい目だった。
「お前、次勝手な真似したらぶっ殺すかんな」
その女は男を睨みつけてから、低い声で呟く。
彼女の怒気を浴びせられた男は、顔をひきつらせたまま、乾いた笑い声を口から漏らしていた。
(こいつ……まさか……)
嫌な予感がしてたまらなかった。
それを否定するための論理を必死に組み立てようとしても、結局は一つの最悪な結論に至ってしまう。
いつもと違う服装でも。
赤く縁取られた眼鏡はかけていなくても。
髪を結わいた大きなリボンがなくても。
彼女の声に、聞き覚えがある気がした。
彼女の姿に、見覚えがある気がした。
《すっ、すんませんって、ひかるさん……》
先刻のあの男の言葉に、俺は耳を疑った。
だってその名前は、俺のよく知っている――
「く……倉元……なのか……?」
俺の大事な後輩の、名前だったのだから。
倉庫の扉の先から入ってくる日の光が、目の中に染みた。
眩しくてハッキリとは分からなかったが、その瞬間――彼女がニコリと笑ったような気がした。
ゴクリ、と唾が喉を通る音がした。
その答えを聞きたくなかった。
倉元が今こんなところにいるなんて、信じたくなかった。
「先輩……」
だが、彼女は――
そいつは、俺の方を見るなり、先程とは打って変わって軽やかな声を上げながら、小動物のような走りででタタっとこちらに駆けてきた。
「先輩~! 無事でよかった~」
その声はいつもと同じアイツの声で、
その笑顔はいつもと同じアイツの顔で、
目の前にやって来たその女は、紛れもない、俺の後輩の倉元ひかるだった。
だからこそ――不気味で仕方がなかった。
「お……お前……」
「もう、先輩殺されるんじゃないかって心配したんですから! でも、よかった~、先輩が無事で」
「倉元、お前……どうして……」
地面に倒れ込んだまま、俺は彼女を見上げてただひたすら固まっていた。
倉元は得意げに笑いながら、地面にかがんで俺の顔を覗き込む。
「あれ、もしかして先輩、感動してます? 私が先輩を助けに入ったこと、感動してます?」
「な……」
「って、先輩固まっちゃいましたか……しょうがないですよね、さっきアイツに殺されかけたんだし」
倉元はハア、とため息をついてから、黒Tシャツ男を睨みつけた。
一方の男の方は、自らの失態を誤魔化すようにして苦笑しながら、頭を掻いている。
……なんだ、これ。
どうなってんだ。
どうして、お前があの男と……
これじゃあまるで、お前があの男と繋がってるみたいじゃないか。
だったら、あのときどうしてお前はあの男に襲われたフリをしたんだ?
どうして、お前……
「まあ、何はともあれ……先輩」
倉元はそう言うと、地面に横たわる俺の上にのしかかった。
混乱から抜け出せずにいた俺は、抵抗もできずになすがまま、両肩と両足を押さえつけられた。
困惑した表情の俺を見下ろしながら、倉元は笑って言葉を続けた。
「私達は、先輩を助けに来たんですよ」
何を言っているのか、分からなかった。
コイツが何をしようとしているのか、分からなかった。
「倉元……お前……」
あの男と、仲間なのかよ。
だったらどうして、お前はあのとき、俺に嘘をついたんだ。
どうして襲われるフリなんかしたんだよ。
俺を助けに来たって、何だよ。
お前らさっき、俺のこと殺そうとしただろ。
お前、俺に恨みでもあんのかよ……。
(どうしてだ……倉元)
だとしたら、どうして紗英ちゃんを連れ去った。
どうして紗英ちゃんを傷つけようとするんだ。
俺に恨みがあるなら、俺だけを傷つければいいじゃないか。
紗英ちゃんは関係ないだろ……!
