第35話 悪夢
父は、今でも事件の犯人を追い続けている。
でも、警察はとっくに事件を追うことをやめている。
《捜査の内容についてはいくらお前でも教えらんないな》
あの事件が起きて以来、父は私に事件のことを話すことをやめた。
私が聞いても、教えられないと言ってはぐらかすようになった。
「何かあったのか、永美」
「……別に」
「そうか」
帰宅した父は、リビングでそのまま放心する私を見て心配そうに声をかけてきた。
もう私には何もない。
今頼れるのは、父親しかいない。
未玖は……蒲田未玖はやっぱり、「お人好し」のクソ野郎だった。
「事件の犯人、私分かったよ」
「な……何言ってるんだ、永美」
父が驚いた顔をしていた。
「未玖に、話を聞いた」
「…………」
父は顔を伏せていた。
「未玖は……堀口裕太のことを知っている」
「どうしてお前がそんなことを……」
「私は! ……私は、本当のことを知りたかっただけ」
「でも、お前はあんなに……」
「もう、いいから」
父はうつむいたままだった。
「もう、いいよ。そういうの……私は、友情で自分の正義を曲げたくない。正しいか正しくないか、それが全てだと思うから」
「そうか……」
父は私の頭に手をのせて言った。
その手がとても大きく、重たく感じた。
「辛い思いをさせてしまって済まなかった、永美」
「……どうして父さんが謝るのよ」
父さんは黙ったままだった。
私は言葉を続けた。
「これは父さんのせいなんかじゃない。そもそも全部、こんなことを引き起こしてる人間のせいだから。諸悪の根源は――私達の苦しみの元凶は、あいつだもの」
父さんは黙っていた。
しばらくの間沈黙が流れ、そして彼は重たい口調で言ったのだ。
「……あの子を逮捕することはできないんだ。警察では、証拠を掴むことができない」
父親はそう言って、私の頭から手を下ろした。
その無力な父の手を見て、私は気がついた。
父親に事実を伝えれば、何とかなると思っていた。
物語の結末が正しい方向に向かうと思っていた。
――けれど、現実は違うようだ。
私達がどれだけ必死にあがこうと、答えは決まっていたのだ。
何もかも、無意味だった。
たとえ犯人が誰であると分かろうと、
たとえ未玖の本性に気がつこうと、すべては何の意味もなさない。
私達はずっと、彼女の掌の上の存在でしかなかったのだ。
☆★☆
その日の夜見た夢は、酷い悪夢だった。
その時、ザーザーと雨の降る街の中を、私は歩いていた。
どこへ向かって歩いていたのかは覚えていない。
この間、彼氏ができた。
正義感が強い、とても素敵な人。
私を孤独から救ってくれた、唯一の存在。
――のはずだった。
「どうして……」
その時、たまたま街で見かけた彼氏の隣には、同じ歳くらいの可憐な女の子がいた。
幸せそうに歩く二人の後ろ姿を見た瞬間――私の中で、何かが込み上げてくるのを感じた。
それは怒りに似た感情でもあり、悲しみに似た感情でもあった。
落胆に近い感情でもあり、絶望に近い感情でもあった。
「堀口君……どうして……っ!」
居ても立ってもいられなくなった私は、咄嗟に彼の背中を掴んだ。
すると、隣の女の子がこちらを振り向く。
その子の顔に、私は見覚えがあった――
「未玖……なん……で……」
驚いていたのは私だけではなかった。
彼女もまた、私を見て目を丸くしている。
「行こう、未玖」
彼はそう言うと、私の手を払いのける。
雨が激しく私に降りかかった。
「堀口君……あの……永美が……私は……」
「気にしないで、未玖。僕と一緒に行こう」
いや……嫌だ……。
待ってよ、二人とも……!
