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9/9

勇気

木造建築の古びたアパート。


 六畳ほどの狭い部屋で、フリーターの黒崎と女子高生のミコによる作戦会議が行われていた。


 ローテーブルの上にはノートパソコン、住宅街の地図、コンビニのレシート、そして五人分の写真が並べられている。地図には赤いペンで時間や移動経路が細かく書き込まれていた。


 黒崎は一枚の写真を手に取る。


「最初のターゲットは山本愛。」


 ノートパソコンには、駅前の防犯カメラの位置やコンビニ、防犯灯まで表示されていた。


「毎週金曜の夜九時十分。駅を出て、この道を通る。」


 黒崎は地図を指でなぞる。


「途中でコンビニに寄ることもあるが、今日は寄らない。SNSを見る限り、友達と飯を食った帰りだ。」


 ミコは驚いたように黒崎を見る。


「そんなことまで……。」


「SNSは自分から情報をばら撒く便利な道具だからな。」


 黒崎は淡々と言う。


「今日は脅かすだけだ。」


 写真をミコへ差し出した。


「写真には中学校時代の山本愛の写真、そして『見てるよ』とまるで血文字のような、おどろおどしい文字が書かれていた。





「山本愛が立ち止まった隙に足元へ落とす。それだけでいい。」


「声は掛けない。姿も見せない。今日は恐怖の種を植えるだけだ。」


 ミコは封筒を強く握り締め、小さく頷いた。


「……はい。」




 その日の夜。


 街灯だけが住宅街を照らしている。


 山本愛がイヤホンをつけ、スマホを眺めながら歩いていた。笑いながら誰かと通話でやり取りしている。


 電柱の陰から、その姿を見つめるミコ。


 手には黒崎から渡された写真。


(今なら……。)


 足を踏み出す。


 一歩。


 あと数メートル。


 それだけだった。


 だが、その瞬間だった。


 山本愛の笑い声が夜道に響く。


 その声を聞いた途端、ミコの身体が凍り付いた。


『気持ち悪い。』


『死ねよ。』


『誰も助けないから。』


 教室で浴びせられた言葉が、昨日の出来事のように頭の中で響き始める。


 笑い声。


 机を叩く音。


 スマホのシャッター音。


 自分を見下す視線。


 全部が一気に蘇る。


(違う……。)


(もう終わったこと……。)


 そう思っても身体は言うことを聞かなかった。


 呼吸が浅くなる。


 鼓動が速い。


 手の震えが止まらない。


 封筒がカサカサと音を立てる。


(動いて……。)


(お願い……動いて……。)


 足は地面に縫い付けられたように動かなかった。その音に気付いたのか、山本愛が足を止める。


「……誰?」


 イヤホンを外し、辺りを見回す。ゆっくりとこちらへ近付いてくる。ミコの心臓が激しく鳴る。


(見つかる……。)


(逃げなきゃ……。)


(逃げて……。)


 頭では何度も命令している。それなのに身体は一歩も動かない。息が苦しい。胸が締め付けられる。視界の端が白く霞んでいく。涙が勝手に溢れてきた。


 もう駄目だ――そう思った、その瞬間。


 ガシャンッ!!


 別方向で大きな音が響いた。


「きゃっ!」


 山本愛が驚いて振り返る。黒崎がわざと自転車を倒したのだ。


「何?」


 帽子を深く被った黒崎は、酔っ払いを装いながら自転車を起こす。


「……悪ぃ。」


 呂律の回らない声で呟き、そのままふらふらと歩き去っていく。山本愛は不審そうな顔をしたが、やがて肩をすくめて帰っていった。


 その姿が見えなくなった瞬間、ミコは膝から崩れ落ちた。


「……ごめんなさい。」


「何も……できませんでした。」


 息が乱れ、涙が止まらない。黒崎は何も責めず、黙ってペットボトルの水を差し出した。


「最初はそんなもんだ。」



 しかし、ミコの呼吸はさらに乱れていく。


「はぁ……はぁ……。」


 胸を押さえ、苦しそうにうずくまる。息を吸っているのに苦しい。 


 視界が揺れる。


 耳鳴りがする。


 手足の感覚まで薄れていく。


 過呼吸だった。


 黒崎はしゃがみ込み、静かな声で言う。


「俺を見ろ。」


 ミコは震える瞳で黒崎を見る。


「大丈夫だ。」


「ゆっくり吸って……。」


「ゆっくり吐け。」


「俺の呼吸に合わせろ。」


 黒崎は自分の呼吸をゆっくり繰り返す。ミコも必死に真似をする。


「……すぅ……。」


「……はぁ……。」


 何度も何度も繰り返し、十分ほど経ってようやく発作は落ち着いた。


    


 帰り道。二人はしばらく無言で歩いていた。

夜風だけが静かに吹いている。やがて黒崎が口を開いた。


「今日の作戦は失敗だったな。」


 ミコは俯いたまま何も答えない。悔しかった。怖かった。情けなかった。復讐すると決めたのに、一歩も動けなかった自分が許せない。

拳を強く握り締める。爪が掌に食い込むほど力を入れても、その悔しさは消えなかった。

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