第42話 友達だから
その瞬間、私の耳には強い雨音しか聞こえなくなった。
全身が固まって、動けなくなった。
「な……何言ってるの、永美……?」
永美は私を睨んでいた。
それは悪を忌み嫌う正義感に溢れた眼差しで、
突然の彼女の言葉に、私は何も言うことができなかった。
「って、こんなこと聞いても答えるわけないか」
永美は小さく笑ってから、ため息をつく。
「それなら、一番聞きたい事を聞こうかな」
彼女は傘の中で、再び私を見下ろして言った。
「堀口君を――私の彼氏を殺したのは、あんたか」
その瞬間、全ての音が止んだ。
何を……何を言っているの。
永美の……彼氏……?
《未玖は……堀口裕太って人知ってる?》
私が、殺した……
堀口君は、永美の……?
《やっぱりさ、あたしらはあんたの味方だから》
《私も、あんたが何を思ってるのか分からないよ》
《私はもう……何も信じられないんだ》
私を見下ろす永美の瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。
《私の行為が邪魔だとしたら。もし私が、永美に迷惑を掛けているとしたら……》
《もし、永美が私を――疑っているとしたら》
その冷ややかな視線が、私の全てを見透かしているように感じた。
《「やっぱり、昨日の永美の言葉――私を疑っているということ」――?》
《はは、まさか――あり得ないよ……そんなわけ、ないよ……》
震えが止まらなかった。
「永美……どうして……」
それ以上の言葉が出なかった。
私はただひたすら、この状況が何かの冗談であることを望むことしかできなかった。
「『どうしてそのことを知っているの?』とでも言いたそうね、未玖」
彼女は笑っている。
でもその瞳が、笑っていなかった。
「あんた、周りの人間を甘く見過ぎだよ」
「え……?」
「『連続殺人事件』……証拠も凶器もない、不可解な事件を、警察は『事故』として処理した。――けど、これは『事故』なんかじゃない」
永美はうつむいて言った。
「私の父さんは、この『事件』を追っている」
「な……」
ふと、いつも事情聴取で顔を合わせていた刑事のことが頭に浮かんだ。
そういえばあの刑事の苗字。
まさか、あの人は……。
「答えて、未玖。あなたは……堀口君を殺したの?」
永美が私を真っ直ぐに見つめる。
「な……何を……言っているの……永美……?」
まさか。そんな。
どうして、こんな……
嘘でしょ、永美。
永美は、私を……
「否定しない、か。そう……分かったよ」
「え、永美……?」
彼女は目を伏せて言った。
地面を見つめる彼女の肩が、強張ったように震えている。
「ち、違うよ、永美! 私は、ただ……」
「――もういいよ、未玖」
ふいに、彼女が顔を上げた。
彼女の涙を見たのは、これが初めてだった。
「もう、全部終わりにしよう」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「え……」
あまりにも早すぎて、感覚に理解が追いつかなかった。
突然、全身に走る痛み。
永美は私の持つ傘を薙ぎ払ってから、私を思いきり地面に蹴り倒した。
わけも分からないまま、私の身体は勢いよく、固いアスファルトの上へと落下する。
瞬間、落下の衝撃で頭が真っ暗闇に包まれる。
ようやく身体の受けた損傷を痛みとして認識し始め、視界を取り戻した頃――
私の視界に映し出されたのは、絶望的な光景だった。
「蒲田未玖――あんたは今日この時間、この場所で死ぬ」
「……!」
永美の手の中にあったもの――その光景を、どこかで一度目にしたことがあった。
「あんたは、死ななくちゃいけないんだ」
彼女の瞳から、一滴の涙が零れ落ちた。
涙の雫が、手の中で鈍く光る金属に落ちる。
その瞬間、私は思い出した。
「ま……待って……え、永美……」
――あの時と、同じ光景を。
もはや身体が思うように動かなかった。
震える声を、必死に喉の奥から絞り出す。
しかし、彼女は刃を私に向け、冷たく言い放った。
「さようなら」
やばい。
身体が動かない。
にげ――
その瞬間、彼女の振り下ろす刃が、私の視界をかすめていった。
頬の上を、温かいものが流れ落ち伝っていく感覚。
刃が、私の頬をかすり、横をスレスレで突き抜けていった。
痛みを覚えたのは、耳元で彼女の声が聞こえた時だった。
「……外した」
「でも、次は必ず――殺す」
ダメだ。
逃げなくては。
考えるな。ただひたすら、逃げる。
かろうじてその場から逃げ出した私の頭には、それだけしかなかった。
“どうして、永美が?”
そんなことを考えている余裕などない。
逃げなければ、殺される。
立ち止まれば、死ぬ……!
