13
眼鏡がないから、いろいろなものがよく見えなかった。講堂のドアが遠ざかっているのは分かったけど、さっき何が起こったのか理解出来なかった。
だけどいくら眼鏡がないからって、現実逃避したからって、ヘイリーがあたしを抱えて歩いているのに変わりはなかった。彼があたしを手放す様子もなかった。とにかくこの状態からは脱するべきだ。身をよじっても、ヘイリーはあたしを取り落としたりはしなかった。彼を睨んでも、平然した顔をして前を向いている。
「おろして! さっきのは何なの? なんであんな……」
ヘイリーが誰かに宣言をしていた、あれは一体何なのか。そもそも会場にヘイリーの姿はなかったはず。
「なぜって」
ヘイリーは一度区切ってから続ける。
「分からせる必要があったから。ふざけたイタズラをするやつに、コニーに手を出したらおれが黙っていないってことを」
前を向いたままヘイリーは歩き続ける。
「それから」
あたしを抱え直して、ヘイリーは呼吸した。
「鈍い幼なじみにヘイリー・ニューマンがどれだけコニー・フェアフィールドに夢中かも、分からせるべきだと思って」
彼はこちらを向いて、満足そうに微笑む。
なに、それ。
何それ、訳が分からない。
あたしは顔をそらすしかなかった。
ヘイリーは立ち止まってあたしを地面におろした。でも手は離れなくて、肩を引きよせられる。
「……遅くなって悪かった。トニーに足止めされてて……たぶん、リンジーに頼まれたんだろうな。そのせいでコニーの演奏も途中からしか聴けなかった」
ヘイリーの声がすごく近くで聞こえる。相手を見ていなくても、お互いの顔が近いのが分かる。こんな距離には慣れていない、だからあたしの頬が熱を持つのだ。そうに違いない。
「椅子のペンキもリンジーだ。わざわざ観客席で見てた。さっきので諦めてくれるといいんだけど……」
「は、はなして」
ああとにかく、とにかくこの距離をなんとかしないと。あたしにはヘイリーの言ってる事の半分も聞こえていなかった。
なんとかヘイリーを突っぱねると、あたしたちの間に少し空間が生まれた。けれどヘイリーはあたしの右手を当然のように取る。
「……コニー、ひとつ聞きたい。この前の夏休み、モールに一緒にいたやつは誰だ?」
この前の夏休みっていうフレーズには聞き覚えがある。以前もヘイリーはその事で何か言おうとしていた。夏休みにヘイリーはモールで何を目撃したっていうの?
あたしは言われた事を考えるフリをしながら、左右を見回した。どうやらヘイリーの車のところまで連れてこられたようで、背中には運転席のドアがある。
「黒髪で、背はそんなに高くはなかったはずだ。何を話してたのか知らないが、お前と一緒にいてやけに楽しそうだったじゃないか」
ヘイリーの声がほんの少し剣呑になった。あたしがゆっくりと左に逃げようとしたのを見咎められ、あたしの左に手をつかれる。退路がふさがれた。
仕方なしに、あたしはうつむいたまま考えた。あたしが夏休みにモールに行った記憶は少ない。その中でも両親以外と行ったのは一回だけだ。
「あれは、たまに会う親戚の子……」
数少ない交流ある我が家の親戚の一人、ジム・フェアフィールドだ。ヘイリーの言う特徴からしてもジム以外あり得ない。ママには交流のある親戚はいないし、パパも自分の両親とはそれほど親しくない。ジムはたしか、パパの叔父さんの孫あたりだった気がする。
「なんだ、……よかった」
安心したように言って、ヘイリーは片手をあげ体を起こした。なんだか質問の意味がよく分からなくて、あたしは顔を上げた。
「だったら何なの?」
ヘイリーは自分の髪をくしゃりと撫でていた。あたしと目が合うと、眉を寄せる。
「さっきから言ってるのにまだ分からないのか? ほんとに鈍いな。鈍くて、地味で、目立たないやつだから、誰にも見つからないままだと思ってた。でも夏休みに、おれの知らない男に微笑みかけてるから、焦った」
ちょっとした悪口にあたしの眉間にはしわが寄ったけど、最後の言葉でしわは四散した。
焦る? なんで? ジムとはごくたまに会う相手で正直そこまで仲よくない。パパのネタで会話が盛り上がればまだいい方だ。
あたしの怪訝な顔をおかしく思ったらしいヘイリーは微笑を浮かべていたけど、ふいにそれを真剣なものに変える。ママの病院で見せた表情に似て、痛みをこらえても見えた。
「あの時、お前が音楽には色が見えるって言ったのを、おれがなんであんなに否定したか分かるか? 好きな女の子と同じものがおれには見えなかったのが、嫌だったし、悲しかったんだ、コニー」
ざわつく胸には、不安が押し寄せた。
だめ。この話を、これ以上聞いてはいけない。
あたしはまた視線を外すしかなく、気難しい顔を努めた。
「好きな子が目を輝かせて語る世界をおれも見たかった。理解したかった。置いていかれたくなかった。自分とは違うって拒絶された気がしたんだ。結局、傷をつけたのはおれの方だった。ごめん、コニー」
胸の奥のざわめきが消えない。もっと増すようだった。
喉がカラカラだ。
彼の瞳を受け入れてしまえば、あたしはきっと引き返せなくなる。
「コニーに見えてる世界を教えてほしい。いまは、君の好きな曲の色が知りたい」
未だに右手は解放してくれなくて、それをぎゅっと握られる。
「それから……破れた部分は別として、今日の君はすごく素敵だ」
確かに今日のあたしはめかしこんではいたけど、まるで今思い出したように付け加えられた賛辞。けれどその声は美の女神にでも出会ったかのように崇拝の念を含んでいて、あたしは――
「近い」
ヘイリーの口元を手で押しやった。
一瞬パニくりそうになったけど、あたしだって相手の唇が間近にあったら相手が何を考えるかくらい分かる。あたしの顔が真っ赤になってる事も相手に知れてるだろうが。
残念そうな顔をしたヘイリーが何かを言おうと口を開いた時、わざとらしい咳払いが聞こえた。ヘイリーがぱっとあたしから離れた。
「パパ」
なんとか言えたのは、それだけ。
パパとママが、少し離れた場所に立っている。
うそでしょ。一体どこから見られてたの?
