勇気
木造建築の古びたアパート。
六畳ほどの狭い部屋で、フリーターの黒崎と女子高生のミコによる作戦会議が行われていた。
ローテーブルの上にはノートパソコン、住宅街の地図、コンビニのレシート、そして五人分の写真が並べられている。地図には赤いペンで時間や移動経路が細かく書き込まれていた。
黒崎は一枚の写真を手に取る。
「最初のターゲットは山本愛。」
ノートパソコンには、駅前の防犯カメラの位置やコンビニ、防犯灯まで表示されていた。
「毎週金曜の夜九時十分。駅を出て、この道を通る。」
黒崎は地図を指でなぞる。
「途中でコンビニに寄ることもあるが、今日は寄らない。SNSを見る限り、友達と飯を食った帰りだ。」
ミコは驚いたように黒崎を見る。
「そんなことまで……。」
「SNSは自分から情報をばら撒く便利な道具だからな。」
黒崎は淡々と言う。
「今日は脅かすだけだ。」
写真をミコへ差し出した。
「写真には中学校時代の山本愛の写真、そして『見てるよ』とまるで血文字のような、おどろおどしい文字が書かれていた。
「山本愛が立ち止まった隙に足元へ落とす。それだけでいい。」
「声は掛けない。姿も見せない。今日は恐怖の種を植えるだけだ。」
ミコは封筒を強く握り締め、小さく頷いた。
「……はい。」
その日の夜。
街灯だけが住宅街を照らしている。
山本愛がイヤホンをつけ、スマホを眺めながら歩いていた。笑いながら誰かと通話でやり取りしている。
電柱の陰から、その姿を見つめるミコ。
手には黒崎から渡された写真。
(今なら……。)
足を踏み出す。
一歩。
あと数メートル。
それだけだった。
だが、その瞬間だった。
山本愛の笑い声が夜道に響く。
その声を聞いた途端、ミコの身体が凍り付いた。
『気持ち悪い。』
『死ねよ。』
『誰も助けないから。』
教室で浴びせられた言葉が、昨日の出来事のように頭の中で響き始める。
笑い声。
机を叩く音。
スマホのシャッター音。
自分を見下す視線。
全部が一気に蘇る。
(違う……。)
(もう終わったこと……。)
そう思っても身体は言うことを聞かなかった。
呼吸が浅くなる。
鼓動が速い。
手の震えが止まらない。
封筒がカサカサと音を立てる。
(動いて……。)
(お願い……動いて……。)
足は地面に縫い付けられたように動かなかった。その音に気付いたのか、山本愛が足を止める。
「……誰?」
イヤホンを外し、辺りを見回す。ゆっくりとこちらへ近付いてくる。ミコの心臓が激しく鳴る。
(見つかる……。)
(逃げなきゃ……。)
(逃げて……。)
頭では何度も命令している。それなのに身体は一歩も動かない。息が苦しい。胸が締め付けられる。視界の端が白く霞んでいく。涙が勝手に溢れてきた。
もう駄目だ――そう思った、その瞬間。
ガシャンッ!!
別方向で大きな音が響いた。
「きゃっ!」
山本愛が驚いて振り返る。黒崎がわざと自転車を倒したのだ。
「何?」
帽子を深く被った黒崎は、酔っ払いを装いながら自転車を起こす。
「……悪ぃ。」
呂律の回らない声で呟き、そのままふらふらと歩き去っていく。山本愛は不審そうな顔をしたが、やがて肩をすくめて帰っていった。
その姿が見えなくなった瞬間、ミコは膝から崩れ落ちた。
「……ごめんなさい。」
「何も……できませんでした。」
息が乱れ、涙が止まらない。黒崎は何も責めず、黙ってペットボトルの水を差し出した。
「最初はそんなもんだ。」
しかし、ミコの呼吸はさらに乱れていく。
「はぁ……はぁ……。」
胸を押さえ、苦しそうにうずくまる。息を吸っているのに苦しい。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
手足の感覚まで薄れていく。
過呼吸だった。
黒崎はしゃがみ込み、静かな声で言う。
「俺を見ろ。」
ミコは震える瞳で黒崎を見る。
「大丈夫だ。」
「ゆっくり吸って……。」
「ゆっくり吐け。」
「俺の呼吸に合わせろ。」
黒崎は自分の呼吸をゆっくり繰り返す。ミコも必死に真似をする。
「……すぅ……。」
「……はぁ……。」
何度も何度も繰り返し、十分ほど経ってようやく発作は落ち着いた。
帰り道。二人はしばらく無言で歩いていた。
夜風だけが静かに吹いている。やがて黒崎が口を開いた。
「今日の作戦は失敗だったな。」
ミコは俯いたまま何も答えない。悔しかった。怖かった。情けなかった。復讐すると決めたのに、一歩も動けなかった自分が許せない。
拳を強く握り締める。爪が掌に食い込むほど力を入れても、その悔しさは消えなかった。