雨の中を走る。
ただひたすら、走る。
後ろから、水だまりを踏みつける足音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と迫ってくる。
あの時と同じ光景――
私は、その場で走る足を止めた。
「行き止まり……!」
後ろから永美が近づいてくる。
私を殺そうと、友達が……
「永美……!」
永美は本当に私を殺すつもりなのだろうか。
「やめて……お願い……!」
彼女の足音が、目の前まで迫ってくる。
逃げ場をなくした私はただ、必死にかすれた声を絞り出し、祈ることしかできなかった。
崖の下、なすすべもなくうずくまる。
私の目の前まで来た永美は、そのナイフを振り上げ――
殺される――そう思った。
しかしその瞬間、なぜか彼女の動きが止まった。
しばらくの間沈黙が私達を包み込んだ後、永美が口を開いた。
「あんた今、自分が殺されそうになってるのに……私のこと、殺そうとしないんだ」
彼女はナイフを握りしめた腕を静かに下ろす。
「証拠のない『連続殺人犯』……どんな殺し方をしようとも、人を殺そうとすれば必ず表情は変わる」
彼女の身体が、雨に打たれて小刻みに震えていた。
「ずっと――あんたが『演技』してるんだと思ってた」
彼女の言葉が、雨音に混ざってかすかに聞こえてきた。
「けど、どれだけあんたを追い詰めても、あんたの表情は変わらない」
彼女は――泣いていた。
「あんたは……どうしてずっと、『お人好し』のままなの?」
彼女の声は弱々しくて、雨音にかき消されてしまいそうなほどに小さな声で……
その声は、悲しみに満ちていた。
「わ……私は……殺せないよ」
気が付けば、私の口から震えた声が出ていた。
立ち上がる力もないはずの足に、力がこもっていた。
「永美は……私の、友達だから」
永美の表情が変わる。
永美の弱々しい表情を見て、私の全身にどこからともなく力が湧いてくる。
私は立ち上がり、永美に言った。
「も……もう、終わりにしようよ、永美」
「未玖……?」
――もう、苦しまないで欲しい。
私は永美を抱きしめた。
どうしてこんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
それでも――ただそうしたいという思いだけが、おそらく私を突き動かしていたのだろう。
永美は私を殺そうとしていた。
今、彼女がどう思っているのかは分からない。
もしかすると、今すぐにでも彼女の握ったナイフで殺されるかもしれない――そう思うと、怖くて仕方がない。
それでも、永美の弱々しい表情を見た瞬間――
「また……皆で一緒に、ご飯を食べよう」
私の身体が、勝手に動いたから。
私の心が、助けなきゃ、って叫んだから。
「未玖……私はもう、分からないよ」
背中から、永美の弱々しい声が聞こえた。
「いや、ずっと分からなかったんだ。最初から、何もかも……」
「永美……?」
私達は二人とも、雨に濡れたまま、立ち尽くしていた。
永美は小さな声で言葉を続けた。
「未玖は私を友達だと言った……こんな私でも、友達だ、と」
激しく降りしきる雨が私達を包み込む中、
「あのままナイフを振り下ろしていれば確実にあんたは死んでいた。なのに、あんたは私を殺そうとしなかった」
永美の震える声が、耳元で響いていた。
「それならどうして、堀口君を……」
ようやく落ち着いてきた私の頭の中で整理できたのは、次の三つのことだった。
一つは、堀口祐太は永美の彼氏だったらしいこと。
それから、永美の父親が、私を目の敵にしている刑事であること。
最後に、永美は私を殺すつもりだったが、今はそれを躊躇っているらしいということ。
これだけ複雑に絡まった状況を打開する策も、私には思いつきそうにない。
かといって、このまま大人しく殺されるわけにはいかない。
整理ができたからといって、はっきり言って、わけの分からないことばかりだ。
けれど、だからと言ってこのままこの状況を嘆いてばかりいては、私の未来にあるのはおそらく死である。
「永美の言ってたことは、本当だよ。私は確かに、人を殺した」
その瞬間、永美の震えが止まった。
「堀口君は……私が最初に殺した人だった」
「どうして……!」
「堀口君が――私を殺そうとしたの」
永美の言う通りだ。
私は人を殺したんだ。
今までだってそのことを思い出す度に、何度生きた心地がしなかったかしれない。
「本来ならそのとき、私は死んでいたんだと思う」
「…………」
「でも――こんな私でも、まだできることがあるんじゃないかって思えたから」
私は決意したのだ。
私にだって、この力でできることがきっとある。
そう信じて、必死に生きてきた。
「私はあれから生きてきて、満咲を守れたことを、後悔してない」
だから、この力で誰かの命を守ると決めたんだ。
「弟を――大勢の人を殺した犯人を殺したことを、後悔してない」
だから、この力で誰かの心を救うと決めたんだ。
どんなに辛くても、私に生きる価値があると言うのなら。
自分の進む道が「より正しい」選択なのだと信じて、私は進んできた。
「未玖……」
永美は私から離れ、小さな声で呟いた。
「あんたは……相変わらず、真っ直ぐな『お人好し』なのね」
永美の表情が崩れていく。
「だって……あんたの話聞いたら……」
それは先程までの殺気に満ちた表情ではなく、
「あんただって辛かったんだって、分かったから……」
いつも澄ました顔をしている永美が今までに浮かべたこともない――泣き顔だった。
「正直、あんたのことが信じられなかった。あんたのことが怖くなった」
「…………」
「でも、あんたの話聞いて、やっぱりあんたはあんたのままなんだなって」
永美は何度も何度も謝ってから、再び私に強く抱きついた。
「永美……!?」
思わず驚く私に、永美は泣きながら言った。
「あんたのこと、信じられなくてごめん。怖がったりしてごめん」
彼女は意を決したように告げた。
「でも――私も、あんたの選択が正しいと思った」
私の腰に回す彼女の腕に、力が入った。
「だから、私もあんたのこと――」
『〔信じるよ〕』
次の瞬間、脳内に響き渡った冷たい「声」を理解した私は――背筋が凍り付くのを感じた。
『……なんて、都合のいいことあるわけないじゃない』
気がつけば私は、咄嗟に永美を突き放していた。
バランスを崩しよろめいた彼女は、
「――何で気がついちゃうのかしらね」
「永美……どうして……」
乾いた涙を拭い、低い声で小さく呟いた。
「今、私が――あんたを殺そうとしたこと」




