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悲愴の果て

14 精神崩壊


「意識レベル3。呼びかけ反応なし。生命兆候は安定……だが、これは……」

 救急隊員が言葉を濁す。

「隊長、川崎病院精神医療センター搬入許可でました」

「よし、急げ」

  中川署が非常線を張り警察官、鑑識課が沢木橋を重点的に捜査している中、赤色を回しサイレンと共に救急車が動き出した。

 ストレッチャーに揺られる患者――重伝琴葉だった。

 雨の中でも早朝に多摩川沿いの散歩を日課としている八十過ぎの老人が偶然重伝を発見したのだった。発見が遅れれば低体温症で確実に命を落としていたところだ。

 揺れる救急車の中、体温保護シートに覆われた重伝を見つめる消防隊員が呟く。

「でもまた全裸とは」

「精神に異常を来していることは確かだ。体温はどうだ?」

 モニターを見つめる隊員が報告する。

「体温は上がりつつあります。脈拍、血圧、呼吸数もあと少しで正常値になりますが。意識反応はかなり鈍いです」

 隊長は言う。

「手遅れにならなくて良かったが、反応がないと言うことは脳にはダメージがあるということか……まあ病院が調べることだ。俺たちの役目は無事に搬送することだけだ」


 慎重かつ大胆に救急車は走る。廃人と化した重伝を載せて――


 宝来警察署第六会議室午前九時

「重伝が来てない?」

 神崎は困った顔で頼近に報告していた。

「そうなんですよ、頼近係長。携帯に電話しても不通ですし」

 頼近は額に手を当てる。

「困ったな、連絡があるまで待つか。そうだな……神崎、今日は吉川班に合流してくれ」

「承知しました」

 頼近は昨日の報告書に目を通しながら神崎に尋ねた。

「昨日、カズサトモヒトのご両親を聴取したんだよな……その時何かあったかい?」

 神崎は思い出しながら頼近に言う。

「そう言えば、カズサトモヒトはその昔、重伝の部下だったようで、かなり可愛がっていたとか。そうだ天誅教の祭壇、と言っても小さいものでしたが、見た時になんかがっかりしたような表情でしたね」

 ふん、と頼近は返事をした。「まあいい、顔出したら叱ってやる。場合によっては担当を外すぞ」


 この時までは多摩川沢木橋付近で見つかった重伝の一件は知らないが、午後になって神奈川県警からの一報で『変死体捜査評議会』の面々は大騒ぎとなった。

 息せき切って副署長室に飛び込んだ頼近は加藤に詰め寄った。

「重伝が殺されたって、ホントですか!」

 加藤は冷静に言う。

「頼近、落ち着き給え。殺されてはいない。命はあるが様子が尋常ではないらしい」

「どういう意味ですかっ」

「詳しい経緯はワシにも分からん。どちらにしろどんな状態なのかこれから面会に行く。ワシも、ある意味、重伝とは繋がりがあるのだからな」

「私も同行させてください」

 やれやれと言いたげに加藤は首を振った。

「重伝を指名したのは君だからな。いいだろう」


 川崎病院精神医療センター

「こちらです」

 担当医が看護師とともに加藤と頼近を809号室に案内する。「今までとは違いますので驚きませんように」

 念を押すように担当医は言う。

 ドアを開ける。その先にはベッドに腰掛けている重伝を見つけた。呆けたように口を開け、天井の一点を見つめるような重伝がいた―しかしその瞳には光が感じられない。

「まだ寝てなきゃいけませんよ」

 優しく看護師が促すが、重伝はゆっくりと立ち上がった。

 そして鈍い音がすると介護着の足元から黄色っぽい水が流れ落ちた。

 それは尿だ。

 重伝は顔色も変えず失禁したのであった。

「失禁パンツに履き替えだ、君、用意しろ」

「分かりました」

 当たり前のように指示する担当医の言葉に看護師は事務的に用意し、モップで尿を吸い取り重伝の尿まみれの下着を履き替えさせるテキパキとした一連の動作には、如何に百戦錬磨の加藤にも驚きを隠せなかった。