「私……ずっと好きでしたよ、先輩のこと」
倉元はそう言って笑った。
訳が分からなくなった。
だってそれは、とても穏やかな微笑みで。
とても――嘘をついているとは思えないくらいに。
(どういう……ことだよ……)
だって、お前……さっき、俺のこと殺そうとしたじゃないか。
《安心してください。先輩のことは私、部屋にあるぬいぐるみや玩具程度にしか思ってないですから》
お前、俺のことなんて、ぬいぐるみだとか言って散々馬鹿にしてきただろ。
「な……何言ってんだ、倉元……」
今までのコイツと、今のこの状況とがぐちゃぐちゃに絡まり合って、俺の頭の中は既にパンクしていた。
一方の倉元は、混乱する俺をよそに言葉を続ける。
「だから、先輩のこと、どうしても助けなきゃって思ったんです……あの女から」
倉元が睨みつける先にいたのは、両手足を拘束されて地面に横たわる紗英ちゃんだった。
倉元は歯ぎしりしながら、俺の両肩を掴む手に力をこめ、忌々しそうに呟く。
「あの女……優しい先輩を、よくも……!」
一体何を言っているのか、訳が分からなかった。
コイツは俺のことが好きだった?
そして、紗英ちゃんから俺のことを助ける?
何を言っているんだ。
紗英ちゃんは、俺に何もしていないのに。
何故コイツは、紗英ちゃんのことを……
「許せない……あの女……」
「く……倉元、お前……」
「……安心してください、先輩。先輩に危害を加えるつもりはありませんから」
「お、お前……何を……」
「大丈夫です、先輩。今からあの女は汚れるんですよ。先輩の愛する価値もないくらいに……だから、先輩?」
倉元は笑って続けた。
「あんな女のこと、もう忘れてくださいよ?」
な……何言ってんだよ、倉元。
汚れるって、何だよ。
お前ら……紗英ちゃんに何する気だ。
お前……何言ってんのか、全然分かんねーぞ。
だって、お前は……
《馬鹿とは失敬な。円種率だって点より2つ下の位まで言えるんですからね?》
《お前がもし円周率のことを言っているなら、それは残念ながら当たり前のことなんだ》
馬鹿で、そのくせいつも俺のこと馬鹿にしてきて、
《先輩……私のこと、迷惑だったらいつだって無視してくれて構わないですから。本当に辛い時は、頼ってくださいね》
でも本当は優しい奴で、俺のことを認めてくれて、応援してくれたじゃないか。
お前は、こんなことする奴じゃないだろ。
こんな奴じゃ……
「ひかるさん……本当にヤっちゃっていいんすか」
「…………」
倉元はうつむいたまま、唸るような低い声で呟いた。
「この女は……許せない」
男が紗英ちゃんの方に近づいていく。
口を縛った布から、紗英ちゃんの悲痛な叫び声が漏れ出した。
「先輩……先輩は私のこと、どう思ってますか」
どうしたんだよ、倉元。
「私、先輩のこと……好きですよ」
どうして、紗英ちゃんを傷つけようとするんだ。
「だから、私……先輩のこと守りたいんです」
どうして、今まで……
倉元は俺を見下ろしながら、笑っていた。
その笑顔が、不気味で仕方がなかった。
今までのコイツは、全て嘘だったのだろうか。
笑い合って一緒に過ごしてきた他愛のない日常も、
お前を助けに行った、あのときだって――
お前はあの日、俺に助けを求めてきた。
あのときのお前は、苦しそうな表情だった。
でも、お前のことを襲ったアイツは……お前の仲間なんだろ。
だとしたら、今までのこと全部……
お前は今までずっと――俺のことを、騙してきたっていうのかよ。
「俺は……守るんだ」
「……先輩?」
「俺は紗英ちゃんを守る、って言ってんだ」
男が紗英ちゃんの髪を掴み上げた。
紗英ちゃんの泣き叫ぶ声が、痛々しく耳元で鳴り響いた。
助けなきゃ。
俺が……何としても……!
倉元の力は強く、情けないことに、俺の華奢な身体は女である倉元の拘束からですら抜け出すことができなかった。
それでも、必死に抵抗する。
俺は、倉元――お前が何と言おうと、紗英ちゃんを助けるんだ。
何があっても、俺は、紗英ちゃんを……!