今すぐ消え去りたい。
銀河系の彼方で塵と化して燃え付きたい。
「……先程娘を助けてくれた事には礼を言うが、今すぐ娘から離れなさい」
顔まではよく見えないが、声からしてパパは怒っている。まあ理由は分かるけど。
ヘイリーは大人しくあたしから一歩離れた。
「まあいいじゃないの、パパ。よく分からない口説き文句しか言えなかったあなたよりはストレートで分かりやすいわ」
ママの言葉で、パパが何かを喉につまらせたような音をたてた。やっぱりパパはママには勝てない。
そしてママが杖をついて一歩前に出た。
「でもあなたには前科があるわね、ヘイリー? 今度中途半端な真似をしたらどうなるか分かってるわね?」
今のママの顔がどんなか分かる。言い訳を許さない裁判長の目をしているはずだ。ピアノのレッスンをさぼるとよくあの目で睨まれた。
「き、肝に命じます」
ヘイリーもママのピアノ教室の生徒だったから覚えがあるだろう。そうでなくとも気まずげだ。
「とにかく今日は帰りましょう。コニーの服もなんとかしなくちゃいけないし」
ママが言うと、パパがその歩行を支えるようにママの肩を寄せた。
「じゃあコニーはおれの車で――」
「うちの子はもちろんうちの車に乗る。どうしてもって言うんならヘイリー、君も乗せていってもいいが、一人で帰ってもいいんだぞ?」
ヘイリーの言葉にかぶせて、パパがやけに楽しそうな声をあげる。ヘイリーは黙った。
パパとママが自分たちの車に向かって歩き出したのであたしもそれに従った。ヘイリーもだ。
道中、学校の生徒が何か言ってるのを聞いた。
「ウッソ、あれって超高級車じゃん。コニーってお金持ちの子だったの?」
全力で隠してはいなかったけど、あんまり目立つ真似はしたくなかったから、学校ではあたしのパパがちょっとした資産家だって事は言わなかった。ママも豪邸に住んだり贅沢はしたくないって言うから、あたしの望みは叶っていた。たぶん、今日までは。まあでも、いっそこれでリンジーがあたしにビビって遠ざかってくれたらいいんだけど。
パパとママが先にパパの車にたどり着いた。ママを助手席に乗せたあと、パパも運転席に入りこむ。まるでそのタイミングをはかったかのようにヘイリーがあたしの名前を呼んだ。
「せめて、おれを嫌いじゃないって言ってくれ」
ぎくりとした。あたしが先のばしにしてきたものが追いついてきたのだ。
ヘイリーを振り返る事は出来ない。
たぶん、あたしはあらがえない。抗し難い魅力を持つあの灰色の瞳から。
ほんとはずっと恨んできたはずの相手に、嫌いになったきっかけも誤解だったと言われて、簡単に納得なんて出来ない。
でも。何度も助けてもらった。
でも。なんだか不安が募るばかり。
でも。ヘイリーはあたしの音楽の色や作曲の事、いろんな事を認めてくれた。
でも。また昔みたいに失われてしまうのが、こわい。
だから、この気持ちは、まだ隠さないといけない。また傷つくのが怖いくせに、彼の瞳に期待してしまうなんて事は、誰にも言わなくていい。
「……もう嫌ってないよ。でも、それだけだから!」
突っぱねるように言葉尻をきつくしたはずが、ヘイリーには優しく微笑まれた。
「充分だ。今まで後ろめたかったし、嫌われてるのは分かってた。でももう、遠慮しないから」
最後には、勝利を確信した挑戦者の笑み。
あたしの顔は一気に熱を集めはじめる。
「……っ、パパ! やっぱりヘイリー置いて行こう!」
波乱の音楽会が終わって、あたしの平凡な学園生活が戻ってきたかというと、そうではない。
親友のサンドラにはヘイリーと何があったのか質問責めにされるし、観客席にいたパパを著名人と知る生徒の一人につけ回されるし、そうでなくとも単純にお金持ちの娘と知って声をかけてくる生徒が増えた。
そしてもちろん、学園の人気者、ヘイリー・ニューマンのガールフレンド認定をされてしまった事で、あたしは透明人間でも目立たない生徒でもなくなってしまった。
唯一の救いは、リンジーが自分に振り向かない見る目のないダメ男だとヘイリーを諦めた事ぐらいだ。
それから、ヘイリーとあたしがどうなったかっていうと――長い長い戦いのはじまった。
あたしが、ヘイリーの魅力に完全に逆らえなくなるまでの。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。