叫ぶ私の声は届かず、彼は未玖のことだけを見ていた。
「だって、僕達はこんなに愛し合っているじゃないか」
そう言って彼が未玖に優しく微笑みかけた時、胸が張り裂けそうな思いになった。
「待って……堀口君……」
お願い。私を、捨てないで。
「待ってよ……お願い……」
もう独りは嫌なの……。
「永美……」
ふとこちらを振り返った未玖は、今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「永美……ごめんね……私、知らなかったの……。でも私、やっぱり……彼のこと、本当に愛しているから……」
その瞬間、私の耳にはザーザーと激しく降る雨音しか聞こえなくなった。
理解したのだ。
問いただしたところで、きっと何も変わらないのだろう。
彼との関係が以前のように戻ることなど、もうないのだ。
――私は、彼に捨てられたのだ。
「未玖は……悪くないじゃない」
そんな私にできることは、あのとき見た二人の幸せを願って、私自身が身を引くことぐらいだった。
《だって、僕達はこんなに愛し合っているじゃないか》
それしか、私にはできなかった。
だって――邪魔者は、私だけだったのだから。
やり場のない悔しさと悲しみで、涙が溢れて溢れて止まらなかった。
だって。だって。だって。
私には、こうするしかないじゃない。
堀口君に選んでもらえなかった私は、こうするしか――
「ああ、そっか……やっぱり私は、最初から孤独だった」
雨音しかない空間の中で、私の声だけが空しく響き渡った。
次の瞬間、世界がぐらぐらと揺らめき、足元が崩れだした。
崩壊する世界の中で、私は真っ逆さまに暗闇へと落ちていく。
目の前を、賑やかな笑い声が通り過ぎていった。
それは、かつての友人達の声。
今は無き、友人達の声。
気がつけば私には、頼れる友人は一人としていなくなっていた。
気がつけば私は、学校の屋上でひとり、お弁当を食べていた。
すると、誰かの足音が聞こえた。
未玖と、もう一人、同じクラスの男子生徒の姿が見えた。
「やっぱり蒲田さんは、優しい人だ」
「何で私なんかを……そんな風に見てくれるの」
男子生徒は照れくさそうにはにかんで言った。
「ずっと、そう思ってたんだ。僕は、君のことが好きだから」
「神峰君……」
次の瞬間、未玖は笑顔を浮かべて答えた。
その言葉を――私は信じることができなかった。
「いいよ。私も神峰君のこと、好きだし」
(未玖……?)
黒紫の雲が、空一帯を覆っていく。
足元がぐにゃりと歪み、視界が霞んでぼやけていく。
《だって、僕達はこんなに愛し合っているじゃないか》
「神峰君……キス、しよっか」
(冗談はやめてよ、未玖……) 遠くの方で、雷が轟いた。
「えっ、でも誰かに見られたら……」
《永美……ごめんね……私、知らなかったの……。でも私、やっぱり……彼のこと、本当に愛しているから……》
「大丈夫だよ、誰もいないし。ね?」
「う……うん」
(冗談……なのよね……?) 空を覆う雲が、酷く澱んで見えた。
「ねえ……神峰君、もしかして、初めてなの?」
「えっ、そんなこと……ないよ」
《未玖は……悪くないじゃない》
「ふふ……やっぱり、照れてるもん。可愛い」
「……もう、蒲田さん……」
(やめて……やめてよ……) 私の頭の中に、不気味な音が響き渡る。
《だって、僕達はこんなに愛し合っているじゃないか》
《でも私、やっぱり……彼のこと、本当に愛しているから……》
「あなた達は……本気で愛し合っているんじゃなかったの……」
《僕は、あの子と一緒に行くんだ》
「堀口君は……あなたを愛しているのに……!」
重なる二人。
その二人に、私の叫び声は届かなかった。
「答えてよ……未玖……」
世界が不気味な色に包まれていく。
「あなたにとって、堀口君は……私は、何だったのよ……」
どんなに叫んでも、私の声は届かなかった。
「僕と一緒に行こう、蒲田さん」
男子生徒が、かつて私を捨てた堀口君と同じ言葉を、未玖に掛ける。
「…………」
未玖は、少しの間黙っていた。
――しかし次の瞬間、未玖の口から出た言葉に、私は耳を疑った。
「あーあ、やっぱりつまんないの」
「……そういうの私、面倒くさいから嫌いなんだよね」
その瞬間、男子生徒が――倒れた。
(あれ……なんで……)
目の前の光景が、信じられなかった。
何が起きているのか理解できないまま、気がつけば、蒲田未玖はこちらに向かって歩いてきた。
「永美、どうしてこんなところで……一人でお弁当を食べているの?」
“彼女はいつも通りの笑顔を浮かべていた。”
「……何しに来たの」
「ここは、その……寒いと思って」
“彼女はいつも通りの笑顔を浮かべていた。”
「あのね、永美がいないと……私は寂しいよ」
“彼女はいつも通りの笑顔を浮かべていた。”
「永美が何を思っているのかは私には分からないけど、その……私は、永美の味方でいたいから」
“彼女はいつも通りの『笑顔』を浮かべていた。”
《あーあ、やっぱりつまんないの》
《……そういうの私、面倒くさいから嫌いなんだよね》
――先程の未玖の言葉が、頭から離れない。
「何……演技してるの……?」
私の喉から、震えた声が漏れ出す。
「演技じゃないよ? 永美」
「じゃあ、あの男の子はどうしたの……堀口君は、どうしたのよ……!」
抑えていた感情があふれ出し、涙が止まらなかった。
不自然にキョトン、と小首を傾げる未玖に、私は泣きながら叫んだ。
「だってあなた達は……私を差し置いて、あれだけ愛し合っていたじゃない……!」
「愛……。『愛』、ねぇ……」
泣きながら喚く私の前で、未玖は至って冷静な顔で呟いていた。
しかし次の瞬間、世界のすべての音が止み――
私の耳元で彼女の囁く声が聞こえたとき、私の全身に凍り付くような寒気が走った。
「そんなもの、この世に存在するわけないじゃない」
(……え……?)