「さ……紗英……ちゃん……!」
「先輩……どうして……!」
俺の肩をつかむ倉元の手に、さらに力が入る。
彼女は苦悶に歪んだ表情で、口から言葉をこぼした。
「どうしてっ……あの女は……先輩のこと、騙しているのに……!」
一瞬、全身に力が入らなくなった。
紗英ちゃんが、俺のことを騙している……?
何を言っているのだろう。
「先輩は、あの女に騙されてるんです!」
紗英ちゃんが、俺のことを騙しているはずない。
だって、紗英ちゃんは……。
《私は騙されていただけだった。だから――私は、誰も信じられなくなった》
《だって、優しい人は必ず……! 必ず、私を裏切って……目の前からいなくなってしまうから》
紗英ちゃんは……。
《あのね、高弘君………私、何か大切なことを思い出せた気がするの。あなたと出会えて》
《笑うことって、こんなに素敵な気持ちになれるのね》
あのときの紗英ちゃんの笑顔が嘘だなんて思いたくない。
紗英ちゃんの言葉が嘘だなんて、思いたくない……のに……
《これで何度目だろう……紗英ちゃんがこんな顔をしたのは》
昨日、紗英ちゃんは時折悲しそうな顔を浮かべていた。
俺には、その意味が分からなかった。
だけど、もしそれが……
「あんな女……先輩のこと、好きな訳がないのに!」
《私はあなたを信じられない》
もし、紗英ちゃんが本当は……俺のことを嫌いだとしたら。
「先輩は愛されてなんかいない! でも私は、先輩のこと……」
「はは、そうだよな。……そうだった」
何を考えているんだ、俺は。
決めたじゃないか。
「俺は……紗英ちゃんのことを守りたいんだよ。たとえ……紗英ちゃんに嫌われていたとしても」
「ど……どうしてっ……!」
「それが、俺の生きている価値だからだ」
「…………!」
《生きてて……いいんだ……》
俺は、紗英ちゃんと出会って、生きる意味が分かった。
人を殺して、その家族の幸せを奪って。
決して許されることのない罪を背負ったこの俺が。
自分なんて、生きる価値がないと思っていた。
それでも、紗英ちゃんと出会えて、紗英ちゃんを好きになって。
紗英ちゃんを守ることで、俺は生きていけるんだ。
奪った幸せの分だけ、誰かを幸せにするために。
だから、たとえ紗英ちゃんが俺のことを好きじゃなくても、俺は紗英ちゃんのことを守り続けたい。
何年でも、何十年でも。
俺が死ぬ時まで。
「先輩……」
倉元は目を大きく見開き、真っ青になった唇を震わせていた。
吸い込まれそうなほどに黒いその瞳に映っていたのは、深い、深い――絶望だった。
「……ッフフ、あはは!」
倉元は不意に天井を見上げ、吹き出したようにして笑い出した。
これまでに見たこともないような形相でお腹を抱え突然笑い出した彼女を、俺は呆然と見上げていることしかできなかった。
そして、ひとしきり笑った後――彼女は笑顔を顔に貼りつけたまま、一筋の涙を零した。
「やっぱり、てめぇもそうだったか……このギゼンシャ野郎」
俺を見下ろす倉元の瞳は、どこまでも冷たかった。
それは、この世界の全てを悲観したような目だった。
《先輩なんて……嫌いです》
「やっぱり先輩なんて、大嫌い」
目の前で、鈍く光るものが見えた気がした。
と同時に、倉元の瞳から温かく湿ったものが頬に落ち、
その瞬間――俺は咄嗟に、右目を瞑っていた。
「 」
カラン、と金属製のナイフが地面に落ちる音が聞こえた。
倉元は目を大きく見開いたまま、力なく俺に倒れ掛かった。
覆いかぶさった彼女の体温が少しずつ失われていく中――
俺の目の前に、白黒映画のようなモノクロの景色が広がっていった。