「普通にあることです」

 担当医は事もなげに言う。

「治るのか?」

 加藤の問いかけに担当医は、治療次第です、と答えた。

「脳全体を調べ治療方針を計画しますが、この状態では今のところ正常になるか分かりません。食欲、睡眠欲はありますが、それ以外は自主的には動かないですね」

「あの敏腕刑事がこんな目に遭うなんて……」

 がっくりした表情の頼近であった。

「可哀想にな」と加藤は続けた。「一日やそこらで精神に異常を来すとは、一体、彼女に何が起きたんだ? 杉田も病状の回復が望めんようだし、楓も連絡が取れないし……」


 一方、山下倉庫では少しずつ形づけられていった。

 倉庫入り口大型シャッターには直ぐに動かせるようにライトバン、ワゴン車、十トントラックが並べられる。

 倉庫に入って突き当たりに左右に段ボールベッドが置かれる。左側が男子専用、右側は女子だ。

 その間に仕切るように、粗末ながらも杉田の治療設備が置かれた。全ては本間医院から借り受けたものだ。

 居住スペースと車両の間が会議スペース及び休憩空間だ。とはいえ焼け跡の残る長机一脚だけで床に胡座をかく様な状態だ。

 それでも巨大な倉庫はまだ十分過ぎる空間がある。

 徐々に形が出来上がってくると、天馬には多少の余裕が生まれてきた。

『もうそろそろ琴葉に連絡を取るかなあ。でもなんて切り出そう……ごめんなさいじゃすまされないでしょうし』

 そう思いながら意を決した天馬は自分の携帯で重伝を呼び出す。しかし、電源が入っていないため……と言う合成音が流れるだけだ。

『やっぱり捜査中よねえ。夕方にまた電話するか』


 呑気に呟く天馬だが重伝の様子を知るよしもない――


 午後五時

 加藤のほうは、あれこれ考えているうちに退署時間となった。緊急以外は残れない決まりになっている。

 私服に着替えている最中携帯電話が鳴り響いた。

 『天馬 楓』と表示され慌てて落としそうになる加藤伝右衛門。

「伯父様……ご無沙汰してました」

「楓か? 本当に楓か? この馬鹿野郎っ! 心配だったんだぞっ、半年もそこら音信不通で……連絡を……今頃……」

 最後のほうは涙声になっていった加藤だった。

「どこにいるんだ、楓。両親には連絡取ったのか?」

「元はと言えば伯父様が勝手に応募したからでしょ? ザキの喫茶店『そぞろあるき』で会いましょう。如何ですか伯父様」

「今行くぞっ」

 加藤は風のように宝来警察署を飛び出した。


 喫茶店そぞろあるきの喫煙ルーム。

 加藤はすっかり伯父の顔になっていた。

「腕も足もこの通り」

「凄いものだ。本物と変わりないぞ」

 加藤もすっかり腕と足を撫で繰り回す。端から見ればスケベジジイが女性をホテルにでも引っ張り込むんじゃないか、と思わせる光景だ。

 ひとしきりの再会の感激も落ち着くと、天馬は尋ねる。

「伯父様は勤務中と思って、先に何度か琴葉に連絡を取ろうとしていたんですけど、電源が入っていない、の繰り返しで。ちょっと不安になって……伯父様何か知りません?」

 この問いかけに加藤は私人から警官の顔つきになった。


 しばしの沈黙――


「どうかしました?」

 その沈黙が天馬の不安を増強させる。

「……落ち着いて聞いてくれ、実はな……」

 ショックを与えないように慎重に言葉を選ぶ加藤。それでも天馬には予期していなかった衝撃だ。

「うそっ!」

 大声を上げ立ち上がるのを周囲はビックリして二人を見つめた。慌てたようにチーフマネージャーがとんできた。

「お客様っ、どうかされましたか?」

「失礼しました、大丈夫です」

「お連れの方に何か?」

 チーフマネージャーは訝しげに憤然とした表情で腕を組んでいる加藤を見る。

「驚かせてしまい申し訳ありません。こちらの方、警察官ですので心配しないでください」

「分かりました、何かありましたら……」

 そう言いながらマネージャーはその場を離れていった。

「やはり突然だから驚くのも無理ない。ワシも最初は信じられなかったぞ」


 そう言う加藤だが失禁は話さなかった。それは尊厳に触れることだ。


 天馬は顔を覆った。「……会わせて……」

「警察官上司として面会できたが、今は関係者しか面会出来ないのだ。時が来れば面会出来ると思うが今は耐えてくれ」

 加藤は楓と連れだって妹夫婦に会おう、と思っていたが、憔悴した天馬を見ると、とてもそんな雰囲気ではない、と悟った。

 暫くして別れた天馬は、寺家に今夜は自宅に戻る、と一報を入れ、ふらふらした足取りで自宅マンションに戻った。

 扉に鍵を差し込みゆっくりと開ける。

 ……お帰り……

 重伝の声が頭に響く。しかし出迎える住人はいないのだ。

 玄関のたたきから廊下を通る。突き当たりのリビングに入る。なんの変化も感じられず全て昔のままだ。

『綺麗に使っていたのね』

 周りを見回しながら、テーブルの上の手紙に気がついた。何気なく取り上げる天馬。

 そこには重伝の『覚悟』の筆跡。読み終えると再び涙がこみ上げてきた。

 それは滝の如く――止めどなく――


 新章 第10話その1 へと続く


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