すると、彼女はハア、ため息をついて言った。
「愛してる、だの、僕と一緒に行こう、だの、人間って本当に面倒くさいよね」
彼女の姿が、黒紫の不気味な空に重なって見えた。
「だからね……殺しちゃった」
「連続殺人犯」はそう言うと、突然私の前でお腹を抱え――笑いを堪えて言った。
「でもね、永美は面白いから好きだよ?」
「何……言ってるの……?」
「必死で頑張って強くあろうとしてるの、とても滑稽で素敵」
「や……やめてよ……」
「自分は天才だから? 周りがレッテルを貼って遠ざかる? はは、笑わせないでよ」
「やめて……お願い……!」
「他人にレッテルを貼って心を閉ざして。周囲から遠ざかっているのは、いつだって――あなたなのにね?」
「連続殺人犯」は顔に「笑顔」を貼り付ける。
いつもの彼女の笑顔が、私を見下して嘲り笑っていた。
「どうして……そんな簡単に人が殺せるんだ……」
人の大切なものを奪っておいて、平然と笑っている。
蒲田未玖は――この女は、私を見下して、わらっている。
「あんたは……人の命を何だと思ってるんだ……!」
その瞬間、わらっていた彼女の「笑顔」が消えた。
彼女の瞳は輝きを失い、黒く、黒く濁っていく。
栗色の髪の毛が、赤黒い血に染まっていく。
「別に……何とも思ってないけど?」
彼女の濁った瞳が、自分を捉えた。
その瞬間、私は底知れぬ恐怖を感じた。
(…………!)
彼女の瞳には、何も映っていなかったのだ。
躊躇いも、哀れみも。
そこにあったのは、ただひたすらの――闇だった。
――私も、殺される。
本能が「死」の恐怖を感じ、一瞬恐怖に身を震わせたが、
彼女の笑い声ではっと我に返り、その恐怖は屈辱へと変わった。
「私が何であなたを殺さないか教えてあげる」
「連続殺人犯」はニコリ、と不気味な笑みを浮かべて言った。
「あなたがね、私をとっても楽しませてくれるから」
「そうだね、ゲームの一番の醍醐味と言ってもいい」
世界が、ぐにゃりと曲がっていき、
不協和音が、脳内で響き始める。
「どんな困難も、プライドが高いあなたは必死に強く乗り越えようとする」「とても素敵。そんなあなたが必死に、登れるはずもない壁を登ろうとして落ちていくのを見ていると、とても滑稽で……ゾクゾクしちゃう」バランスの崩れた音達が、私の頭の中でぐわんぐわんと鳴り渡った。「水槽の中の金魚達が必死になって外の世界に出ようともがいて、やっと出られたと思ったら、息が苦しくて死んでしまう――それを眺めている感覚に近いかしら」
その瞬間、ピタリと不協和音が鳴り止んだ。
「そんな金魚達の先導を切って進む――あなたのような駒がいてくれるから、私はこのゲームをより楽しむことができるの」
彼女の不気味に微笑むのを見て、私の背筋に戦慄が走る。
そして、目の前の蒲田未玖という「連続殺人犯」は、私という「被害者」を眺めながら――
恍惚とした表情を浮かべ、囁くように呟いた。
「もっと楽しませてよ……永ー美ちゃん」




